第11話 消火栓の裏の部屋
「それぞれ、少しずつ顔立ちが違うんですね」
授与所に整然と並ぶ大小の招き猫を見比べながら、真由美は呟いた。
「ええ、すべて職人の手描きですから。どの子と巡り合うかも、ひとつのご縁ですよ」
巫女の柔らかな声が静けさに溶けていくなか、真由美の視線は、ふとひとつの置物に吸い寄せられた。
白地に墨を散らしたような黒のブチが入った、中ぶりの招き猫。
「……白黒だなんて、珍しい」
思わず声がこぼれていた。
「ええ、少し変わり種ですね」
巫女が穏やかに目を細め、並ぶ猫たちを指先でそっと示す。
「古くから招き猫の王道といえば、あらゆる幸を招く『三毛』と相場が決まっております。滅多に生まれぬオスの三毛は奇跡の象徴でしたから。けれどこの国では昔から、単色の猫も深く愛されてきた歴史があるんですよ。穢れを払い万事に福をもたらす純白の『白』。そして、夜目がきき強い霊力で厄を退けると江戸の昔から重宝された、魔除けの『黒』……。どちらも人を守るための、尊い色でございます」
巫女の言葉に相槌を打ちながらも、真由美の手は自然とその白黒の猫へと伸びていた。
福を招く清らかな白と、闇を睨み厄を払う深い黒。
そのふたつを雑多に引き受けたような猫は、眉間に微かな陰影を寄せ、どこか不服そうな面持ちをしていた。
誰かに愛想を振りまく気など爪の先ほども持ち合わせていないような、ふてぶてしい目つき。
それがかえって嘘偽りのない誠実さのように思え、真由美の胸の奥へすんなりと収まった。
真由美はその猫をひとつ買い求め、両手で抱きかかえるようにして家路についた。
昭和40年に生を受けた真由美は、平成5年のこの時、28歳。
休日にのんびりとテレビを眺めることくらいしか楽しみはなく、これといって心を奪われるものも、人と深く交わる暮らしも望まなかった。
誰かと寄り添う未来を思い描くこともなく、「きっと自分は生涯ひとりで歩いていくのだろう」と静かに腹を括り、覚悟を決めて築22年の中古マンションの一室を買い取ったばかりだった。
空っぽの新居の飾りに招き猫を選ぶあたり、いかにも昭和の空気を纏った真由美らしい選択といえた。
リビングの片隅、テレビのすぐ脇が、その猫の定位置になった。
それからの日々は、ささやかでありながら、ひだまりのように穏やかだった。
勤め先から戻ると、まず「ただいま」とその頑なな頭をぽんと撫でる。
夕餉の小さな鍋をつつきながら他愛のない番組に笑い転げれば、まるで隣で共に画面を見つめているかのように、招き猫は不服そうな表情のままそこに佇んでいた。
「なにその顔。退屈なの? じゃあ、変えようか」
独り言に返る声などあるはずもない。
けれど、部屋に寂しさが居座ることはなかった。
お正月には端切れで小さな赤い座布団を縫って敷いてやり、ささやかな賞与が出た夜には、少し贅沢な缶詰のマグロをほんのひと匙、小さな皿に盛って供えた。
焼き物の置物が口をつけるはずもなく、翌朝には苦笑しながら片付けることになるのだが、そんな日々の細やかな営みが、無機質だった空間にやわらかな体温を灯していった。
年月は足音もなく駆け抜け、築42年を迎えた部屋で、真由美は48歳になっていた。
その年の冬、彼女の身体を重い病の影が覆う。
残された時間がそう長くはないと悟った真由美は、病床の枕元に、20年の歳月を共に過ごした招き猫を母に頼んで運ばせた。
時を経てわずかに色あせ、それでも変わらず不服そうな眼差しを向けてくる相棒を見つめ、真由美はそっと指先でその耳朶をなぞった。
「……あの部屋は、あなたにあげるね」
微笑みを浮かべた唇から零れたのは、心の底からの本音だった。
誰よりも長く、同じ景色を眺め、孤独を分け合ってくれた唯一の存在へ手渡す、たったひとつの贈り物。
