第20話 壁は家になる
シェアハウスの朝は、かつて極度の緊張と胃痛の象徴だった。
この一番狭い部屋のシングルベッドで目を覚まし、お2人が醸し出す極上の百合波動に己というノイズを混ぜないよう、存在感を完全に消し去って『壁』と同化する準備をする。それが俺のストイックなルーティンだったはずだ。
だが、今の朝はまったく違う。
「ん……悠真、おはよう」
「……おはようございます、悠真くん」
右から甘い吐息。左から柔らかい声。
目を覚ますと、俺の両脇には凛花と澪が潜り込んでいる。シングルベッドに3人で寝るという物理的な無茶を、彼女たちは俺にぴったりと密着することで強引に解決していた。
「……おはよう、凛花。おはよう、澪」
ごく自然に、2人の名前を呼ぶ。
その瞬間、俺の右腕にしがみついていた凛花が、嬉しそうに目を細めて澪の方を見た。澪もまた、左腕に頬を擦り寄せながら、凛花と愛おしげに視線を交わす。
お互いの寝癖を直し合い、微笑み合う2人。そこに俺が挟まっているという構図。
(……ああ、ダメだ。朝から致死量だ……ッ!)
かつてなら「俺という不純物が百合空間を穢している!」と胃痛にのたうち回っていた【百合センサー】が、今はまったく違う反応を示している。
2人から俺に向けられる純度100%の愛。そして、俺を愛でることでより一層深まる2人の百合の絆。それらが完璧に同期し、かつてない『多幸感のオーバードーズ』となって俺の全身細胞を満たしていく。
「悠真、今日のネクタイは私が選ぶわ」
「ダメです凛花。私が昨日アイロンをかけたネイビーのストライプがあります。悠真くんにはあれが一番似合うんですから」
「澪の選ぶのは地味すぎるのよ。もっと攻めた色にしないと」
「悠真くんは総務部なんですから、悪目立ちしてどうするんですか。ねえ、悠真くん?」
「私のも似合うわよね、悠真?」
俺の胸の上で繰り広げられる、和やかで甘すぎるマウントの取り合い。
俺は抵抗することをとうの昔に諦め、ただ天井を見上げて「どちらも最高です」とだけ答えた。
幸せすぎて、本当に頭がおかしくなりそうだ。
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会社での俺たちは、相変わらず「ただの総務部員」と「社長・秘書」の仮面を被っている。
「相馬。昨日の会議資料だけど、少し数字が甘いわね。昼までに修正して出し直しなさい」
「はい、申し訳ありません。すぐに対応いたします」
氷の女帝としての冷徹な声。深く頭を下げる俺。周囲の社員たちが同情の視線を向けてくる。
だが、書類を受け取るその一瞬、凛花の小指が俺の手の甲をチリッと甘く撫でた。さらに背後に控える澪が、バインダーの陰で俺に向けて小さくウインクを飛ばしてくる。
偽装は終わり、親族からの見合いの圧力という外堀も完全に消滅した。
だが、当然ながら日本の法律で『3人』の名前を婚姻届に書くことはできない。世間体や会社の目線を考えれば、俺たちの関係は決して表沙汰にできるものではないのだ。
(だが、だからこそ良い……ッ!)
