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第十六章 夜景

  その日は。


  リコが珍しく自分から起きていた。


  しかも。


  朝の支度まで終わっている。


  ベッドの中でそれを見たセレナは思った。


  もしかして。


  この子。


  普段はわざと起きないのではないだろうか。


  いつも二十分くらい起こし続けないと、

  布団から出てこないのに。


  そして。


  セレナが起きる頃には。


  赤髪の少女は玄関の椅子へ座っていた。


  リュックまで背負って。


  準備万端だった。


  ----------------


  二人が家を出た。


  すると。


  向かいに停まっていた車の窓が開いた。


  「こっちこっち!」


  ユウトの手が飛び出してくる。


  いや。


  手だけではなかった。


  今にも窓から飛び出してきそうだった。


  だが。


  次の瞬間には後ろから引き戻される。


  セレナは思わず笑った。


  そしてリコと一緒に車へ乗り込む。


  案の定。


  ユウトを引っ張り戻したのはルシアだった。


  ----------------


  挨拶を済ませると。


  セレナは運転席へ視線を向けた。


  「ノエル」


  「車を買ったんですか?」


  「うん」


  ノエルが頷く。


  「今年は賞与も多かったしね」


  「将来パン屋をやる時にも使うだろうし」


  「また始まった」


  ユウトが即座に言った。


  「何がだよ」


  「僕が入局した頃からずっと言ってるじゃん」


  「パン屋開くって」


  ノエルは真面目な顔で答える。


  「パンにも賞味期限はあるけど

  夢にはないからね」


  「おお」


  フィナが感心したような声を出した。


  そして。


  運転席の背もたれへ顎を乗せる。


  「でもさー」


  「ノエル兄がいなくなるのはちょっと寂しいかも」


  「パン屋を開くだけだぞ」


  ノエルは呆れた。


  「死ぬわけじゃない」


  車内が笑いに包まれる。


  ----------------


  「はいはい」


  ルシアが手を叩いた。


  「それより隊長」


  「今日の行き先、分かりますか?」


  セレナは少し考える。


  するとフィナが指を一本立てた。


  「ヒント!」


  「リコちゃんが決めた場所だよ」


  「商店街ですか?」


  セレナは恐る恐る答える。


  「ぶっぶー」


  フィナが指を振った。


  「外れでーす」


  「このままだとリコちゃん泣いちゃうよ?」


  「泣かないもん」


  リコが頬を膨らませた。


  「そもそも一回も話したことない場所だもん」


  「当てられるわけないよ」


  ----------------


  一時間ほど走った頃だった。


  車は大通りを離れ。


  細い道へ入り。


  さらに山道へ進む。


  そして最後に。


  峡谷の奥で停まった。


  目の前にあったのは。


  一軒の別荘――


  ではなかった。


  正確には。


  別荘だったもの。


  その残骸だった。


  「うわぁ……」


  リコが困ったように頭を掻く。


  「こんなになっちゃったんだ」


  「昔はここに一人で住んでたんだけどなぁ」


  「みんなで泊まれるかなって思ったんだけど」


  「これは無理そうだね」


  全員が廃墟を見上げる。


  石壁は崩れ落ち。


  建物だった面影はほとんど残っていない。


  かろうじて土台だけが。


  そこに何かが建っていたことを教えていた。


  朽ちた木材の中には。


  窓枠だったらしい形も見える。


  「いや」


  ユウトが口を開く。


  「『無理そう』じゃなくて」


  「完全に無理だよね?」


  心底呆れた声だった。


  だが。


  リコは気にしない。


  むしろ予定通りだったらしい。


  リュックを開ける。


  そこから取り出したのは携帯用テントだった。


  「大丈夫大丈夫!」


  「じゃあキャンプしよう!」


  そして。


  「ガレス君、テントお願いー」


  テントを放り投げた。


  ガレスは無言で受け取る。


  そして。


  当然のように設営を始めた。


  「それからユウト君とノエル君は食料調達ね」


  「いやいやいや」


  ユウトが即座に抗議する。


  「なんでリコが指示出してるの?」


  「だって僕、部長補佐だもん」


  あまりにも当然という顔だった。


  「まず今は休暇中だよね?」


  ユウトは指を一本立てる。


  「それに部長本人がそこにいるんだけど?」


  助けを求めるようにセレナを見る。


  「私が行けば――」


  言いかけた瞬間だった。


  リコがその手を掴む。


  「ダメ!」


  「セレナちゃんは僕と温泉!」


  「え?」


  全員が固まった。


  ガレスですら。


  テントを組む手が少し止まる。


  「温泉あるの!?」


