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第六章 城

  切り立った断崖だった。

  ほとんど垂直と言っていい。

  まともに登れそうな場所などどこにもない。


  だが問題はなかった。


  血の旋刃が岩肌を掠める。

  岩片が飛び散り、

  次の瞬間には深い切れ込みが刻まれていた。


  リコはその縁を掴む。

  

  軽く力を込めるだけで、

  次の足場へと身体を跳ね上げた。


  シャツは少し動きにくい。

  

  時には旋刃が切れ込みを作るどころか、

  岩そのものを砕いてしまうこともある。


  それでも登れる。


  ----------------


  その頃。


  山道は魔術弾の光によって昼間のように明るく照らされていた。


  前衛の盾役たちが、

  暴走体の猛攻を必死に受け止めている。


  だが高所に陣取った黒ローブたちの射撃は厄介だった。

  

  盾兵を避けるように軌道を変え、

  後方の部隊へ直接降り注いでくる。


  それに――狭い。

  あまりにも狭かった。


  八個小隊が展開していても、

  実際に敵と交戦できるのは先頭の二隊だけ。


  残りの隊員たちは後方で魔術弾を避けながら、

  支援攻撃を行うしかなかった。


  セレナは小さく舌打ちする。


  あいつ、

  もう中に入ってたりしないでしょうね。


  胸の奥が妙にざわつく。

  

  だが焦ってはいけない。

  

  今飛び出しても意味はない。

  

  小隊同士の連携を維持しながら突破する。

  

  それが結局、一番早い。


  セレナは気持ちを押し込める。

  

  そして再び、

  第三隊への指示を飛ばした。


  ----------------


  天守最上階。


  広い部屋の中で、

  アルカードは小さくため息をついた。

  

  「千年以上経っても、相変わらずか」


  「はい」

  

  もう一人の男が深く頭を下げる。

  

  「だからこそ我々は変革を求めているのです」


  教団関係者だろう。

  おそらくは幹部クラス。


  その時だった。

  

  窓の外から声がした。


  「変革ねぇ」

  

  「僕にはただの大量殺人にしか見えないけど?」

  

  声と共に、

  リコが窓から室内へ飛び込んできた。


  ----------------


  部屋の中央。


  アルカードは主座に胡坐をかいていた。

  

  初めて会った時と変わらない笑み。


  その正面では、

  黒ローブの男が跪いている。


  二人の間の机には一冊の本。

  銀色の十字架が刻まれた革表紙。


  そして机全体を覆うように、

  強力な結界が展開されていた。


  アルカードはその結界へ指先を当てる。


  トン。


  軽く触れるたびに、

  水面のような波紋が広がっていく。


  「やあ」

  

  右手は結界を叩いたまま。

  

  左手だけをひらひら振った。

  

  「ようこそ、我が城へ」


  「ち、違うのです!」

  

  黒ローブの男が慌てて声を上げる。

  

  「全てには理由が――」


  だが誰も聞いていなかった。


  リコの周囲には、

  

  すでに二十を超える旋刃が展開されている。


  次の瞬間。

  

  紅い軌跡が部屋中を埋め尽くした。

  

  全方向からの同時攻撃。

  

  速すぎる。

  

  残像だけが視界へ残った。


  だが。


  「君も、あの人に連なる者なんだろう?」

  

  アルカードは呑気に言う。

  

  「もう少しくらい礼儀を覚えたらどうだい?」


  いつの間にか。

  

  彼は窓際へ移動していた。

  

  移動した瞬間すら見えない。

  

  まるで一度消えて、

  別の場所へ現れたようだった。


  「……あの人?」

  

  リコは警戒を解かない。


  表情こそ揺れたものの、

  即座に結界とアルカードの間へ割り込んでいた。


  「別に」

  

  アルカードは肩を竦める。


  そして戦闘など存在しないかのように、

  窓の向こうの空を眺めた。

  

