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第十二章 雨

  グラント・レイヴンにとって、

  今日は最悪の日だった。


  少なくとも本人はそう思っている。


  朝は電車が止まっていた。


  一駅手前で降ろされ、

  仕方なく歩く羽目になった。


  しかも途中から雨まで降り出した。


  グラントは雨が嫌いではない。


  むしろ好きだった。


  雨は人の心を洗い流してくれる。


  グラントはそう思っている。


  だが。


  こういう細かくて鬱陶しい雨は別だ。


  部長室へ辿り着く頃には、

  服はすっかり濡れていた。


  タバコまで湿ってしまった。


  火が点かない。


  最悪だった。


  仕方なく傘を差して外へ出る。


  新しいタバコを買うために。


  ----------------


  その帰りだった。


  管理局から警報が鳴り響く。


  同時に。


  腕の携帯端末も警告音を発した。


  グラントは顔を上げる。


  管理局の正門が、 目の前で閉じ始めていた。


  完全に閉まる直前。


  廊下の向こうが見えた。


  魔物だった。


  数え切れないほどの。


  グラントは立ち止まる。


  それから。


  コンビニの入口へ傘を立て掛けた。


  買ったばかりのタバコを取り出す。


  一本。


  火を点ける。


  深く吸い込む。


  そして。


  管理局の裏手へ向かって歩き出した。


  ----------------


  「ねぇ」


  研究部の少女が小声で囁く。


  「本当に入ってこないね」


  「みたいだね……」


  隣の少女も小さく頷く。


  「あのさ、もし私が……」


  「自販機で飲み物買ってくるって言ったら許してくれるかな?」


  「は?」


  相方が真顔になった。


  「死にたいの?」


  「なんで!?」


  反論しようとしたその時だった。


  ガタン。


  背後の窓から音がした。


  二人の身体が固まる。


  「えっ……」


  「入ってこないんじゃ……」


  震える声。


  誰も続く言葉を思いつかなかった。


  「よぉ、おはよう」


  気怠そうな男の声。


  二人は勢いよく振り返る。


  そして同時に叫んだ。


  「レイヴン部長!」


  男から、

  タバコの匂い。


  そして、

  研究部員なら誰でも知っている匂い。


  硝煙だった。


  グラントは軽く笑う。


  吸い殻を窓枠で揉み消す。


  そしてそのまま廊下へ出ていく。


  廊下は、今や戦場と化していた。


  整然としていた金属床には無数の弾痕と爪痕が刻まれ、


  天井の照明さえ血に染まり暗い赤色を帯びている。


  壁にもたれ掛かって呻いているのは、


  見覚えのある若い局員たちだった。


  もちろん――


  もう呻くことすらできない者もいる。


  グラントは視線を遠くへ向けた。


  いや。


  下だな。


  戦闘音は、さらに下層から聞こえてくる。


  雨さえ降らなければな。


  そんなことを考えながら、


  彼は階段室へ向かった。


  ----------------


  「部長!」


  局員の一人が駆け寄ってくる。


  「現在、各隊との連絡が途絶しています!

  全隊がそれぞれ独自に交戦中です!」


  ようやく拠り所を見つけたような声だった。


  グラントはリボルバーへ弾を込めながら、

  小さく頷く。


  「分かった」


  それも当然だろう。


  敵は管理局内部へ突然出現したのだ。


  むしろ、


  まだ隊として機能している部隊に出会えただけ運が良い。


  だが。


  グラントが気にしていたのは別のことだった。


  地下から伝わってくる戦闘音。


  そして魔力。


  その流れだけが妙に真っ直ぐだった。


  停止もない。


  迂回もない。


  まるで最初から目標の居場所を知っているかのように。


  グラントは口に咥えていたタバコを吐き捨てた。


  ――一か八か、賭けるか。


  「全員、ついて来い」


  ----------------


  ようやく追いついた。


  角を曲がった瞬間、


  真っ先に目へ飛び込んできたのは、


  これまで一度も見たことなかった使い魔だった。


  血色の蝙蝠群。


  隊員の一人が反射的に銃口を向ける。


  だが。


  「よく見ろ」


  グラントはその銃身を押さえた。


  「撃つのは確認してからだ」


  確かに。


  血蝙蝠たちは他の使い魔と戦っていた。


  牙を剥き、


  翼を翻しながら、


  魔物たちへ食らいついている。


  その乱戦の向こう。


  グラントは見慣れた魔力を感じ取った。


  青黒い短髪の少女。


  セレナだった。


  第三隊を率いながら、


  地下深部へ向けて進軍している。


  こちらの気配に気付いたのだろう。


  セレナが一度だけ振り返る。


  「部長!」


  叫ぶ。


  「目標は地下最深部にいます!」


  報告と同時に、

  細剣が再び前方へ閃いた。


  グラントは静かに煙を吐いた。


  どうやら賭けには勝ったらしい。


  視線を後方へ向ける。


  集まった局員たちの中で、


  部隊として機能を維持しているのは二隊だけだった。


  グラントは最後のタバコを地面へ落とす。


  ――二箱買っておけば良かったな。


  そんなことを思いながら、


  靴先で吸い殻を踏み消した。


  そして命令を下す。


  「第二隊、第四隊はここを封鎖しろ」


  「了解!」


  「残りは俺と来い」


  一拍置いて。


  「第三隊を支援する」


  「了解!!」


  ----------------


  地下三階。


  ノエルの銃弾が最後の使い魔を撃ち抜いた。


  そして。


  セレナは立ち止まった。


  知っている限り、


  ここが管理局の最下層だったからだ。


  だが。


  アルカードの姿はない。


  どういうことか?