その言葉を約束のように残し、翌年の春、真由美は49年の静かな生涯を閉じた。
遺された母親は途方に暮れた。
築43年の古びた部屋に引き手があるとも思えず、大金を投じて手を入れる気力も湧かない。
結局、真由美が慈しんだ家具も、見慣れたテレビも、日焼けしたカーテンも、そして棚の上の招き猫さえもそのまま残した状態で、格安の家賃で貸しに出された。
そこへふらりとやってきたのが、ひとりの男だった。
誰かの生活の痕跡が濃く染み付いた空間を気味悪がる風もなく、「安くて家財が揃っているなら願ってもない」と飄々と笑うような、浮世の枠から少しはみ出した男だった。
身の回りのわずかな手回り品だけで移り住んできた男は、部屋の中を面白そうに眺め歩いた。
そして、テレビの脇にちょこんと据えられた招き猫の前に立つと、まじまじと見つめて首を傾げた。
「……おや」
何かを言いかけて口元を緩め、それ以上は何も追究せず、軽く一礼をしてみせた。
男との奇妙な暮らしが始まってから、部屋の空気には、夢現のような小さな揺らぎが混ざり始めた。
男が古書店で拾ってきた落語や講談の速記本を広げ、晩酌の杯を傾けながら低く節をつけて読んでいると、背後の棚のあたりから、かすかに畳の目を撫でるような気配がする。
振り返れば、招き猫はいつもと同じ場所で頑なな顔をして鎮座しているのだが、陽光の下で見た時よりも、ほんのわずかだけ男の座敷へ顔を傾けているように見えた。
あるいは、飲み残した缶ビールを卓袱台に置いたまま、男がうたた寝から目覚めた朝。
板張りの床の上に、なぜか白と黒の混ざり合った、柔らかな獣の毛のようなものが一筋だけ、ふわりと落ちていることがあった。
男はその毛先を指先でつまみ上げると、棚の上の猫を見上げて口の端を吊り上げた。
「なにしてんだい、お前さんは。ちっとは愛嬌ってものを覚えな」
まるで気の置けない同居人に声をかけるように、独り言を落とす。
男の喉から漏れる低く掠れた音読の声と、気だるげなべらんめえ調の響きが、真由美の記憶が眠る壁の奥へと、静かに幾重にも沁み渡っていった。
招き猫の陶肌は、長い年月の湿り気を吸ったせいか、いつしか生き物のぬくもりを宿したような、不思議な柔らかさを帯び始めているように見えなくもなかった。
そんな境界の曖昧な同居が10年続き、建物が築53年を迎えた頃、老朽化による解体と立ち退きの知らせが届いた。
「やれやれ。おいら達も、そろそろお暇を出される刻限らしいぜ」
男は淡々とそう言い残し、小さな鞄ひとつを提げて、あっけらかんと部屋を去っていった。
最後にパタンと扉が閉ざされた瞬間、がらんとした空間の棚の上で、招き猫の黒い瞳が一筋、光をすくい取ったように見えた。
数日後、重機が立ち並び、巨大な鉄の爪が古い外壁を砕くべく迫った。
けれど、その刹那に何が起きたのかを、確かに見届けた者はいない。
作業員たちの控え帳にはただ、「7階のその区画だけ、なぜか壁が崩れる際の粉塵が異常な濃さで立ち込め、一切の視界を奪われた」とだけ記されていた。
真由美が遺した家具も、カーテンも、古いテレビも、そして棚の上の白黒の猫も――瓦礫の山から姿を現すことは二度となかった。
季節は巡り、その跡地には洗練された現代的なマンションが聳え立った。
設計図通りにまっすぐ引かれた7階の共用廊下。705号室と706号室の間。
そこにはなぜか、図面の数値よりもわずかに広い不可解な余白が生じ、帳尻を合わせるように、古びた消火栓の鉄扉が嵌め込まれることとなった。
その扉の奥、壁の向こう側から、ときおり微かに染み出してくる、低くブツブツと呟くような声。
それは誰かが遠い日の本を音読している節回しのようでもあり、あるいは、せっかく手に入れた自分の部屋を外から覗き込まれ、眉をひそめた住人が漏らす、かすかな小言のようでもあった。