  どこか懐かしむような眼差しで。


  リコの血刃も動かない。


  無理に攻める必要はなかった。

  

  結界から引き離せた。

  

  それだけで、

  今の目的は果たせているのだから。


  沈黙を破ったのは、跪いていた黒ローブの男だった。

  

  「我々が御二方を目覚めさせたのは、この社会が――」


  「今それを話す必要ある?」

  

  アルカードが面倒そうに口を挟む。


  先ほどまで窓の外へ向いていた意識が、

  ようやく室内へ戻ってきたらしい。


  「とりあえず下がっててくれないかな」

  

  どこか不満そうな声音だった。


  リコは心の中で深く頷く。


  そうそう。

  どうせまたあの手の話だろうし。


  それより。

  今目の前にいるのは生きた伝説だ。


  「で?」

  

  リコは顎で机の方を示した。

  

  「目的はあの本?」


  背後は見ない。

  

  見なくても分かる。

  

  黒ローブの男が静かに部屋を出ていく気配だけが聞こえていた。


  先ほどの移動速度が異常すぎた。

  一瞬たりとも視線を外したくない。


  「うん」

  

  アルカードはあっさり頷く。

  

  「世界を平和に戻すための鍵だよ」


  「へぇ?」

  

  リコは眉を上げた。

  

  「平和?」

  

  「伝説の魔王様が言う台詞には聞こえないけど」


  「そうかな?」

  

  アルカードは楽しそうに笑う。

  

  「じゃあ若い吸血鬼のお嬢さんは、

  魔王ってどんなことを言うと思う?」

  

  まるで本当に世間話でもしているみたいだった。


  リコは少し考える。

  

  「世界征服とか?」

  

  それから適当に付け加えた。

  

  「『世界よ、我に従え』とか」


  「まあ、間違いじゃないよ」

  

  アルカードは軽く頷いた。

  

  「結局のところ――」

  

  「全員が一人に従えば、争いはなくなるからね」


  は?

  

  リコは思わず瞬きをした。


  言いたいことは分かる。

  

  確かに。

  

  誰か一人に全員が従うなら、

  内輪揉めは減るだろう。


  だが。

  

  それはさすがに極論すぎる。


  すると。

  

  アルカードの表情が少しだけ曇った。


  「そうか」

  

  「やっぱり君たちも覚えていないんだね」

  

  どこか寂しそうな声だった。


  「だからさっきから何の話!?」

  

  リコが思わず突っ込む。

  

  「話が半分しか見えないんだけど!」


  アルカードは苦笑した。

  

  だがその笑みには、

  どこか孤独が滲んでいた。


  「簡単な話だよ」


  「平和がどれほど尊いものか」

  

  「それを忘れないために」

  

  「僕は君たちを作ったんだよ」


  「いや、本当に!?」

  

  「吸血鬼って種族そのものを!?」

  

  リコの目が丸くなる。


  伝説ではそうなっている。

  

  だが。

  

  本当にそんなことが可能なのだろうか。


  アルカードは肩を竦めた。

  

  「正確には最初の世代だけだけどね」

  

  「その後は普通に増えていったし」


  リコは口を閉じた。


  僕が生まれた頃には、

  君はとっくに姿を消していたよね。

  

  そう言うつもりだった。


  だが代わりに別の質問を投げる。

  

  「つまりさ」

  

  「本気で言ってるんだ?」


  アルカードは即答した。

  

  「もちろん」


  そして窓の外へ視線を向ける。

  

  激しい戦闘音が今も山道から響いていた。


  「僕は嫌いなんだ」

  

  「人が騙し合うのも」

  

  「傷付け合うのも」

  

  「だから永遠を生きる使徒たちに、それを語り継いでもらおうと思った」


  「いやいやいや」

  

  リコは思わず額を押さえた。

  

  「さっき外で人を吹き飛ばしたの誰!?」

  

  「初対面だったよね!?」


  真面目な顔でそんなことを言われると、

  余計に突っ込みたくなる。


  アルカードは不思議そうに首を傾げた。

  

