第十一章 そのままのあなた
第十一章 そのままのあなた
「ボクは大学を出て、すぐに父の会社へ入りました」
兎月は、友香を見ながら話し始めた。
「入社した時から役職についていました。でも、大学を出たばかりで、何も分からない。仕事は全部、年上の部下たちがやってくれていたんです」
蛇森は、黙って聞いていた。
「父のことを知っているから、皆、ボクに何も言えませんでした。仕事を教える時も、間違いを指摘する時も、すごく気を遣っていて」
兎月は膝の上へ目を落とした。
「ボクも、それは分かっていました。でも、父に意見できなくて。そのまま、一年半くらい過ぎてしまいました」
少しずつ仕事を覚えても、周りとの距離は縮まらなかった。
そのうち、源兎は兎月をさらに昇進させたという。
「父には、まだ早いと言いました。でも、聞いてもらえませんでした。周りも面白くなかったと思います。ボクだって、同じ立場なら嫌だったでしょうから」
兎月は、友香へ視線を戻した。
「会社にいるのが苦しくなって、一人になりたかったんです。それで、外へ弁当を買いに出て……友香に会いました」
友香が、小さく頷いた。
「一目惚れでした。初めから、結婚を前提に付き合いたいと思っていました。でも、いきなり言ったら断られるかもしれないから、友達になってほしいとお願いしたんです」
「結婚を前提に、お友達から、だったわね」
友香が言った。
兎月は、少し照れたように笑った。
「……うん」
蛇森は、口元が緩むのを抑えた。
本人は隠したつもりだったらしい。
「正式に付き合うようになってから、父と母へ話しました。父は、最初から反対しました。母は、ボクが好きになった人なら、と言ってくれたんです」
そこで、兎月の表情が曇った。
「でも、母が体調を崩して、検査入院をして……帰ってきてから、急に変わりました。友香との結婚は認めないって」
「理由は、聞きましたか?」
亀山が尋ねた。
「家柄が違うと。父と同じようなことを言いました。それまで、そんなことは言わなかったのに」
兎月は、友香の顔を見た。
「誰にも相談できなくて、困っていた時に、蛇森さんからチラシをもらいました。それで、亀山さんにお願いしたんです」
「一緒になる方法を、というご依頼でしたね」
「はい。それから、大会で優勝したら結婚を認めると、父に約束してもらいました。今朝、署名ももらえたので、蛇森さんに連絡しました」
兎月は、ちゃぶ台の上へ視線を落とした。
「今までのことは、そういう流れです」
しばらく、誰も口を開かなかった。
隣の座敷から、武雄の声がした。
「わしは、四方の家のことは分からんけどなぁ。いい大人が、何で親の許可をもらわんと結婚できんのじゃ?」
兎月が、座敷を見た。
「好き合っとるんなら、一緒になればええ。そう簡単にはいかんのかねぇ」
「……それができれば、苦労はないんです」
兎月が答えた。
道子が、眉を寄せた。
「でも、その話に、友香ちゃんがおらんねぇ」
「え?」
「お父さんが反対する。お母さんも反対する。そんで、探偵さんに相談する。友香ちゃんは、それを今日、初めて聞いたんじゃろ?」
兎月は、口を閉じた。
「大事にしとるつもりでも、置いてけぼりにしたら、いかんよぉ」
「おばさん」
友香が声を掛けた。
「ありがとう。兎月くんも、私のために考えてくれたんだと思うの」
それから兎月へ向き直った。
「私のこと、好きになってくれてありがとう。探偵さんにまで相談して、一緒になろうとしてくれたのね」
「ボクは、友香と一緒になりたいんだ」
兎月が言った。
「幸せにする。絶対に」
友香は、しばらく兎月を見ていた。
それから、口元だけで笑った。
「……私のこと、どこまで分かってるの?」
蛇森は、友香へ目を向けた。
さっきまでとは、声の調子が違っていた。
「夜な夜なクラブへ行って、男を探すような女よ。兎束家のお嫁さんになれば、贅沢できるって思っていたかもしれないでしょう?」
兎月は、何も言わなかった。
「でも、こんなに面倒なら、もういらない。結婚も――」
声が詰まった。
友香は一度唇を結び、それでも続けようとした。
目から涙が落ちた。
「……じゃあ、何で泣くのさ」
兎月が言った。
友香は、顔を背けた。
「今のは、ボクのため?」
兎月の声は静かだった。
「別れれば、ボクが困らなくなると思った?」
友香は答えなかった。
蛇森は、膝に置いた手を動かしかけた。
どう声を掛ければいいのか、分からなかった。
