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第二十章 始まり

  管理局最上階。


  局長室。


  かつてとは少し違う雰囲気になったその部屋には、

  新しい調度品が並んでいた。


  机の上には白い百合が飾られていた。


  「局長、報告書です」


  扉の向こうから声がする。


  「どうぞ」


  若い少女の声が返った。


  扉が開く。


  同時にタバコの匂いが流れ込んできた。


  少女は思わず眉をひそめる。


  グラントが右足を引きずりながら部屋へ入ってきた。


  そして。


  持っていた書類を机の上へ放り投げる。


  「なあ」


  「わざわざ俺を呼び戻して部長にしたのは」


  「若い娘相手に敬語を使わせるためか?」


  「別に敬語じゃなくていいよ」


  「じゃあ遠慮なく行くぞ」


  「はいはい」


  「なあ」


  「局長室なんて似合ってるじゃねえか」


  リコは窓の外へ視線を向けた。


  「だから言ってるじゃん」


  「ただの代理だってば」


  ----------------


  そう。


  局長代理だ。


  本来なら。


  この席に座るべき人は別にいる。


  だが。


  その人は今も医療部の特別病棟で眠り続けていた。


  地下での戦いのあと。


  二人が目を覚まさなかった。


  一人はミレイア。


  老いた身体は、


  あの戦いの後で限界を迎えた。


  そしてもう一人が。


  セレナだった。


  今でも覚えている。


  担当医の表情を。


  言葉を選ぶ沈黙を。


  眼鏡を押し上げる仕草を。


  「セレナ部――」


  そこで一度言葉を止めた。


  「セレナ局長は」


  「戦闘中に記憶を消耗しすぎました」


  「身体そのものに大きな問題はありません」


  「ですが脳が休眠状態に入っています」


  そして。


  医師は目を伏せた。


  「正直に申し上げるなら」


  「このまま目を覚まさない可能性も高いです」


  眼鏡の位置を直す。


  「仮に目覚めたとしても」


  「精神機能への影響は避けられないでしょう」


  ----------------


  医療部の夜勤職員は確信していた。


  この数か月。


  管理局の誰よりも局長代理を見ているのは自分だと。


  夜勤の日になると。


  決まって赤髪の少女が現れる。


  自分と同じ時間に医療部へ来て。


  朝になれば。


  自分と同じ時間に帰っていく。


  もし相手が若い男だったら。


  勘違いしていたかもしれない。


  自分に気があるんじゃないかと。


  いや。


  それでも勘違いはしなかっただろう。


  夜の巡回で何度も見ていたからだ。


  特別病室の中で。


  眠る局長へ話しかける姿を。


  できるだけ近くへ寄り添って眠る姿を。


  相手には聞こえていないはずなのに。


  いつも真剣に話していた。


  相手には伝わらないはずなのに。


  いつも離れようとしなかった。


  今日も同じだった。


  局長代理は軽く会釈すると。


  迷いなく。


  夜灯の消えない病室へ向かっていった。


  ----------------


  病室の扉が静かに開く。


  リコが振り返った。


  「あれ」


  「今日はユウト君なんだ」


  「うん、こんばんは」


  ユウトは頷く。


  「隊長も」


  「リコも」


  そう言いながら。


  持ってきた花を花瓶へ挿し替えた。


  「今日も身体拭くの?」


  「うん」


  「僕がやりたいことだし」


  その瞬間。


  ユウトは妙な衝動に駆られた。


  目の前の少女の頭を。


  くしゃりと撫でてしまいたくなる。


  だが。


  結局手は伸ばさなかった。


  「じゃあ」


  「隊長のこと頼んだよ」


  「僕は帰る」


  「このあとルシア姉とご飯だから」


  「うん」


  「お疲れさま」


  リコは笑顔で手を振る。


  もちろん。


  ユウトが何をさらっと口にしたのかなんて。


  まるで気付いていない。


  ユウトが病室を出て行ったあと。


  リコはそっと頭をセレナの膝へ預けた。


  「ねえ……セレナちゃん」


  「せっかく答えを見つけたのに」


  「まだ何もできてないんだよ……」


  「僕、人間の政治とかよく分かんないし」


  「難しいことも苦手だけどさ」


  小さく笑う。


  少しだけ寂しそうに。


  「ラスボスを倒したあとで」


  「騎士だけ消えて」


  「お姫様を置いていく物語なんて」


  「聞いたことないよ……」


  「そんな終わり方」


  「ずるいじゃん」


  独り言みたいに続けていた。


  その時だった。


  「うるさいです」


  聞き慣れた声がした。


  「馬鹿吸血鬼」


  リコの身体が固まる。


  いや。


  初めてじゃない。


  何度も聞いた。


  何度も。


  どうせまた幻聴だ。


  そう思った。


  なのに。


  どうして毎回こんなに期待してしまうんだろう。


  ゆっくりと顔を上げる。


  そして。


  青い瞳と目が合った。


  ----------------


  翌日。


  「隊長! おはようございます!」


  扉が開く前からユウトの声が響いた。


  そのまま勢いよく病室へ飛び込む。


  そして。


  固まった。


  想像していた空気と違ったからだ。


  セレナは少し困ったようにリコを見る。


  リコはぎこちない笑顔を浮かべた。


  「ユウト君だよ」


  「ユウト・カラスマ」


  「昨日話したでしょ?」


  セレナは頷く。


  そしてユウトへ視線を向けた。


  「おはようございます」


  「ユウト君」


  フィナの目から涙が零れ落ちる。


  窓際では。


  ルシアの肩も小さく震えていた。


  ユウトは何か言おうとした。


  けれど。


  最後には無理やり笑った。


  それだけだった。


  ----------------


  こうして。


  管理局第三代局長の初日が始まった。


  セレナはリコに手を引かれながら。