  「隊長、どうします?」


  ユウトの声が耳に届く。


  「間違いなく下にいます」


  セレナは答えた。


  「ですが――」


  そこで言葉が止まる。


  誰もが続きを理解していた。


  ですが、


  もう下へ続く階段は存在しない。


  「隊長……」


  ノエルが躊躇いながら口を開く。


  「もしかして、それってアルカードの影響で――」


  「違います」


  セレナの返答は異様なほど早かった。


  まるで尻尾を踏まれた猫みたいに。


  「ですが隊長……」


  今度はルシアだった。


  だが。


  「いや、確かに下だ」


  割って入ったのはグラントだった。


  「ここまで来れば嫌でも分かる」


  彼はポケットへ手を突っ込む。


  タバコを取り出そうとして、


  出てきたのはライターだけだった。


  「奴の魔力は間違いなく下にある」


  その言葉を聞いて。


  セレナの肩から少しだけ力が抜けた。


  「何をしているんですか!」


  即座に命令を飛ばす。


  「入口を探してください!」


  「どこかに隠されているはずです!」


  「そんな暇があるか」


  グラントはライターの火打石を回した。


  だが。


  現れたのは火ではなかった。


  奔流のような魔力。


  次の瞬間。


  金属床が爆ぜた。


  巨大な穴が開き、


  その下へ大量の砂礫が流れ落ちていく。


  そして。


  グラントは当然のように続けた。


  「作ればいいだろう」


  「入口くらい」


  ----------------


  そのさらに下。


  グラントは周囲を見回した。


  使い魔の姿はない。


  砂礫に埋もれた金属の廊下。


  傷付いた壁。


  前方へ続く通路。


  そしてさらに下へ伸びる階段。


  何もかもが上層と同じだった。


  非常灯の位置まで。


  まるで鏡写しのように。


  セレナの視線に気付いたのだろう。


  グラントは肩を竦める。


  「俺を見るな」


  「こんな場所、

  俺だって初めて見る」


  言いながら再びポケットへ手を入れる。


  そして。


  何も出てこなかった。


  小さく溜息を吐く。


  「セレナ君は俺と来い」


  「他はここで待機だ」


  「部長」


  即座にユウトが口を開いた。


  「僕も行きます」


  グラントの眉が上がる。


  「命令違反か?」


  「ユウト・カラスマ君」


  ユウトの勢いが一瞬だけ止まる。


  だが。


  今度はフィナが隣へ立った。


  「部長」


  「私たちの副官が待ってるんです」


  グラントはまた溜息を吐いた。


  「セレナ君、君の部下だぞ」


  「何とかしてくれ」


  セレナは敬礼した。


  そして真っ直ぐ答える。


  「第三隊」


  「全員の継続戦闘を申請します」


  沈黙。


  誰も口を開かなかった。


  グラントはセレナを見たまま動かない。


  セレナもまた、

  視線を逸らさなかった。


  数秒。


  いや、

  もっと長かったかもしれない。


  やがて。


  グラントは壁へ背中を預けた。


  「お前たち」


  「タバコ持ってる奴はいるか?」


  ユウトが目を丸くする。


  その横で。


  ルシアが懐から細タバコを半箱取り出した。


  グラントは一本咥える。


  火を点ける。


  深く吸い込む。


  そして。


  ようやく口を開いた。


  「第三隊以外は上へ戻れ」


  命令を受けて局員たちが移動を始める。


  やがて。


  最後の足音が消えた。


  それを確認してから。


  グラントは静かに言う。


  「セレナ君」


  「君はもっと利口な人間だと思っていた」


  セレナは答えない。


  「ここは明らかに俺ですら知らない機密だ」


  「それでも部下を連れて行くのか?」


  沈黙。


  代わりに。


  ルシアが口を開いた。


  「違います」


  「私たちが勝手について来たんです」


  グラントは全員の顔を順番に見た。


  そしてタバコを床へ落とす。


  「そうか」


  靴で踏み消した。


  「なら」


  「このタバコ代くらいは働いてもらうぞ」


  そう言って歩き出す。


  数歩進んでから。


  振り返らないまま付け加えた。


  「ただし」


  「何が起きても知らんぞ」


  「了解!」


  第三隊の声が揃った。


  ----------------


  零号指定封印地。


  その場所は、

  いかなる地図にも記されていない。


  管理局地下。


  いや。


  より正確に言うならば――

  管理局そのものの一部だった。


  封印されているものは単純だ。


  精霊でもない。


  吸血鬼でもない。


  神器でも宝具でもない。


  魔法陣——

  国家全土を覆うエネルギー術式の中枢だった。


  そして今。


  局長室ではミレイアが術式の安定維持を続けていた。


  地下から流れ込む魔力が、

  幾度となく術式を揺さぶっている。


  だが。


  ついに。


  ミレイアは小さく笑った。


  感じ取ったからだ。


  自らの部下たちが。


  ついに封印地へ辿り着いたことを。


  二時間に及んだ

  魔法陣を巡る遠距離戦。


  それも――

  そろそろ終わりを迎える。

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