  「え?」

  

  「だってあっちが先に武装して近付いてきたんだけど」


  「…………」


  リコは言葉を失った。

  

  反論したい。

  

  したいのだが。

  

  妙に筋が通っているのが腹立たしかった。


  その時だった。


  パキッ。

  

  パキパキッ。


  何かが割れる音。


  リコの表情が変わる。

  

  反射的に振り返った。


  本はそのままだった。

  

  だが。

  

  机を覆っていた結界が崩れている。

  

  砕け散ったガラスのように、

  無数の光の欠片となって宙を舞っていた。


  嘘でしょ。

  

  リコは息を呑む。


  ずっと喋っていた。

  

  しかも、あれだけ距離を取っていたのに。

  

  それなのに。

  

  結界の解析まで続けていたのか。


  「さて」

  

  声がした。

  

  すぐ目の前から。

  

  ほんの一メートルほど先。


  「お喋りはここまでかな」

  

  いつの間にか。

  

  アルカードがそこに立っていた。


  「ねぇ」

  

  穏やかな笑顔のまま。

  

  「その本、取ってくれない?」


  「もちろん断るよ」

  

  リコは即答した。


  同時に。

  

  旋刃が赤い軌跡を描きながら、

  声のした方向へ殺到した。


  ----------------


  つい先ほどまで整然としていた部屋は、今や見る影もなかった。


  壁にも床にも無数の斬撃痕が刻まれている。

  

  本を置いていた机など、とうに消えていた。

  

  部屋の隅に散らばる木片だけが、

  そこに確かに机が存在していたことを示している。


  だが。

  

  あの本だけは違った。

  

  何の革で作られているのかも分からないその本は、

  激しい戦闘の中にあってなお無傷のまま、

  

  木屑の中へ静かに横たわっていた。


  「ねぇ」

  

  リコは本の前に立ったまま言う。

  

  「なんで反撃しないの?」


  旋刃が次々とアルカードへ襲い掛かる。


  「これじゃ僕の方が悪役みたいじゃん」


  アルカードは部屋の中央に立ったまま、

  飛来する旋刃を可能な限り回避していた。


  避けきれないものは手で弾く。

  

  その度に旋刃は壁や床へ叩き付けられ、

  新たな傷跡を刻んでいく。


  間に合わないものもあった。

  

  刃は確かに彼の身体を切り裂いている。


  服は破れ、

  顔にも腕にも無数の傷が刻まれていた。


  だが。

  

  浅い。


  岩を容易く断ち切る血刃の威力を考えれば、

  あまりにも浅かった。


  例えるなら。

  

  このまま病院へ行けば、

  医者は治療より先に警察を呼ぶだろう。


  その程度の傷だった。


  「だって君は、あの人の子供だろう?」

  

  アルカードは微笑む。

  

  相変わらず、

  どこか懐かしむような優しい笑顔だった。


  その顔が余計に腹立たしい。

  

  攻撃は決定打にならない。

  

  明らかに手加減されている。

  

  そして――


  「あの人あの人って、さっきからうるさいなぁ」

  

  リコは苛立った声を上げた。

  

  「どこの誰なのか全然言わないし」


  少し考えてから続ける。

  

  「もしかして元カノ?」


  その瞬間だった。

  

  アルカードの瞳から笑みが消える。

  

  初めて。

  

  はっきりと殺気が宿った。


  「彼女を侮辱するな」

  

  低い声だった。


  まるで怒りに呼応するように、

  アルカードの傷口から血が浮かび上がる。

  

  空中で凝縮し、

  三本の巨大な血槍となった。


  リコは理解する。

  

  自分と同じ技術だ。

  

  だからこそ分かる。

  

  ――絶対に受けてはいけない。


  ----------------


  男はタバコを深く吸い込んだ。


  どうやら制圧も終盤らしい。


  その時。

  

  若い隊員が駆け寄ってきた。


  全身泥だらけ。

  

