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第十章 記憶

  それに気付いたのは、


  何でもない日のことだった。


  アルカードの手掛かりは相変わらず見つからない。


  そんな平凡な朝。


  リコはいつものようにセレナと一緒に執務室へ入った。


  いつものように、

  セレナのジャケットを掛けて。


  いつものように、

  淹れたコーヒーを机へ置く。


  「ねぇ、セレナちゃん」


  この時のリコは、


  まだ自分が何を見つけようとしているのか分かっていなかった。


  「なんですか?」


  まだ書類仕事を始めていなかったセレナが顔を上げる。


  「そういえばさ」


  リコは自分の頭を軽く叩いた。


  「色々ありすぎて忘れてたんだけど」


  「さっき電車の路線図を見て思い出したんだよね」


  「路線図ですか?」


  セレナは首を傾げた。


  「前に言ったでしょ?」


  「地図がちょっと変だって」


  リコは指を一本立てる。


  「指定封印地の場所だよ」


  セレナは少し考えた。


  「……言っていましたっけ?」


  「言った言った」


  「アルカード追いかけた時」


  「車の中で」


  セレナはしばらく記憶を探った。


  だが結局思い出せなかったらしい。


  「まあいいです」


  そう言って話を切り替える。


  「指定封印地の地図なら資料室にあります」


  「昼休みに行きましょうか」


  ----------------


  その日。


  二人は昼の女子会へ参加しなかった。


  「えっ?」


  「全国地図ってないの?」


  リコは目を丸くする。


  目の前には分厚い地図帳が広げられていた。


  「ありませんね」


  「国土が広いですから」


  セレナは肩を竦める。


  「いやいや」


  リコは即座に否定した。


  「昔だってもっと広い国はいくらでもあったよ?」


  「それでも国全体の地図くらいあったでしょ?」


  言われてみれば。


  セレナも考え込む。


  しばらくしてから口を開いた。


  「そう言われると……そうですね」


  そして少し迷う。


  「でも私」


  「子供の頃から全国地図なんて見たことありません」


  さらに付け加えた。


  「必要がなかったんじゃないでしょうか?」


  「うーん」


  リコは地図帳を見下ろした。


  そして突然。


  製本部分を外し始める。


  「セレナちゃん」


  「これ並べてみて」


  「並べる?」


  「うん」


  リコは頷いた。


  「ちょっと確かめたいことがあるんだ」


  「分かりました」


  セレナは素直に手伝った。


  地図を一枚ずつ広げる。


  位置を合わせる。


  並べる。


  修正する。


  そうして。


  やがて巨大な一枚の地図が完成した。


  円形に近い国土。


  その全体が二人の前へ広がる。


  「セレナちゃん」


  リコが顎に手を当てたまま言う。


  「ペン持ってる?」


  セレナは首を横に振った。


  すると。


  リコの指先から血が滲み出る。


  それはまるで赤いインクのようだった。


  指定封印地と指定封印地を結んでいく。


  曲線。


  直線。


  だがそれは適当な線ではない。


  何かの図形を描くように。


  何かの規則に従うように。


  一本ずつ重なっていく。


  そして。


  最後の線が引かれた時。


  二人の前に現れたのは――


  巨大な魔法陣だった。


  国家そのものを覆うほどの。


  そして。


  その中心にあったのは。


  ——管理局だった。


  資料室に沈黙が落ちた。


  聞こえるのは、


  吊り下げられた照明が僅かに揺れる音だけ。


  セレナはただ地図を見つめていた。


  管理局の精鋭である彼女には、

  法陣の大まかな用途くらいは分かる。


  細かな仕組みまでは理解できない。


  それでも、


  構造全体を見る限り――

  魔力転送用の術式だろう。


  「やっぱりかぁ……」


  リコの声が、

  どこか遠くから聞こえてくるようだった。


  「前から不思議だったんだよね」


  静まり返った資料室に、

  彼女の声だけが響く。


  「風力とか水力みたいに」


  「自然から取り出せる力とは違うでしょ?」


  「魔力って基本的には生き物の中でしか生まれないし」


  「例外があるとしても、

  宝具みたいな物に半永久的に移されるくらいだし」


  「…………」


  セレナはまだ黙っていた。


  「じゃあさ」


  リコは地図を見つめたまま続ける。