視線の交差、指先の微かな接触、通り過ぎる瞬間にだけ残る甘い香水の匂い。
世間から自分たちの愛という聖域を守り抜くための、最高にスリリングで幸せな『3人だけの秘密』。
俺はポーカーフェイスを貫き、ただの平社員としての「壁」の防衛術を平和利用しながら、脳内で彼女たちからの熱烈なサインを噛み締めていた。
「師匠!」
昼休みの屋上。1人で息をついていると、背後から元気な声が降ってきた。
振り返ると、ドヤ顔で仁王立ちする雫の姿があった。
「そろそろ、私を第二夫人として迎える準備はできましたか! いつでも実家を捨てて嫁ぐ覚悟は完了しています!」
「いや、第二夫人って実質3人目だし……そもそも重婚は犯罪だから」
「関係ありません! お姉ちゃんたちが2人で師匠を独占して『家族』になったというなら、私だってそこに嫁ぐ権利があるはずです!」
雫が詰め寄ってきたその時、背後の扉がバンッと開いた。
「あら、ずいぶんと威勢のいい泥棒猫がいるわね」
「雫。お姉ちゃん、そういうはしたない子は嫌いですよ」
凛花と澪が、一切の隙のない足取りで歩み寄ってくる。
2人は俺の前に立つと、完璧なシンクロ率で並び立ち、雫を冷たい――しかしどこか楽しげな笑顔で見下ろした。
出た。【ダブル・ユリ・シールド】。
妻としての圧倒的な結託。俺という存在を巡る、美しすぎる縄張り争い。
雫は「ひっ」と小さな悲鳴を上げつつも、「負けませんから!」と捨て台詞を吐いて逃げていった。
「もう……油断も隙もないんだから。悠真、変な気を起こしてないでしょうね?」
「俺はお2人のことだけで手一杯ですよ」
凛花と澪が顔を見合わせ、満足そうにくすくすと笑い合う。
俺たちだけの甘い秘密は、今日も平和に機能している。
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夜、シェアハウスのキッチン。
鍋の中で、パチパチと油の爆ぜる小気味良い音が響いている。
「澪、揚がった? もう食べていい?」
「まだです凛花。しっかり火を通さないと。それに、つまみ食いは行儀が悪いですよ」
「一つくらい減ってもバレないわよ。ね?」
得意のからあげを揚げる澪と、その横で完成が待ちきれずにそわそわとしている凛花。料理を澪と俺に任せている凛花だが、こうして2人の邪魔をしながらいちゃつくのが最近の彼女の日課だった。
俺は手慣れた様子でご飯をよそい、熱々の味噌汁を注ぐ。
(……思い出すな)
ふと、シェアハウスでの生活が始まったばかりの頃を思い出した。
「どうしたの、悠真? そんな顔をして」
「いえ……昔、『メインディッシュは澪の領域だから、俺は引き立て役の味噌汁を作る』って言ったことを思い出しまして。あの頃は、ただの裏方でいようと必死だったな、と」
俺の言葉に、凛花と澪は手を止め、こちらを向いた。
凛花が、揚げたてのからあげが乗った皿をテーブルに置きながら微笑む。
「からあげだけじゃダメよ。胸焼けしちゃうもの」
澪が、俺の手から味噌汁のお椀を優しく受け取る。
「お味噌汁だけでもダメです。それだけじゃ、力が出ませんから」
2人は俺の両側に立ち、俺の手をそっと握った。
「からあげと、お味噌汁と、ご飯。三つ揃って初めて、私たちの完璧な食卓になるの」
「ええ。3人で一つの、完璧な家族です」
その言葉に、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
こんなにも温かい居場所を、俺は手に入れてしまったのだ。
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食後のリビング。
俺はソファの中央に座り、右肩に凛花、左肩に澪がもたれかかっている状態だ。
テレビのバラエティ番組の音が小さく流れているが、誰も画面など見ていない。凛花と澪は俺の胸の前で手を繋ぎ、俺越しに愛おしそうに微笑み合っている。
(究極の百合夫婦の間に挟まる、ただの偽装夫)
俺はずっと、透明な壁になろうとしていた。
お2人の世界を守るため、決して交わらず、干渉せず、ただの無機質な背景になりたかった。
(でも、見事に失敗したな)
俺が挟まることで、百合は壊れるどころか、より新しい熱量を持って輝いている。
壁にはなれなかったけれど。
その代わり、俺はこの温かい『家』になったのだ。
「……悠真?」
俺の視線に気づいたのか、2人が同時に顔を上げた。
「愛してるわ。私たちの旦那様」
「これからもずっと、よろしくお願いしますね。悠真くん」
右と左から、同時に頬に柔らかい感触が降ってきた。
甘い香りと、圧倒的な多幸感。そして、少しばかりの胃痛(照れ)。
俺の最高に幸せな日常は、これからもずっと続いていく。
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