  服には血が飛び散り、

  あちこちに傷もある。


  「第三隊のユウト君だったな」

  

  「どうした?」


  ユウトは荒い息のまま敬礼した。

  

  「セレナ隊長からの伝達です!」


  部長は軽く頷く。

  

  「聞こう」


  「主要通路の制圧は完了しました!」

  

  「現在も天守最上階にて友軍が目標と交戦中!」

  

  「そのため第三隊の指揮権を第二隊へ一時移譲し、隊長は友軍支援へ向かいたいとの申請です!」


  部長は少し考えた。

  

  そしてタバコを地面へ落とし、

  靴底で踏み消す。


  「……いいだろう」

  

  短く答えた。

  

  「許可する」


  それから付け加える。

  

  「ただし戦闘終了後、その友軍とやらについて詳しく報告してもらうぞ」


  「了解!」

  

  ユウトは再び敬礼し、

  激戦の続く山道へ走っていった。


  ----------------


  「へぇ」

  

  アルカードは少しだけ目を見開いた。

  

  「なかなかやるね」

  

  「見よう見まねでそこまで出来るとは思わなかった」


  だが。

  

  リコには返事をする余裕がなかった。


  先ほどの血槍。

  

  血刃によって弾き逸らした。


  防いだのではない。

  

  逸らしたのだ。


  アルカードが旋刃へ行っていたのと同じ方法で。

  

  だが力の差は埋められない。


  一本だけ逸らしきれなかった。

  

  右肩の下を貫通していった。

  

  肺も半分ほど潰れた気がする。


  今のリコは壁際にもたれ掛かるので精一杯だった。

  

  吸血鬼の再生力をもってしても、

  簡単には治らない。


  しかも。

  

  体内ではアルカードの血が自分の血と混ざり合っている感覚があった。


  気味が悪かった。

  

  本当に。


  その間に。

  

  アルカードは悠々と本へ近付いた。

  

  もう誰も止められない。


  「まあ」

  

  彼は本を拾い上げながら言った。

  

  「お仕置きとしては十分かな」


  そして耳を澄ませる。

  

  外から聞こえる足音。

  

  全速力でこちらへ向かって来る気配。


  「これ以上長引くと」

  

  「また余計な殺しをしなきゃいけなくなるしね」


  そう言って窓際へ歩く。

  

  そして。

  

  そのまま空へ飛び出した。


  「またね、リコちゃん」

  

  アルカードは振り返る。


  名前を教えた覚えはなかった。

  

  それなのに、

  彼は当然のように呼んだ。


  そして。


  ドンッ!


  扉が勢いよく吹き飛ぶ。


  セレナだった。

  

  部屋の中に魔王の姿はもうない。

  

  残されていたのは――

  

  銀髪の少女だけだった。


  壁にもたれ掛かるように座り込み、

  

  胸元には目を疑うほど大きな傷が開いている。


  「リコ!」


  セレナは剣を放り出した。

  

  そのまま駆け寄る。

  

  そして少女を抱き起こした。


  「大丈夫ですか!?」


  「もう……治って……きてる……から……」


  息が続かない。

  

  一言喋るたびに呼吸を挟む。


  それでもリコは笑おうとした。

  

  「セレナちゃん……の方は……」

  

  「怪我……してない……?」


  セレナは言葉を失う。


  数秒後。

  

  ようやく絞り出した。


  「……馬鹿」


  こんな状態で。

  

  最初に聞くことがそれなのか。

  

  他に何と言えばいいのか分からなかった。


  「ごめん……」

  

  リコは弱々しく笑う。

  

  「取られちゃった……」


  「……黙っててください、バカ吸血鬼」

  

  少しだけ怒った声だった。


  リコは小さく笑う。

  

  そして安心したように、

  セレナの胸へ額を預けた。

  

  そのまま目を閉じた。

  

  静かに。

  

  深く。

  

  まるで眠るように。

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