  最上階の局長室へ向かう。


  不思議だった。


  その手を鬱陶しいとは思わない。


  むしろ。


  どこか安心する。


  局長席へ腰を下ろす。


  すると。


  リコは当然のように壁際の机へ向かった。


  「リコもここで仕事するんですか?」


  思わず尋ねる。


  「うん」


  「僕、局長補佐官だから」


  当たり前みたいな返事だった。


  セレナは少し考える。


  それから首を傾げた。


  「……そんな役職、ありましたっけ?」


  「僕が局長代理の時に作ったんだよ」


  得意そうな顔。


  セレナは即答した。


  「今日から廃止で」


  リコの頬がふくらむ。


  その顔を見て。


  セレナは思わず吹き出した。


  視線が机の上へ向く。


  一輪の百合。


  局長室に百合。


  どう考えてもおかしい。


  そして、


  「今のは無しです」


  セレナは笑いながら言った。


  ----------------


  終電の時間になる頃。


  ようやくセレナはペンを置いた。


  そして。


  少し困ったようにリコを見る。


  「そういえば」


  「リコが前に言ってましたよね」


  「私たち、一緒に住んでるって」


  「うん」


  「そうだよ」


  リコは頷く。


  セレナはしばらく黙った。


  そして。


  消え入りそうな声で言った。


  「……その」


  「家まで連れて行ってもらえますか?」


  さらに小さくなる。


  「帰り道が分からなくて……」


  一瞬。


  リコは呆然とした。


  それから。


  満面の笑みを浮かべる。


  「もちろん!」


  ----------------


  一年後。


  セレナとリコはテントを設営していた。


  遠くからフィナの声が飛んでくる。


  「隊長ー!」


  「ルシア隊長と一緒に美味しそうなのいっぱい見つけましたー!」


  「はーい!」


  リコが大きく手を振る。


  「こっちももうすぐ終わるよー!」


  その時。


  セレナが最後のペグを打ち込んだ。


  「お疲れさまです」


  「みんなで焼きましょう」


  「うん!」


  リコはぴょんと立ち上がる。


  そのままフィナたちの方へ駆けていった。


  ----------------


  リコとルシアが獲物の下処理をしている時だった。


  セレナがふと思い出したように言う。


  「そういえば」


  「ユウト君たちは誰が呼びに行くんですか?」


  「えぇー?」


  フィナが即座に嫌そうな顔をした。


  「私たち今まで食材探してたんですよ?」


  「しかもユウトさんたち、今温泉でしょ?」


  そう言って。


  リコの後ろへ隠れる。


  「別に呼びに行かなくてもいいんじゃない?」


  ルシアが何気なく口にした。


  「前だって私たち、自分たちで戻ってきたし――」


  そこまで言って。


  しまった、という顔になる。


  だが。


  セレナは気にした様子もなかった。


  「それもそうですね」


  「じゃあ先に焼いておきましょう」


  ----------------


  そして。


  今度こそ。


  同じ場所で。


  笑い声の絶えないバーベキューになった。


  「隊長って本当にすごいですよね」


  ユウトが兎肉を頬張りながら言う。


  「まだ一年ですよ?」


  「そうですね」


  ルシアも頷いた。


  「もう試験供給区域が三つですから」


  「この前テレビで見ました!」


  フィナが勢いよく立ち上がる。


  「隊長の演説、すっごく格好良かったです!」


  そのままセレナへ抱き付いた。


  「ちょっ――」


  セレナは抵抗する。


  だがフィナは離れない。


  その様子を見ながら。


  ルシアが思い出したように言った。


  「そういえば」


  「ノエルのパン屋って試験区域の中だったわよね?」


  「どう?」


  「別に前と変わらないけど?」


  「元々うちも供給してたし」


  ようやく肉を飲み込んだユウトも頷く。


  「住民の話」


  ガレスが肉と肉の合間に呟く。


  全員がそちらを見る。


  セレナも例外ではなかった。


  ノエルは少し考える。


  それから肩を竦めた。


  「まあ人はまだ少ないかな」


  「でも少しずつ増えてるよ」


  「隊長が出した条件も悪くないし」


  「それに」


  「試験区域は外より魔力供給が安定してるからね」


  「何より、生命力の提供だって結局は確率の問題だし」


  そこで少しだけ笑う。


  「私のパン屋が有名になったら」


  「もっと人が集まるんじゃない?」


  冗談めかしてそう言うと。


  再び肉の奪い合いへ戻っていった。


  ----------------


  夜。


  月が高く昇っていた。


  山を渡る風が心地良い。


  温泉の中で。


  リコは隣のセレナを抱き寄せた。


  「ねえ」


  「セレナちゃん」


  「ん?」


  青い瞳が向けられる。


  「前にここで」


  「僕が血を飲んだこと」


  「覚えてないんだよね?」


  セレナは素直に頷いた。


  「うん」


  「覚えてません」


  リコは笑う。


  少しだけ悪戯っぽく。


  「じゃあ」


  「もう一回やろっか」


  そう言って。


  長い犬歯を首筋へ沈めた。


  やがて。


  リコは傷口を優しく撫でた。


  「ねえ」


  「やっと分かったんだ」


  セレナが首を傾げる。


  「何がですか?」


  リコは笑った。


  とても穏やかに。


  「忘れたこと全部を」


  「無理に思い出さなくてもいいんだなって」


  「だってさ」


  「僕たち」


  「今も毎日」


  「それ以上に楽しい思い出を作ってるから」


  青い瞳が細くなる。


  優しく。


  幸せそうに。


  「そうですね」


  「きっとそうです」


  静かな夜だった。


  聞こえるのは。


  風が湯面を撫でる音だけだった。


  それだけでよかった。

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