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第四章 街

  朝。


  カーテンの隙間から差し込む朝日が、寝室の床を細く照らしていた。

  窓の外では鳥たちが賑やかにさえずっている。


  半分眠ったまま寝返りを打とうとして――


  重い。

  身体が動かない。


  金縛り?


  セレナは一気に目を覚ました。

  同時に昨夜の記憶も蘇る。


  そして現状を理解した。


  違った。


  ただのリコだった。


  自分を抱き枕代わりにして、

  気持ちよさそうに眠っている。


  セレナは心の中でため息をついた。


  そして寝返りを諦める。

  

  この子、百年寝てたんじゃなかったっけ。

  どれだけ寝る気なんですか。


  ……まあいいです。


  私ももう少し寝ましょう。


  最後にこうして誰かと同じベッドで寝たのは、

  いつだっただろう。

  妹と一緒だった頃だったかもしれない。


  もう――

  思い出せなかった。


  ----------------


  気付けばもう昼近い時間だった。


  カーテンが閉められたままの寝室には、陽の光がほとんど入ってこない。

  どこからかコーヒーと焼きたてのパンの香りが漂ってくる。


  リコはうっすら目を開いた。


  腕を動かす。


  ……あれ?


  抱き枕がいない。

  どっか行っちゃった。


  あの子、また仕事してるのかな。

  せっかく休日なのに。


  まあいいや。

  僕も起きよう。


  ベッドから起き上がりながら、まず最初に言う。

  ずっとやってみたかったことだ。


  「おはよー、セレナちゃーん」


  「おはようございます」


  セレナは顔も上げずに答えた。

  机に向かったまま書類を整理している。


  「パンとコーヒー、テーブルに置いてありますよ」


  「ねえねえ、どうだった?」


  いつの間にかリコの声がリビングから聞こえてくる。


  セレナはようやく顔を上げた。


  昨日と同じネグリジェ。

  寝起きで少しぼんやりした赤い瞳。

  銀色の長い髪が背中へ流れている。


  「何のことですか?」


  セレナは首を傾げた。


  リコは胸を張る。


  「僕、生まれて初めて『おはよう』って言ったんだよ」


  まるで大冒険でも成し遂げたみたいな顔だった。


  「……は?」


  ついにセレナの手が止まる。


  「だって今まで言う相手いなかったし」


  あまりにも軽い口調だった。


  その言葉が、

  どこまでセレナの胸に届いていたのかは分からない。


  吸血種。

  一体どんな存在なのだろう。

  家族がいるという話は聞かない。

  同族同士で集まって暮らしているという話も聞かない。


  そんな存在は――

  長い年月を、どうやって過ごしてきたのだろう。


  ----------------


  セレナがようやく思考から戻ってきた頃には、

  リコはすでにバターロールを頬張っていた。


  「えっ、今のパンってこんなに柔らかいの?」


  感動したような声を上げる。


  「ああ……昔黒パンしかなかったんじゃないですか?」


  セレナは反射的に答えた。


  「今のは白パン?高級な品種の小麦で作ったの?」


  リコはパンを飲み込んでから首を傾げる。


  「いえ、品種というより加工技術ですね……」


  「へぇ~」


  リコは素直に感心したように頷いた。


  「人間って本当に色々考えるんだね」


  リコがパンをものの数口で食べ切り、


  一口だけ飲んだコーヒーをテーブルの端へ押しやったのを見て、

  セレナはようやく仕事へ戻ろうとした。


  だが。


  「ねぇねぇ、セレナちゃん」


  リコがひょこっと顔を寄せてくる。


  「朝ごはんちょうだい」


  「は?」


  セレナはペンを机に置いた。


  「今食べていたでしょう?」


  リコは自分の尖った犬歯を指差す。


  「僕、吸血鬼だよ?」


  嫌な予感がした。


  「人間の食べ物はすごく美味しいんだけどね~」


  リコは少し困ったように笑う。


  「栄養にはならないんだ」


  やっぱり。


  「だからさ」


  リコはさらに身を乗り出した。


  「セレナちゃんの血、ちょっとだけ飲ませて?」


  「絶対痛くしないから」


  セレナは予想通りという顔になった。


  「却下です」


  「えぇ~」


  リコは露骨に不満そうな声を出す。


  「だってすごく美味しそうな匂いするのに」


  「もっと嫌です」


  セレナは即答した。


  それから咳払いを一つ。


  「『異種生物管理法』により、

  生体組織および血液を直接食料として摂取する行為は禁止されています」


  「えぇぇ~」


  今度は本格的に肩を落とした。


  「でもお腹空いたんだもん」


  リコはしゃがみ込み、

  セレナの服の裾を掴んで見上げる。


  まるで捨て猫だった。


  セレナは大きくため息をつく。


  「仕方ありません」


  「一緒に出かけましょう」


  「異種向けの専門店なら、それ用の商品が売っているはずです」


  リコはぱちぱちと瞬きをした。


  よく分かっていないらしい。

  それでも反対はせず、素直に頷いた。


  ----------------


  二人とも私服だった。


  しかも驚くほど似ている。

  まるで対戦ゲームの1Pと2Pみたいだった。


  タンクトップ。

  シャツ。

  ジーンズ。


  ほとんど同じ組み合わせだった。


  当然といえば当然である。

  