「ごめん。友香を守るつもりで、何も話さずに進めてた。傷つけたくないと思っていたのに、逆のことをしてたんだね」
友香が首を振った。
「……違うの」
道子が、友香のそばへ座った。
「私も、まだ隠していることがあるの」
流兎が顔を上げた。
「姉ちゃん……」
「大丈夫」
友香は弟を見た。
それから、もう一度兎月へ向き直る。
「お母さんが反対するようになった理由、私の病気かもしれない」
兎月は、友香を見つめた。
「検査入院したのは、婦人科だったの?」
「……うん」
「私も、通っているの。そこで見掛けたか、誰かから聞いたのかもしれない」
友香は、ゆっくり息を吸った。
「二年くらい前に、病気で卵巣を一つ取ったの」
道子の手が、友香の背中へ触れた。
「もう片方は働いているけど、私の場合、自然に妊娠する可能性は低いと言われている。全く無理だと決まったわけではないけど……赤ちゃんができないかもしれないの」
兎月は、動かなかった。
蛇森も、黙っていた。
「お母さんがそれを知ったとしたら、後継ぎが生まれないかもしれないって、心配したのかも。あの頃は、私の噂も広がっていたから」
友香は目元を拭った。
「そう考えたら、急に反対するようになったことも、分かる気がして」
「それは、まだ分かりません」
亀山が静かに言った。
「お母様が何を知り、何を考えたのかは、確かめなければ。ただ、話してくださって、ありがとうございます」
友香は小さく頷いた。
道子の手は、背中をゆっくりさすり続けていた。
兎月は、友香から目を離さなかった。
その沈黙の中で、流兎が口を開いた。
「姉ちゃんは、兎月さんが……好きなんだ」
兎月が、一瞬だけ流兎を見た。
「大事な人だから……こんな、つらいことも、話したんだ」
兎月は友香へ視線を戻した。
口元が歪む。
「……本当に、嫌になる」
流兎が立ち上がった。
兎月の胸ぐらをつかむ。
蛇森も、反射的に腰を上げた。
ワイシャツのボタンが一つ、弾けて床へ落ちた。流兎の拳が上がる。
「待ちなさい!」
亀山の声が響いた。
蛇森は二人の間へ身体を入れ、流兎の腕を押さえた。
拳は、振り下ろされなかった。
「兎月さん。あなたは、言葉が足りません」
亀山が言った。
「何が嫌なのか、きちんと話しなさい」
兎月は、流兎の拳を見上げていた。
「……ボクは、殴られて当然でしょう」
「殴られれば、何が変わるのですか」
亀山の声が硬くなった。
「君が自分を罰したいからといって、流兎さんにその役をさせないでください。今は、友香さんへ返事をする時です」
兎月が目を閉じた。
「ボクが……友香を好きになったから、こんなことになったんでしょう」
蛇森は兎月を見た。
「両親に反対されて、友香が苦しんで。それなのにボクは、何も話さず、幸せにするなんて言って……」
「甘ったれるんじゃないよぉ!」
座敷から声がした。
武雄が、肘をついて身体を起こしていた。
「さっき、自分の口で友香を幸せにする言うたじゃろう。それを今度は、自分が好きになったせいだと? ほんなら、もうやめるんか?」
「違います!」
兎月が顔を向けた。
「ボクは、友香と一緒にいたいんです。子供ができるかどうかで、気持ちが変わるわけじゃない!」
武雄が顔をしかめ、布団へ戻った。
道子が夫を見たが、武雄は片手を上げた。
大丈夫だという仕草だった。
「でも、ボクといるせいで、友香が傷つくのは嫌なんです。どうしたらいいか、分からなくて……」
兎月が両手で顔を覆った。
「嫌になるのは、そんなボク自身です」
流兎の手が、ゆっくり離れた。
蛇森も腕を下ろしたが、その場に立っていた。
「……姉ちゃんは、あんたといる時、幸せそうなんだ」
流兎が言った。
「ほかの誰が、何を言っても。でも、あんただけは……姉ちゃんを、傷つけないでくれ」
兎月は顔を覆ったまま、頷いた。
「ボク……友香を好きでいてもいいの?」
友香が、そばへ寄った。
「こんな弱いままでも、そばにいていい?」
友香は、兎月の手に触れた。
「兎月くん。私、あなたが強いなんて思ったこと、一度もないわ」
兎月の肩が止まった。
「だから、大丈夫。今のままのあなたが好きなの」
蛇森は、ゆっくり腰を下ろした。
友香の指が、兎月の手を握る。
「でも、私も一緒に考えたい。守ってもらうだけじゃなくて、困った時には話してほしい」
兎月が頷いた。
「……うん」
「だから、顔を上げて」
兎月は恐る恐る、両手を離した。
目元は赤くなっていた。
友香は、その顔を見て微笑んだ。
兎月も、泣きそうな顔のまま、小さく笑った。