  「車とか」


  「街灯とか」


  「通信端末とか」


  「それを動かしてる魔力って、

  どこから来てるんだろうって」


  「待ってください……」


  セレナの声は、

  ほとんど呻き声だった。


  「つまり――」


  「詳しい仕組みまでは分からないけど」


  リコは肩を竦める。


  「たぶん、封印地から魔力を引っ張り出してるんじゃないかな」


  再び沈黙。


  そして次の瞬間。


  セレナは勢いよく振り返った。


  「行きます」


  「え?」


  「局長に確認します」


  ----------------


  局長室。


  広い執務机の向こう側。


  ミレイアは突然現れた来客を見上げた。


  「どうしました?」


  「アルカードの手掛かりでも見つかりましたか?」


  「いえ、別件です」

  セレナは一歩前へ出る。


  「局長にお聞きしたいことがあります」


  「ほう?」

  ミレイアは僅かに眉を上げた。


  セレナは真っ直ぐ見返す。


  「なぜこの国には全国地図が存在しないのですか?」


  沈黙。


  数秒後。


  ミレイアは小さく笑った。


  「なるほど」


  「そこまで辿り着きましたか」


  そしてリコを見る。


  「発見したのはそちらの真祖さんですね?」


  だが。


  リコは何も答えなかった。


  代わりにセレナが口を開く。


  「この国は」


  僅かに言葉を選ぶ。


  「封印地から魔力を抽出しているのではありませんか?」


  一瞬だった。


  ほんの一瞬だけ。


  ミレイアの目に、

  失望とも安堵ともつかない色が浮かぶ。


  彼女は静かに立ち上がる。


  窓際へ歩き。


  窓を閉めた。


  「セレナ君」


  背を向けたまま言う。


  「君も知っているでしょう」


  「今の平和な暮らしは」


  「魔導技術によって支えられています」


  「…………」


  セレナは納得していなかった。


  だがミレイアは気にしない。


  今度はリコへ視線を向ける。


  「では聞きましょう」


  「かつて封印地で眠っていた真祖さん」


  「眠っている間に魔力を利用されることに、

  何か問題がありますか?」


  リコはきょとんとした。


  しばらく考える。


  そして。


  「うーん……」


  「別にないかも?」


  そう答えた。


  ミレイアは再び微笑む。


  窓の外へ目を向けた。


  「でしょう?」


  静寂が戻る。


  だが。


  その静寂を破ったのはセレナだった。


  「違います」


  ミレイアが振り返る。


  「何がです?」


  「それなら」


  セレナは言った。


  「なぜ国民へ隠しているのですか?」


  「国家の安定のためです」


  即答だった。


  ミレイアに迷いはない。


  「考えてみなさい、セレナ君」


  「国家のエネルギー供給源がどこにあるのか」


  「それを公表したらどうなると思います?」


  セレナは言葉を失った。


  答えは分かる。


  防衛しきれないほど数の多いエネルギー拠点。


  そして実際に、


  何度も侵入事件が起きている指定封印地。


  もし悪意ある者に狙われれば。


  国全体が混乱へ陥るかもしれない。


  セレナはゆっくり頷いた。


  それを見て。


  ミレイアは最後に告げる。


  「ですから」


  「今日知ったことは絶対機密です」


  「以後は予定通り」


  「アルカードの拘束任務へ集中してください」


  ----------------


  その日も。


  魔力供給の停止のせいで、

  終電は二時間も駅で足止めされた。


  だから二人が帰宅した頃には、

  もう日付が変わっていた。


  リコは管理局の制服をソファへ放り投げる。


  そのままパジャマへ着替えた。


  一方でセレナは。


  黙々と二人分の服をクローゼットへ掛けていく。


  その背中を見ながら、

  リコが不満そうに言った。


  「それにしてもさぁ」


  「局長さん」


  「本当に行動部にまで隠してたんだね」


  「まあ」


  セレナは服を整えながら答える。


  「知っている人が増えれば」


  「漏洩の危険も増えますから」


  なるほど。


  それは確かにそうかもしれない。


  「それに」


  セレナは続けた。


  「知らなかったとしても」


  「私たちの仕事は変わらないでしょう?」


  エネルギー施設。


  立入禁止。


  封印地。


  立入禁止。


  確かに結果は同じだった。


  「それに公務員だって一生続けるとは限りません」


  「ルシアなんて」


