第三章 居場所
魔導砲が破壊された時点で、
戦いの行方は決まっていた。
「ほらね」
リコは腕の中の少女の頭を優しく撫でた。
「もう大丈夫でしょ?」
「お姉ちゃん……」
少女の視線は、
銀髪の少女の身体を貫く鉄筋へ向けられる。
「痛くないの?」
「うん。だって吸血鬼だもん」
リコは柔らかく微笑んだ。
それから何かを思い出したように、
指先から血を一滴生み出す。
少女は不思議そうに瞬きをした。
するとリコが言った。
「これ、飲んで」
これって――血だよね?
ほんの少し。
豆粒ほどの量しかない。
しかも重力を無視するように、
人差し指の先で静かに浮かんでいる。
でも、どう見ても血だった。
「飲めば痛くなくなるよ」
その言葉を聞いて、
少女の目がぱっと輝いた。
そして力強く頷くと、
その一滴を飲み込む。
次の瞬間。
まるで奇跡だった。
身体中を襲っていた痛みが、
一つ残らず消えていた。
「ほんとだ……」
少女は自分の足で立ち上がり、
呆然と呟いた。
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気付けば戦闘は終わっていた。
青黒いショートヘアを揺らしながら、
セレナが駆け寄ってくる。
黒い戦闘服は土埃にまみれ、
ジャケットにも大量の血が飛び散っていた。
だが目立った外傷はない。
二人の距離が近づくにつれて、
細剣の中に溶け込んでいた紅い光が分離していく。
再び旋刃の姿へ戻り、
空中へ浮かび上がった。
そして――
ヒュッ。
血の旋刃が、リコの身体を貫いていた鉄筋を切断した。
残った部分を自分で引き抜くと、
セレナの肩を借りて立ち上がった。
「ありがと~」
まるで転んだ小学生が友達に起こしてもらったかのような気軽さだった。
セレナは思わず苦笑する。
「お礼を言うのはむしろ私の方でしょう」
その会話をしている間にも、
リコの傷口はみるみる塞がっていく。
セレナは目を見開いた。
「だったら、どうしてさっき治療しなかったんですか?」
「だって誰かさんが無茶してたし」
リコは当然のように答える。
「先にそっちを手伝わないとダメかなって」
セレナは何か言いかけた。
結局、
リコを車まで送り届けたあと。
通信端末へ向かう途中で、
小さく呟いた。
「普通は……まず自分を優先するものだと思うんですけど」
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今夜はきっと、
街のあちこちで管理局のパトランプが朝まで回り続けるのだろう。
負傷者の救助。
犯人の確保。
街の復旧。
やるべきことはいくらでもある。
だが少なくとも、
車内でぐったりしている第三隊の面々は今夜くらいは休ませてやりたかった。
あのセレナでさえ、
駆け付けた後処理部隊との引き継ぎを終えると、
シートへ身体を預けて大きく息を吐いた。
ユウトなどは運転席でぐったりしており、
ハンドルに額を押し付けたまま動こうともしない。
「ねぇ」
リコがセレナへ話しかけた。
「このまま管理局に行ったら、面倒なこといっぱいあるんだよね?」
「そうですね」
即答だった。
リコの正体を考えれば、
誰だってそう答える。
「今日くらい勘弁してよ~」
リコは甘えるように、
セレナの上着の裾を引っ張った。
「今日はもう動きたくないんだもん」
セレナはリコの黒いドレスを見る。
あちこち破れ、
もはや原形も怪しい。
少し考えたあと、
小さく頷いた。
「……分かりました」
「どうせ明日は休日ですし」
「管理局へ行くのは明後日にしましょう」
「やったー!」
リコは飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。
実際には少し上体を起こしただけで、
すぐシートへ身を預けたが。
「あ、そうだ」
そして当然のように次の要求を口にする。
「僕、泊まる場所ないんだよね」
「セレナちゃんの家に泊めて?」
「…………」
セレナが固まった。
隊員たちの視線が一斉にセレナへ集まった。
ユウトでさえ運転席からこっそり振り返り、
セレナの反応を見守っていた。
車内が静まり返る。
「え?」
リコが首を傾げた。
「どっちも女の子なんだから別によくない?」
「そこが問題なんですか!?」
反射的にツッコミが飛ぶ。
リコはさらに首を傾げた。
「じゃあ他に何が問題なの?」
再び沈黙。
数秒後。