  真っ先に反応したのはフィナだった。


  「行く行く!」


  「私も行くー!」


  「うんうん」


  リコは満足そうに頷く。


  「ルシアちゃんも一緒ね」


  ルシアはリコを見る。


  それからユウトを見る。


  数秒だけ考えた。


  そして。


  迷いなくリコ側へ移動した。


  「待て待て待て!」


  ユウトがリコの腕を掴む。


  「なんで女子だけ温泉なんだよ!」


  「こっちは食料調達だぞ!?」


  リコはきょとんとした。


  「だって野湯だよ?」


  「一緒に入るつもり?」


  「むしろ、ぜひお願いします!」


  即答だった。


  リコは首を傾げた。


  「え?」


  「本気で?」


  すると。


  ノエルが肩を叩く。


  ユウトの肩を。


  「まあまあ」


  「こういう時くらい紳士になろう」


  ----------------


  「いい場所でしょ?」


  リコが得意そうに胸を張る。


  「景色もいいし、

  気持ちいいし!」


  山から吹く風が頬を撫でる。


  温泉の熱をちょうど良く冷ましてくれる風だった。


  四人で入るには少し狭い。


  けれど窮屈というほどでもない。


  すぐ横は絶壁だった。


  下を見れば。


  さっきまでいた街が、

  箱庭みたいに小さく見える。


  「昔はね」


  リコが街を見下ろした。


  「よくここから城下町を眺めてたんだよ」


  「城下町かぁ……」


  フィナが感心したように呟く。


  「そういう時だけは、

  リコちゃんって本当に年上なんだなって思う」


  「えー?」


  リコは不満そうだった。


  「普段の僕だって十分大人だと思うけど?」


  「フィナちゃんなんかまだまだだよ」


  「いや」


  セレナが即答する。


  「それはないと思います」


  「うん」


  ルシアも頷いた。


  「隊長の言う通り」


  「えぇぇぇ!?」


  山間に笑い声が響いた。


  ----------------


  最初に立ち上がったのはフィナだった。


  つられるようにセレナも立ち上がろうとする。


  だが。


  フィナが慌てて止めた。


  「隊長はもう少しリコちゃんと入っててくださいよ」


  そう言って左目をぱちりと閉じる。


  「私と隊長で先に戻って、

  あっちの様子見てきますから」


  ルシアが一瞬だけ固まった。


  それから。


  ゆっくりフィナを見る。


  「待て」


  「今残る方の隊長は

  私のことだと思ったんだが?」


  「もちろん違います」


  フィナは即答した。


  すでに服を着終えている。


  「ほら行きますよ」


  「いや、だから私は――」


  言い終わる前に腕を引かれる。


  ルシアは苦笑した。


  「強引だな……」


  そして。


  そのままフィナに連行されていった。


  ----------------


  二人がいなくなると。


  温泉は急に広く感じられた。


  リコは身体を滑らせる。


  そして。


  当然のようにセレナの膝へ頭を乗せた。


  「ねえ」


  「セレナちゃん」


  セレナは街から視線を戻す。


  膝の上の少女を見る。


  「どうしました?」


  リコは少しだけ考える。


  それから静かに言った。


  「ずっと考えてた話があるんだ」


  そして。


  彼女は語り始めた。


  秋風の中のパン。


  春の日差しの下の納屋。


  神話の始まり。


  そして。


  魔王の終わり。


  ゆっくりと。


  一つずつ。


  思い出を辿るように。


  「ずっと気になってたんだ」


  リコは空を見上げた。


  「封印される前に」


  「アルカード君が言ったこと」


  セレナは考える。


  そして小さく繰り返した。


  「君たちは知らなかったんだな……」


  その言葉を。


  リコは身体を起こした。


  そして。


  正面からセレナへ抱き付く。


  「ねえ」


  「セレナちゃん」


  「アルカード君が言ってた吸血って」


  「何だと思う?」


  セレナの身体が僅かに強張る。


  だが。


  すぐに力が抜けた。


  答えない。


  拒まない。


  だから。


  長い犬歯が静かに首筋へ沈んだ。


  ----------------


  みんなはずっと待っていた。


  最初のうち。


  フィナは自信満々だった。


  「絶対何かあるから!」


  「ほら、もうちょっと待って!」


  そんなことを言っていた。


  だが。


  時間が経つにつれて。


  その勢いも少しずつ弱くなっていく。


  そして最後には。


  フィナ本人が心配になり始めていた。


  「やっぱり見に行った方がいいんじゃない?」


  ルシアの腕を引っ張る。


  ちょうどその時だった。


  二人が戻ってきたのは。


  先に姿を見せたのはリコだった。


  みんなの視線を受けて。


  少しだけ苦笑する。


