第十章 まだ知らないこと
第十章 まだ知らないこと
「流兎!」
友香が立ち上がり、入り口へ駆け寄った。
「怪我はない? 何があったの? 責任者は何て言ってた? 解雇されたのは、あなただけ?」
流兎は姉の顔を見て、それから視線を下げた。
「け、怪我は、してない。く、クビになって……ごめん」
「謝らなくていいの。ほかの人は?」
「し、知らない」
「まあまあ。そんなところで話さんで、こっちへおいでぇ」
老婦人が声を掛けた。
「お兄ちゃんも、おにぎり食べなぁ」
友香は一度、息を吐いた。
流兎の手を取り、居間へ戻ってくる。
蛇森は席をずらし、二人が並んで座れるようにした。
友香が、今朝からの出来事を弟へ説明する。
流兎は黙って聞いていた。時折、店先の方へ顔を向け、それから姉を見た。
話が終わると、亀山が口を開いた。
「流兎さん。職場では、どのように言われましたか?」
「きょ、今日で、来なくていいって。り、理由を聞いても……上が決めたからって」
「仕事で、何か問題があったと言われたわけではないのですね」
流兎が頷いた。
亀山は携帯を見た。
「僕から亀山家へ、事情を確認してほしいと連絡しています。建築の仕事は、住の四方の管轄ですからね」
蛇森は、亀山の手元を見た。
先程から続いていたやり取りは、その件だったらしい。
「まずは、こちらから調べたことをお伝えします」
亀山が流兎へ向き直った。
「あなたの仕事ぶりは、蛇森から聞いています。実直で、頼まれた仕事も正確にこなしていた。今のお話だけでは、突然解雇する理由が見えません」
流兎は少し戸惑った顔で、蛇森を見た。
蛇森は軽く頷いた。
「僕の弟が、亀山家の実務を担当しています。今回のことを伝えたところ、すでに同じ現場の解雇について報告が入っていたそうです」
「同じ現場?」
蛇森が尋ねた。
「ええ。ただし、その報告では、解雇の理由が違っています」
亀山は、その場の顔を見渡した。
「これから話すことは、まだ調査の途中です。外で話したり、噂として広めたりしないでください」
皆が頷いた。
「報告には、違法な建築に関わった作業員を解雇した、とありました。指定とは違う材料を使っていたためだそうです」
「そ、そんなこと……」
流兎が顔を上げた。
「し、してない」
「ええ。弟も、そのままには受け取りませんでした。現場の作業員が独断で材料を変更し、それを使わせるのは難しい。会社側へ確認したところ、別の話が出てきました」
亀山は一度、言葉を切った。
「その会社に、大きなテーマパークの建設話が持ち掛けられていたのです」
「テーマパーク?」
「是非とも受注したい仕事だったのでしょう。そこへ、あなたのいる現場の兎族を解雇すれば、建設を任せると言われたそうです」
蛇森は、亀山を見た。
「……何だ、それ」
「理由は、分かりません」
亀山は流兎へ尋ねた。
「あなたのほかに、現場には兎族の方が三人いましたね?」
流兎が頷く。
「その三人も、今日付で解雇されています」
友香が、弟の腕へ手を置いた。
蛇森は、机の下で膝に手をついた。
流兎一人を名指しするのではなく、現場の兎族を全員。
誰を追い出したいのか、会社側にも分からせないためだったのか。
そこまで考えてから、蛇森は口に出すのをやめた。
「その話を持ってきたのは、誰なんだ?」
「名は分かっています。ですが、今のところ、実在する人物かどうかも確認できていません」
「会社は、そんな相手を信じたのかよ」
「建設の許可証を見せられたそうです」
蛇森は顔を上げた。
テーマパークは、娯楽の分野だった。
「……兎束の?」
「ええ。少なくとも、会社側は兎束家の許可が下りていると受け取った。書類そのものが本物かどうかも、これから確認が必要ですが」
部屋が静かになった。
亀山は携帯を伏せ、ちゃぶ台へ置いた。
「ここで、二つの出来事を考える必要があります。友香さんの勤務先が荒らされたこと。そして、流兎さんが仕事を失ったことです」
友香が亀山を見た。
「同じ日に、姉弟の生活の場が傷つけられている。偶然の可能性もありますが、無関係と決めてしまうこともできません」
「私たちが、狙われているんですか?」
「その可能性を、考えています」
亀山は頷いた。
「落書きを見た時、僕はクラブの二人を思い浮かべました。ですが、猪木さんは、あなたの勤務先を知っていましたか?」
「……話した覚えはありません」
友香は少し考え、首を振った。
「働いていることは知っていたけど、お店の名前までは」
「では、猿田さんも知らなかった可能性があります。もちろん、後から調べたとも考えられますが、弟さんの解雇まで働き掛けられたかというと、疑問です」
蛇森も頷いた。
会社へ仕事を持ち掛け、四方の許可証まで見せる。
クラブで会ったあの男たちに、そんなことができるのだろうか。
「お二人が姉弟であることを知っている。勤務先も知っている。そして、娯楽の事業に関係する書類を用意できる」
亀山の言葉を聞きながら、蛇森の頭に一人の顔が浮かんだ。
期待に満ちた目で、ソファに座っていた兎月。
友香と一緒になりたいと、繰り返していた。
あれが、嘘だったのか。
友香を見ると、膝の上で両手を握っていた。
「……兎月くん?」
小さな声だった。
「そうとは、まだ言えません」
亀山が答えた。
「兎束家が関わっている可能性はあります。ですが、それが兎月さんの意思なのか、ご家族の誰かなのか、あるいは別の者なのか。今は分かりません」