  「いつもパン屋をやりたいって言ってますし」


  そこで。


  リコの動きが止まった。


  完全に。


  後ろから洗面所へ入ろうとしていたセレナが、

  その背中へぶつかる。


  「きゃっ」


  壁に手をついて体勢を立て直す。


  「どうしました?」


  だが。


  リコはすぐには答えなかった。


  「ねぇ」


  「はい?」


  「セレナちゃん」


  「だから何ですか?」


  少し困った顔になる。


  そして。


  リコは聞いた。


  「セレナちゃんの妹って何て名前だっけ?」


  「は?」


  セレナは瞬きをした。


  「だから前回も言ったよね」


  「妹なんていません」


  リコは頷いた。


  「そっか」


  少しだけ視線を落とす。


  「じゃあ」


  「僕たちが最初にカレー食べたお店は?」


  今度は。


  セレナが黙った。


  リコは小さく溜息を吐いた。


  そして。


  青黒い短髪の少女の手を引く。


  そのまま寝室へ連れて行った。


  半ば強引にベッドへ座らせる。


  それからベッドサイドの引き出しを漁り始めた。


  セレナは何も言わない。


  やがて。


  ひとつの写真立てが放り投げられた。


  それでもセレナは拾わない。


  リコが静かに言う。


  「パン屋をやりたいって言ってるのはノエル」


  「…………」


  「最初にカレー食べたのは異種向けの専門店の隣」


  「…………」


  「それと」


  リコは写真立てを指差した。


  「それ、」


  「前にコーラ探してた時に見つけた」


  セレナは突っ込まなかった。


  どうしてコーラを探していて寝室へ入るのか。


  そんなことすら言わなかった。


  代わりに。


  リコが呟く。


  「やっぱりさ」


  「セレナちゃんの記憶」


  「何かおかしい……」


  セレナは視線を逸らした。


  部屋の隅を見る。


  そして小さく認めた。


  「……気付かれましたか」


  リコは立ち上がる。


  そして冷蔵庫から酒瓶を取り出した。


  グラスへたっぷり注ぐ。


  そして差し出した。


  セレナは無言で受け取る。


  一気に飲み干した。


  それを見届けてから、

  リコはようやく聞く。


  「それで?」


  「どういうことなの?」


  しばらく沈黙が続いた。


  セレナはただ、

  写真を見つめていた。


  写真の中では。


  幼いセレナと、

  もう一人の少女が並んで笑っていた。


  やがて。


  セレナは写真立てを見つめながら口を開く。


  「私が戦うところ」


  「見たことありますよね?」


  「うん」


  リコは頷いた。


  青い光。


  剣身を走る術式。


  身体に刻まれた魔術刻印。


  あの凛々しい姿が脳裏に浮かぶ。


  「もしかして」


  「それも魔力転送みたいなもの?」


  リコは静かに言った。


  「記憶を燃料にしてるから、

  あんな力が出るの?」


  セレナは答えなかった。


  ただ。


  空になったグラスを差し出した。


  もう一杯欲しい。


  そういう意味だった。


  ----------------


  夜。


  今日はいつもの『おやすみ』がなかった。


  それでも灯りは消えている。


  二人ともベッドに入っている。


  なのに。


  まるで眠れそうになかった。


  小さな寝室を、

  静かな闇が包んでいる。


  その中で。


  先に口を開いたのはリコだった。


  明るい声だった。


  少しだけ。


  無理をしているような明るさだった。


  「セレナちゃんさ」


  「もっと早く言ってくれればよかったのに」


  返事はない。


  「セレナちゃんが忘れても」


  「僕が覚えてる」


  「どんなことでも」


  静寂。


  「思い出せなくなったら」


  「僕がまた教える」


  反応はない。


  「何回忘れても」


  「そのたびに教える」


  布団が少しだけ動いた。


  そして。


  「…………うん」


  ようやく返事が返ってきた。


  「僕は長生きだからね」


  リコは笑う。


  「ずっと覚えていられるよ」


  しばらくして。


  闇の向こうから小さな声がした。


  「……ずるいです」


  リコは手を伸ばした。


  そっと。


  セレナの頭を撫でる。


  今日は抵抗されなかった。


  だからリコは少し笑って。


  そして静かに言った。


  「じゃあ」


  「約束ね」

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