  どちらの服もセレナのクローゼットから引っ張り出したものなのだから。


  なぜなら、リコには外出用の服が一着もなかった。


  玄関で靴を履きながら、

  セレナはふと思い出したように動きを止める。


  「あ」


  「そういえば、あなた今外に出ても大丈夫なんですか?」


  「ん?」


  リコが首を傾げる。


  「今日は快晴ですよ?」


  「それがどうかしたの?」


  数秒考え込んでから、

  リコはぽんと手を叩いた。


  「あー」


  「日焼けの心配?」


  「違います!」


  セレナは即座に否定した。


  そして言い直すように尋ねた。


  「吸血種って日光は平気なんですか?」


  リコはきょとんとした。


  ようやく意味を理解する。


  「え?」


  「いやいや」


  「それ迷信じゃない?」


  「…………」


  しばらく沈黙したあと。


  百年眠っていた吸血鬼が目の前にいる。


  今さら何を言っているんでしょうか。


  セレナは何も言わず、

  そのままドアを開けた。


  ----------------


  セレナは思った。


  自分は幼稚園の先生になったのかもしれないと。


  一日で溜まった疲労は、

  書類仕事を一日中していた時と同じくらいだった。


  例えば家を出た直後。


  「セレナちゃん」


  「昨日の自動馬車は?」


  「なんで歩くの?」


  「自動馬車じゃなくて巡回車です」


  「それに公用車の私的利用は禁止されています」


  「公用車?」


  「私的利用?」


  「つまり今日は使えないということです」


  セレナは結論だけ伝えた。


  例えば駅では。


  「セレナちゃん」


  「この紙切れなに?」


  「切符です」


  「電車の職員に見せれば料金を払った証明になります」


  「でもさ」


  リコは切符をひらひら振る。


  「お金を直接渡せばよくない?」


  「なんでわざわざ紙にするの?」


  「…………」


  セレナは少し考えた。


  そして。


  「……効率だけ考えればそうかもしれませんね」


  「でも昔からそういう仕組みなんだと思います」


  と答えた。


  リコは素直に感心したように頷く。


  「人間って不思議だねぇ」


  ----------------


  ようやく移動が終わり、商店街のレストランへ腰を落ち着けた時。


  セレナは心の底から安堵していた。


  「これ、まずいねぇ」


  リコはゼリーでも吸うように血漿パックを一口吸い上げる。

  そして露骨に顔をしかめた。


  「全然新鮮じゃない」


  「何年も冷凍されてたみたいな味がする」


  「吸血種自体がほとんどいませんからね」


  セレナはカレーを一口食べながら答える。


  「在庫があるだけでもありがたい方ですよ」


  「むぅ……」


  リコは空になった血漿パックを嫌そうにテーブルの端へ押しやった。


  そして次の瞬間には身を乗り出してくる。


  「ねぇねぇ、それ一口ちょうだい」


  「ちょっ、待ってください」


  スプーンを奪おうとするリコを避けながら、


  セレナは慌てて制止した。


  「新しいスプーンを頼みますから」


  「はーい」


  素直に引き下がった。


  ――ように見えた。


  セレナが店員を呼ぼうと振り向いた瞬間。


  「隙あり!」


  リコが飛び出した。


  スプーンをひったくる。


  そしてカレーを大きく一口。


  「おいしい!」


  満面の笑みだった。


  満足そうに咀嚼すると、

  そのままスプーンを返してくる。


  セレナは受け取ろうとして。


  止まった。


  そして無言で店員へ向き直る。


  「すみません。スプーンをもう一本お願いします」


  「え?」


  リコが目をぱちぱちさせた。


  からかうつもりで言った。


  でも少しだけ、本当に気になっていた。


  「僕のこと嫌いになった?」


  「違います」


  セレナは即答した。


  「さっき血漿飲んでましたよね?」


  「うん」


  「だからです」


  「えぇ~」


  納得していない顔だった。


  ----------------


  そんな一日だった。


  ため息をつきたくなるほど騒がしくて。


  それなのに、

  どこか笑ってしまうような一日。


  本来なら。


  本当に、本来なら。


  そうして終わるはずだった。


  だが転機は、

  誰も予想していない形で訪れる。


  ----------------


  昼食を終えたあとだった。


  セレナは明日提出する書類が残っているという理由で、

  リコの提案を次々と却下していた。


  高層ビルに登りたい。


  却下。


  水族館に行きたい。


  却下。


  そうして二人は帰宅するため列車へ乗り込んだ。


  空中を走る浮遊列車。


  細長い銀色の車体が、

  まるで空を泳ぐ龍のように都市の上空を駆け抜ける。


  本来なら、

  そうなるはずだった。


  だが車両は故障のため駅へ停車したままだった。


  リコは退屈そうに窓の外を眺めている。


  いや。


  退屈というより興味津々だった。


  百年ぶりの世界だ。


  何もかもが珍しい。


  「ねぇねぇ、セレナちゃん」


  リコが窓の向こうを指差した。


  「アレなに?」


  「何かの儀式?」


  セレナは反射的にため息をつく。


  そして指差された方向を見て――

  固まった。


  明らかに魔法陣だった。


  しかも規模が異常に大きい。


  今は昼間だ。


  見通しの良い上空とはいえ、

  ここからでも赤い光がはっきり視認できる。


  それだけで分かった。


  尋常な規模ではない。


  そして、その場所をセレナは知っていた。


  指定封印地。


  立ち入りが絶対に禁止されている区域。


  指定封印地で発生した異常事態は、

  すべて第一種緊急案件として扱われる。

  

  休日かどうかは関係ない。

  最寄りの管理局職員には即時出動義務がある。


  ----------------


  管理局へ異常反応を報告したあと。


  セレナとリコは列車を降りた。


  駅の外へ出る。


  そして管理局の身分証を提示し、

  乗客を降ろしたばかりの民間車両を借り上げた。


  目的地は一つ。


  赤い魔法陣が浮かぶ場所。


  指定封印地だった。

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