第九章 狸野亭
第九章 狸野亭
壁の落書きは、思うように落ちなかった。
亀山と友香がたわしでこすり、蛇森は足元に散らばったごみを集めた。それが済むと、蛇森も壁を洗うのに加わった。
文字は薄くなっても、しつこく残っていた。
「ゆっくりでええよぉ。今日は、どうせ店を開けられんでぇね」
店の奥から、老婦人が出てきた。
「お友達も手伝いに来てくれたんねぇ。ありがとうなぁ」
蛇森は手を止めた。
「店、開けられないんですか?」
「お父ちゃんが、腰をいわしてしまってねぇ。今、中で寝とるんよぉ」
老婦人は店先を見渡し、眉尻を下げた。
「綺麗にしてもらえるのは、ありがたいけどねぇ。無理せんでなぁ」
友香は何も言わず、また壁をこすり始めた。
蛇森も、たわしを動かした。
亀山に聞きたいことはあった。
けれど今は、少しでも早く、この文字を消したかった。
*
三人が作業を終えるまでに、三時間ほどかかった。
老婦人に案内され、店の奥へ入る。
居間にはちゃぶ台があり、隣の座敷には布団が敷かれていた。
そこに、狸族の老人が横になっている。
「ごめんなぁ。わしもお父ちゃんも、身体が思うように動かんでねぇ。碌に手伝えんかったわぁ」
老婦人が、お茶と菓子を運んできた。
「友香ちゃん、顔を洗っておいでぇ。別嬪さんが鼻垂らしとったら、可笑しいでなぁ」
友香は小さく頷き、流しへ向かった。
蛇森はちゃぶ台の前へ座り、隣の亀山に声を落として尋ねた。
「いつ、気づいたんだ?」
「僕が来た時には、もうあの状態でした。友香さんが一人で片づけていたんです」
「誰がやった?」
「まだ分かりません」
亀山は、割烹着を膝の上で畳んだ。
蛇森は座敷へ目を向けた。
老人は目を閉じていたが、眠ってはいないようだった。
やがて友香が戻ってきた。
洗った顔は、まだ赤い。
ちゃぶ台のそばに立ったまま、座敷の方を向いた。
「おじさん、おばさん。私、今日でここを辞めさせてもらいます」
蛇森は顔を上げた。
「今まで親切にしてくれて、本当にありがとうございました」
「……何でぇ?」
老婦人が、お盆を持ったまま立ち止まった。
「お父ちゃんの腰がよくなるまで、店は休むけどねぇ。二、三日もすれば、少しは動けるようになると思うんよぉ」
友香は俯いた。
「二人とも歳で、身体もきついでなぁ。友香ちゃんがおらんようになったら、困ってしまうわぁ」
「理由を、聞かせてくれんか」
座敷の老人が、こちらへ顔を向けた。
友香の目から、また涙が落ちた。
「……狸野亭に、迷惑が掛かるから」
唇を噛み、一度、息を吸う。
「見たでしょう。あの落書き、私のことだったでしょう。私の噂も、知っていますよね」
老婦人は、黙って友香を見ていた。
「私がここにいるから、こんなことが起きたんです。だったら、私がいなくなれば……」
「気に入らんなぁ」
老人が言った。
友香が顔を上げる。
「友香は、それで本当にええんか?」
「でも……」
「わしは、怒っとるんよ。友香にじゃないで。うちの大事な友香を、こんなに悲しませる奴になぁ」
老人は、大きく息を吐いた。
「母ちゃん。友香が来んようになるんなら、もう店を閉めようかのぉ。腰も、こんなになってしもうたしなぁ」
老婦人は、夫を見た。
「そうやねぇ。わしも、そんなに動けんしねぇ。お父ちゃんがそう言うなら、閉めてもええんじゃないかねぇ」
「待ってください!」
友香が声を上げた。
「私のために、お店を閉めるなんて……そんなの、私、どうしたら……」
「友香のためじゃないよぉ」
老人が首を振った。
「自分らのために言うとるんじゃ。店を汚されたことも腹が立つ。友香が泣かされたことも腹が立つ。それでも、犯人を捕まえに行くどころか、起き上がることもできん」
布団の中で、わずかに身体を動かした。
すぐに眉を寄せ、元の姿勢へ戻る。
「情けないでなぁ。一気に老いた気がするわぁ」
友香は、何も言えなくなった。
蛇森も口を開きかけたが、先に亀山が言った。
「少し、よろしいですか」
三人が、亀山を見た。
「店を閉めるかどうかも、友香さんが辞めるかどうかも、今すぐ決める必要はありません。まず、何が起きたのかを調べましょう」
「調べたところで、わしは動けんでぇ」
老人が答えた。
「本当なら、こんなことした奴をとっ捕まえて、げんこの一つも食らわせたいんじゃがなぁ」
「暴力はいけません」
亀山が、すかさず言った。
老人が、怪訝な顔をする。
「あんた、何が言いたいんじゃ?」
「申し遅れました。僕は亀山といいます。こちらは助手の蛇森です。この街で探偵事務所を営んでいます」
蛇森も、軽く頭を下げた。
「今回のことは、食の四方である獅子音へ報告しましたか?」