蛇森は、友香から視線を外した。
兎月の言葉を信じていた。
だからこそ、裏があるのかもしれないと思った途端、嫌な想像ばかり浮かんだ。
父親と同じ考えを持っているのか。
自分たちを利用しているのか。
あの明るい顔の裏に、何があるのか。
「ね、姉ちゃん」
流兎が口を開いた。
「俺、兎月さんは……か、関係ないと、思う」
友香が弟を見た。
「関係ないかもしれないし、あるかも、しれない。でも……何も聞かないで、疑ってても」
流兎はゆっくり、言葉を続けた。
「分からないまま、想像するのは……噂と、同じ」
蛇森は顔を上げた。
流兎は姉だけを見ていた。
「本人に、聞いた方がいい」
友香は、しばらく黙っていた。
やがて、大きく息を吐く。
「……そうね」
握っていた手をほどき、膝の上へ置いた。
「怖くて、悪い方へばかり考えていたわ」
「姉ちゃん、兎月さんといる時……楽しそう」
流兎が言った。
「俺、いい奴だと、思う」
友香の口元が、少し緩んだ。
「ありがとう。会って、話したい。まだ何も聞いていないのに、決めてしまいたくない」
亀山が頷いた。
「僕も、そう思います」
それから、老夫婦へ顔を向ける。
「もう一人、こちらへ呼んでもよろしいでしょうか。度々お邪魔して、申し訳ありませんが」
老婦人が座敷を見た。
「お父ちゃん」
老人は、布団からこちらへ顔を向けた。
「友香は、わしらの娘も同然じゃ。巻き込まれんでも、自分から首を突っ込むよぉ」
友香が俯いた。
「誰か呼ぶくらい、いちいち聞かんでええ。早いとこ、話を聞いてやってくれぇ」
「ありがとうございます」
亀山が頭を下げた。
蛇森は携帯を取り出した。
兎月とのやり取りを開き、文字を打つ。
『友香さんが大変なことになった。狸野亭へ来てくれ』
亀山に画面を見せると、眉を寄せられた。
「……誘拐犯の脅迫みたいですね」
「急いで来てもらうんだろ」
「そうですが」
亀山が考えている間に、蛇森は送信した。
すぐに既読がついた。
*
裏口が開いた時、兎月は息を切らしていた。
「友香!」
居間へ飛び込んできて、友香のそばへ駆け寄る。
「何が……あった? 怪我は、ない?」
友香は立ち上がった。
「大丈夫。怪我はないわ。突然、呼び出してごめんなさい」
兎月は、友香の顔を確かめるように見た。
それから力が抜けたように、その場へ座り込む。
蛇森は、その様子を見ていた。
まだ疑いが晴れたわけではない。
けれど今、友香を見ている兎月の顔は、事務所で会った時と同じだった。
「兎月さん。急にお呼びして、申し訳ありません」
亀山が声を掛けた。
「まず、お話を伺いたいと思います。あなたが何故、僕たちへ相談することになったのか。友香さんにも、きちんと説明していただけますか」
兎月が亀山を見た。
「彼女に心配を掛けたくないと、おっしゃっていましたね。ですが、今は彼女自身の周りで問題が起きています。何も知らないままでは、考えることも、選ぶこともできません」
兎月は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
口を開きかけたところで、流兎が声を出した。
「そ、その前に」
皆が流兎を見た。
視線が集まり、流兎は一度俯いた。
「自己紹介……しない、かな」
蛇森は部屋を見渡した。
確かに、それぞれ知っている相手が違っていた。
「いいな。まず、そうしよう」
努めて明るく言った。
「俺らも、おじさんとおばさんの名前、まだ聞いてないし」
老婦人が、ふっと笑った。
「そうやったねぇ。わしは狸野道子。この店の、昔の看板娘じゃ」
道子は胸を張った。
「友香ちゃんは、娘同然でなぁ。よろしく頼むよぉ」
「母ちゃんまで、自己紹介するんか」
座敷の老人が言った。
「もちろんです。ご主人も、お願いします」
亀山が促した。
「参ったなぁ。こんな格好で、失礼するよぉ」
老人は布団の上へ片手を出した。
「狸野武雄。狸野亭の主人じゃ。母ちゃんも言うたけど、友香を悲しませとうない。それだけじゃ」
友香が、目元を指で押さえた。
「兎田友香です。ここで、アルバイトをしています。弟の流兎と、二人で暮らしています」
隣の兎月を見た。
「それから、兎月くんと、お付き合いしています」
兎月の顔が少し赤くなった。
「兎野……流兎です。姉ちゃんと、名字が違うのは……親が離婚して、別々に、引き取られたから」
流兎は膝の上へ両手を置いた。
「建築の、仕事をしてました。今日……クビに、なりました」
兎月が目を見開いた。
何か尋ねようとしたが、亀山に目で制され、口を閉じる。
「ボクは、兎束兎月です。父の会社で働いています」
兎月は姿勢を正した。
「友香とは、結婚を前提にお付き合いしています。ボクは……どうしても、友香と一緒になりたいんです」
友香が兎月を見た。
蛇森は、ちゃぶ台に置いた携帯を伏せた。
「俺は蛇森です。亀山探偵事務所で、助手をしています」
「所長の、亀山一亀です」
亀山が続けた。
「友香さん。初めにお会いした時、仕事をはっきり申し上げませんでした。兎月さんから依頼を受けて動いています。黙っていたことを、お詫びします」
蛇森も頭を下げた。
「俺も。ちゃんと名乗らずに近づいて、ごめん」
友香は二人を見て、それから兎月へ顔を向けた。
亀山が、改めて促す。
「兎月さん。ゆっくりで構いません。まずは、これまでのことを聞かせてください」
兎月は頷いた。
今度は友香の顔を見て、話し始めた。