セレナは観念したように口を開いた。
「……分かりました」
「保護監視という形にします」
その瞬間。
車内で小さなざわめきが起こる。
隊員たちは早速ひそひそ話を始めていた。
ユウトだけが一人、
言いたいことを飲み込んでいる顔だった。
その騒がしさの中、
セレナは声を張り上げた。
「ただの保護監視ですからね!」
「正式な手続きが終わったら、管理局が住居を手配します!」
必死な補足だった。
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巡回車が出発する頃。
一人の小さな女の子が、道路脇から両手を大きく振っていた。
「吸血鬼のお姉ちゃーん! ばいばーい!」
精一杯の声で叫ぶ。
もちろん、その声は車内まで届かなかった。
それでもきっと、その気持ちはちゃんと届いている。
少なくとも、少女本人はそう信じていた。
一人の少女は密かに決意していた。
明日学校へ行ったら、もう秘密の冒険を自慢したりしない。
だって――
もっと自慢したいことができたから。
もし今度先生に将来の夢を聞かれたら。
きっとこう答える。
『大きくなったら吸血鬼になる!』
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広さはそれほどでもない1DK。
管理局職員向けに支給されている単身者用アパートだった。
玄関を入った瞬間の印象は、
二十代の女性の部屋というよりも、小さな事務所に近い。
中でも一番目を引くのは、窓際に置かれた仕事机だった。
机の上には書類や資料が山積みになり、
何本かのペンが無造作に転がっている。
左端には飲みかけのコーヒーまで残されていた。
だが、それ以外のものに目を向ける暇はなかった。
リコは部屋へ入るなり、
そのまま浴室へ突撃したからだ。
「ちょっ――!」
まだ玄関にいたセレナが即座に反応する。
だが、その時にはもうシャワーの音が響き始めていた。
さらに浴室の中から能天気な声が飛んでくる。
「セレナちゃーん。一緒に入ろうよ~」
「入りません」
セレナは即答した。
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セレナは机の上のマグカップを片付け、新しいコーヒーを淹れた。
そして椅子へ腰を下ろし、大きくため息をつく。
考えただけで頭が痛くなる。
今日の行動報告書。
装備損耗報告。
修理・補充申請書。
さらに、あのマイペースな吸血種に関する各種申請まで書かなければならない。
一口コーヒーを飲み、
ペンのキャップを外した。
明日の休日も潰れそうだ。
そう思うと、自然と二度目のため息が漏れる。
「ねぇねぇ、セレナちゃん」
浴室から声が飛んできた。
「だから『ちゃん』付けはやめてください」
再び、抗議をした。
だが当の吸血鬼は聞いていない。
「パジャマある?」
「……は?」
一瞬だけ聞き間違いかと思った。
「パジャマ~」
リコはもう一度繰り返す。
「僕、パジャマ派だから。ないと寝られないんだよね~」
「いや、さっきまで石棺で寝てたじゃないですか」
セレナはペン先で机を軽く叩いた。
「えー、それとこれとは別だよ~」
どこが違うんですか。
そう聞き返したかったが、
たぶん聞いても意味はない。
セレナは椅子から立ち上がった。
そしてまた一つため息。
「分かりました。持ってきます」
クローゼットから予備の寝間着を取り出し、
浴室前の洗濯機の上へ置く。
「ここに置いておきますからね」
「はーい」
曇りガラスの向こうで、
リコの手がひらひらと振られた。
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青黒いネグリジェ。
装飾も柄もない、ごくシンプルなものだった。
リコは鏡の前で一回転する。
「うんうん、ぴったりだね」
「地味だけどすごく着心地いいよ」
「地味は余計です」
リビングから即座に返事が飛んできた。
リコは脱衣所から顔だけ覗かせる。
それからそのまま出てきた。
「セレナちゃんもお風呂入っていいよ~」
「はいはい」
セレナは何かを書き続けながら適当に返事をする。
一度だけ顔を上げる。
青黒いネグリジェを着たリコの姿が目に入った。
「サイズは問題なさそうですね」
そう呟くと、
すぐに書類へ視線を戻した。
「えー、反応薄い~」
リコはそのまま背後へ回り込み、