四方は、それぞれの分野で働く民を守り、問題があれば調査する役目を担っている。
飲食店である狸野亭なら、後ろ盾は獅子音家だった。
「ああ。朝、落書きを見つけて、すぐ連絡したよぉ」
老人が答えた。
「そしたら、あちらも忙しいらしゅうてなぁ。落書きまで手が回らんと言われたんじゃ」
蛇森は眉を寄せた。
「それで、自分たちで消そうと?」
「その前に、証拠を残しとこうと思ってねぇ。高いところにも書かれとったから、脚立へ上がって写真を撮ろうとしたんよ。そこで足を滑らせて、このざまじゃ」
蛇森は、店先の壁を思い出した。
高い場所にまで、文字があった。
あれを見上げて、老人が一人で脚立へ上ったのか。
「……そりゃないだろ」
小さく呟いた。
亀山は携帯を取り出していた。
「ここのところ、飲食店のトラブルが増えているようですね。食材が届かない、食中毒が発生した、といった報告が出ています」
「だからって、後回しかよ」
「事情は確認しなければなりません。ですが、こちらの被害がなくなるわけではありませんからね」
亀山は画面を見つめ、何かを入力した。
それから、友香へ顔を向ける。
「友香さん。怖がらせたいわけではありませんが、この落書きは、あなたを狙ったものです」
友香が頷いた。
「噂に腹を立てた誰かの嫌がらせなのか、それとも、ここで働けなくするためなのか。目的はまだ分かりません」
蛇森は亀山を見た。
「ですが、犯人はあなたの勤務先を知っています。今朝の一件だけで終わると考えるのは、危険でしょう」
「……次もあるかもしれない、ということですか?」
「その可能性を考えて、動きたいと思います」
友香の表情が変わった。
「あの、弟は……。家の場所も知られていたら、弟だって危ないですよね」
「弟さんは、今、お仕事ですか?」
「はい。連絡してみます」
友香は携帯を取り出し、メッセージを送った。
すぐに画面を覗き込み、眉を寄せる。
「……え?」
「どうかしましたか?」
「もう、既読になりました。仕事中は、見ないはずなのに」
その直後、携帯が鳴った。
友香は慌てて電話に出た。
「もしもし。どうしたの? 今、仕事じゃ……」
言葉が止まった。
蛇森は、友香の顔を見ていた。
「え? 何で? ……うん。……分かった。ちょっと待って」
友香が携帯を耳から離す。
「現場を、急に解雇されたそうです。今、帰っている途中だって……」
部屋が静かになった。
「それなら、ここへ来てもらいなぁ」
老婦人が言った。
「なぁ、お父ちゃん」
「そうじゃ。ひとまず、ここへおいでと言ってやりなぁ」
友香は二人を見て、頷いた。
また携帯を耳に当てる。
「流兎。姉ちゃんのバイト先へ来られる? ……うん。狸野亭。待ってるから」
電話を切った後も、しばらく画面を見つめていた。
「……何が起きているんでしょう。弟の解雇も、私のせいなんでしょうか」
蛇森は身を乗り出した。
「違うだろ」
友香が顔を上げる。
「まだ、何で解雇されたかも分かってない。あんたが何かしたわけでもない。それなのに、自分のせいだって決めるなよ」
「でも……」
「そこは亀山が調べる。俺も動くから」
亀山は、携帯で連絡を取っていた。
顔を上げ、友香へ頷く。
「弟さんが来たら、詳しく伺いましょう」
老婦人が立ち上がり、台所へ向かった。
ほどなく、皿に乗せたおにぎりと漬物を運んでくる。
「お腹、空いたじゃろ。今はこんな物しか出せんけど、食べてなぁ」
ちゃぶ台へ皿を置いた。
「朝から、ずっと働いてくれたんじゃ。お腹が膨れたら、少しは気分も違うでぇ」
「おばさん……ありがとうございます」
友香の声が震えた。
「それから、巻き込んでしまって、本当に……」
「やぁだよ、この子は」
老婦人が、友香のそばへ座った。
「わしら、子供には恵まれんでねぇ。ずっと二人でやってきたんよ」
友香の顔を覗き込み、笑う。
「友香ちゃんみたいな子が来てくれて、嬉しかったんじゃ。もっと頼ってくれてええんよ。何でも一人で抱え込まんでなぁ」
友香は唇を結んだ。
何か言おうとして、息を詰まらせる。
「……おばさん」
老婦人が手を伸ばすと、友香はその肩へ顔を寄せた。
「ありがとう……ございます……」
今度は、声を抑えきれずに泣いた。
老婦人は何も言わず、背中をさすっていた。
座敷の老人が、目元へ手をやった。
蛇森は視線を落とし、皿のおにぎりを一つ取った。
形は少し不揃いだった。
まだ、温かかった。
しばらくして、店の裏口から声がした。
「す、すみません。姉が……こ、ここに、いると思うのですが」
蛇森は顔を上げた。
流兎が、入り口に立っていた。