  「心配させちゃったかな」


  その後ろを歩くセレナは違った。


  顔色が悪い。


  青ざめている。


  まるで血の気が抜け落ちたみたいだった。


  そして。


  誰にも何も言わず。


  そのままテントへ入ってしまう。


  残された面々は顔を見合わせた。


  「隊長ー」


  ユウトが恐る恐る声を掛ける。


  「肉焼けましたよー」


  返事はない。


  しばらくして。


  聞こえてきたのはリコの声だった。


  「セレナちゃん食欲ないみたい」


  「みんな先に食べててー」


  ユウトはルシアを見る。


  ルシアも少し迷った。


  だが。


  やがてテントへ入っていく。


  数分後。


  戻ってきた瞬間。


  全員が囲んだ。


  「どうでした!?」


  「隊長何か言ってた!?」


  ルシアは困ったように頭を掻く。


  「いや……」


  「全然話してくれない」


  フィナが身を乗り出す。


  「リコちゃんは何か言ってた?」


  「リコは……」


  ルシアは少し考えた。


  どう説明すべきか迷うように。


  そして。


  「隊長がかなりショックを受けてるみたいで」


  「とりあえず先に食べててほしいって」


  その日のバーベキューは。


  おそらく。


  三番隊史上もっとも静かな食事になった。


  ----------------


  夕陽が沈む。


  やがて。


  細い月が夜空へ浮かんだ。


  それでも。


  セレナはテントから出てこなかった。


  ただ横になったまま。


  何時間も。


  ずっと。


  考え続けていた。


  そして。


  ようやく口を開く。


  「リコ」


  視線を向ける。


  「夜の方がよく見えるって言ってましたよね」


  リコは頷いた。


  セレナは立ち上がる。


  掛けていたジャケットを脱ぎ。


  そのままリコへ投げた。


  「……もう一度行きましょう」


  リコは黙って頷いた。


  二人はテントを出る。


  すると。


  すぐに全員が集まってきた。


  ユウトも。


  フィナも。


  さっきまで居眠りしていたはずなのに。


  セレナは一瞬だけ言葉に詰まった。


  何と言えばいいのか分からない。


  代わりに。


  リコが苦笑する。


  「ごめんね」


  「心配かけちゃった」


  「ちょっと散歩してくるだけだから」


  「みんな先に寝てていいよ?」


  誰も動かなかった。


  返事もない。


  ただ。


  全員が二人を見ている。


  その沈黙に負けるように。


  セレナが口を開いた。


  「……一緒に来てください」


  ----------------


  温泉へ辿り着いた時。


  ユウトの頭へ。


  どうでもいいことが浮かんだ。


  そういえば。


  結局最後まで入れなかったな。


  だが。


  すぐに首を振る。


  今はそんなことを考えている場合じゃない。


  「……もう一度」


  「何が見えているのか、

  聞かせてください」


  セレナの視線はリコへ向けられていた。


  強く。


  真っ直ぐに。


  そこには。


  希望と絶望。


  その両方が混ざっていた。


  本当は。


  聞きたかった。


  昼間のは見間違いだったと。


  そう言ってほしかった。


  だが。


  自分でも分かっている。


  そんなことはあり得ないと。


  リコは街を見る。


  遠く。


  夜景の広がる方向を。


  そして静かに言った。


  「うん」


  「やっぱり夜の方がよく見える」


  少し間を置く。


  それから。


  はっきりと言った。


  「街の人たちの生命力が」


  「少しずつ魔力転送術式へ流れてる」


  「昼間よりずっと多く」


  「今も」


  誰も口を開かなかった。


  風だけが吹いている。


  最初に口を開いたのはユウトだった。


  「じゃあ……」


  「隊長が昼間あんなだったのって……」


  最後まで言えなかった。


  答えは分かりきっていたからだ。


  説明なんて必要ない。


  沈黙が続く。


  やがて。


  フィナがぽつりと聞いた。


  「でもさ」


  「なんで今まで分からなかったの?」


  「リコちゃん」


  リコはセレナを見る。


  それから少し困ったように笑った。


  「僕もよく分かんないんだけどね」


  「たぶん」


  「吸血したせいかな」


  「狩りの本能みたいなのが

  強くなったとか?」


  「生命力の流れが見えやすくなった感じ」


  そして。


  小さく呟く。


  「たぶんこれが」


  「アルカード君が見せたかったものなんだと思う」


  誰も。


  アルカードという名前には反応しなかった。


  そんな余裕はなかった。


  全員。


  今見ている光景の意味を考えていたからだ。

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