机の上の書類を覗き込む。
「今日の行動報告書?」
「僕も手伝おうか?」
「触らないでください!」
セレナは即座に制止した。
「まだ何もしてないよ?」
「これからしようとしていたでしょう」
ちょうど一区切りついたところだったらしく、
ペンを紙の上へ置く。
「これは重要書類なんです」
そう念押ししてから立ち上がり、
今度は自分が浴室へ向かった。
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リコは机に向かったまま、せっせとペンを走らせていた。
もちろん書類の書き方など分からない。
だから机の上に積まれていた過去の書類を何枚か引っ張り出し、
それを見本にしながら書いている。
鼻歌まで歌いながら。
何の曲だったのか、自分でも覚えていない。
「……何をしているんですか?」
背後から突然声がした。
リコの肩がぴくりと震える。
まずい。
本気で怒らせたかもしれない。
慌ててペンを置き、立ち上がる。
視線も泳ぐ。
声も小さい。
「その……ぼ、僕、手伝いたかっただけで……」
「勝手に触らないでくださいと言いましたよね」
声自体は落ち着いていた。
だが誰が聞いても分かる。
怒っている。
「ごめんなさい……」
リコは素直に頭を下げた。
「お休みでしたら、寝室をお使いください」
セレナは書類を見たまま続ける。
「それと今後は、私の書類には触れないでいただけますか」
妙に丁寧な敬語だった。
むしろそれが痛い。
リコはしょんぼりしたまま寝室へ向かった。
その背中を見届けてから、
セレナは改めて行動報告書へ視線を落とす。
まだ墓所突入までしか書いていなかった。
それ以降はほとんど埋まっている。
署名欄だけが空白だった。
……修正できるだろうか。
正直、一から書き直したくない。
もう一時間以上かかったのだ。
せめて前半だけでも使えれば――
そう思ってページをめくる。
そして。
「……え?」
思わず声が漏れた。
もう一枚。
さらにもう一枚。
問題が見当たらない。
字そのものは違う。
自分の字より丸みがあり、少し柔らかい。
だがそれだけだった。
文体も。
句読点の打ち方も。
報告書特有の言い回しまで。
全部、自分の癖を真似している。
部長あたりが見れば別人の筆跡だと気付くだろう。
だが少なくとも、
書式上の不備を指摘されることはないはずだった。
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セレナは眉間を揉みながら寝室へ向かう。
リコはベッドの端に腰掛けていた。
抱き枕のように枕を抱え込み、
顔まで埋めている。
「リコ……」
軽く咳払いをして呼ぶ。
「ごめんなさい……」
枕に顔を埋めたまま、
また謝った。
今度はセレナが視線を逸らす番だった。
「……私の方こそ、ごめんなさい」
しばらく沈黙が流れる。
それからリコがゆっくり顔を上げた。
恐る恐る確認するように。
「助かりました」
セレナは言った。
「よく書けていました」
そして小さく頭を下げる。
「ごめんなさい」
その瞬間。
リコの顔に少しずつ笑顔が戻ってきた。
「えへへ」
「結構うまく書けてたでしょ?」
「ええ」
セレナも小さく笑う。
「少なくとも、私が働き始めた頃よりずっと上手です」
リコは立ち上がった。
セレナの目の前まで来る。
「使える?」
「邪魔じゃなかった?」
「ええ」
「このまま提出できます」
セレナは頷いた。
「じゃあ」
リコは身を乗り出す。
「さっき言ってた『もう触るな』は?」
「いや、それは私がやることですから」
「えぇ~……」
露骨に肩を落とす。
セレナは少しだけ迷った。
そしてため息をつく。
「……取り消します」
次の瞬間だった。
「やった!」
リコが勢いよく飛びつく。
そのままセレナをベッドへ引き倒した。
「じゃあ今日はもう終わり!」
「寝よう寝よう~」
「ちょっ――」
セレナは慌てて起き上がろうとする。
「待ってください!」
「私はソファで――」
「だーめ」
リコが抱きついたまま離さない。
「セレナだって疲れてるでしょ?」
言われて。
初めて気付いた。
確かに疲れている。
色々ありすぎた夜だった。
反論を考える。
だがその前に、
意識が柔らかなベッドへ沈み始めていた。
「……今夜だけですよ」
それが返事だったのか、
寝言だったのか。
本人にもよく分からなかった。




