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亀山探偵事務所ーー亀、空を飛ぶ。  作者: もちむぎ


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第八章 胸騒ぎ

第八章 胸騒ぎ


 翌朝、蛇森は自宅で歯を磨いていた。


 洗面台に置いた携帯が鳴る。


 画面を覗くと、兎月からのメッセージだった。


『父から了承を得ました。署名ももらえました!』


 蛇森は歯ブラシをくわえたまま、口元を緩めた。


 文字だけでも、兎月がどれほど喜んでいるか分かった。


 口をすすぎ、すぐに亀山へ転送する。


 ほどなく返事が来た。


『了解』


「……味気ねぇなぁ」


 蛇森は呟き、携帯をポケットへ入れた。


 身支度を済ませ、事務所へ向かう。


 亀山は、もう起きていた。


 机に座り、パソコンの画面を見つめている。


「お。珍しく早いじゃん」


 声を掛けると、亀山が顔を上げた。


 眉尻が下がっていた。


「困ったことになりました」


 蛇森は足を止めた。


 亀山が、素直に困ったと言う。


 初夏だというのに、雪でも降るのではないかと思った。


「どうした?」


「今度の大会、僕が出ることになりました」


「……へ?」


「父から連絡がありましてね。弟が足を怪我したので、代わりに出るようにと」


 蛇森は亀山を見た。


 それから、机の画面を見た。


 やはり、父親からのメッセージが開かれていた。


「弟、大丈夫なのか?」


「捻挫だそうです。日常生活には大きな支障はありませんが、マラソンは無理だと」


「それで、お前?」


「ええ。龍王様の許可も得たので、出場するようにと言われました」


 亀山は、深く息を吐いた。


「どうせ勝てない競技なのですから、棄権を勧めたのですが。聞き入れてもらえませんでした」


「そりゃ、ご愁傷様」


 蛇森の口元が、緩んだ。


 亀山の目が細くなる。


「顔がにやけていますよ。他人事だと思って」


「だって、他人事だし」


 蛇森はソファへ座った。


「正直、へろへろになって走る亀山を見てみたい気持ちの方が強い」


「ああ。ここに鬼がいる」


 亀山は、感情のこもらない声で言った。


「僕がどれほど外へ出るのを苦痛に思っているか、知っているくせに。信頼している仲間が、僕の苦しむ姿を見たいと言う。何ということでしょう」


「はいはい」


「酷い仕打ちです」


「分かった、分かった」


 蛇森は笑いを収めた。


「でも、親父さんの命令なら、もう決定なんだろ? ちょうどいいじゃねぇか。間違っても兎月に勝たないようにできて」


「そんな心配は、初めから必要ありません」


 亀山は即座に答えた。


「兎族にマラソンで勝つなんて、逆立ちしても無理ですよ」


「まあ、逆立ちしたら、余計に進まねぇしな」


 亀山が黙って蛇森を見た。


 蛇森は、携帯を取り出した。


「それより、兎月の連絡。見ただろ?」


「ええ。その件ですが、署名された書面の原本を、こちらで預かりたいですね」


「何で?」


「兎月さんの手元に置いたままだと、いつ取り上げられるか分かりません。お父上が考えを変える可能性もあります」


 蛇森は画面のメッセージを読み返した。


 ようやく取りつけた約束だった。


 なくしたと言われたり、署名した覚えはないと言われたりしては、兎月が気の毒だ。


「じゃ、持ってきてもらうか」


「何度もここへ通っていることを、お父上に知られたくはありません。少なくとも、大会が終わるまでは」


「なるほどね」


 蛇森は少し考え、顔を上げた。


「俺、いいこと思いついたかも」


「何でしょう」


「昔、スパイ映画で見たやつ。あれ、やってみようぜ」


 亀山が眉を寄せた。


「君は、すぐフィクションに影響される……」


「まあ、聞けって」


 蛇森は身を乗り出した。


     *


 兎月へ送った指示は、三つだった。


 署名された書面をコピーし、原本を持ち出すこと。


 昼休みに会社近くの公園へ行き、雑誌を読みながら昼食を取ること。


 帰る時、雑誌の間に原本を挟み、そのまま公園のごみ箱へ捨てること。


 兎月が去った後、蛇森が回収する。


 携帯を見せると、亀山はしばらく文面を読んでいた。


「……雑誌を捨てるところを、誰かに見られても不自然ではないようにしてくださいね」


「そこは、ちゃんと言っとく」


 蛇森は説明を付け加え、送信した。


 すぐに返事が届く。


『分かりました。会社の近くに虹色公園があります。昼休みは十二時からです』


「決まりだな」


「少し早めに行って、様子を見ておく方がよいでしょう」


 蛇森は時計を見た。


 まだ、時間に余裕があった。


「その前に、何か食う?」


 亀山から返事がなかった。


 見ると、机の上へ視線を落としている。


「亀山?」


「……友香さんの方も、気になります」


「昨日は、無事に家まで送っただろ」


「ええ」


 亀山は頷いたが、表情は晴れなかった。


「お父上が結婚を認めた。それは喜ばしいことです。ですが、あれほど反対していた方が、条件つきとはいえ了承したのですから……」


「裏があるかもって?」


「あるとは言い切れません。ただ、何か引っかかるんです」


 蛇森は携帯をテーブルへ置いた。


 亀山は時折、こういう顔をする。


 まだ何も起きていないのに、見えないものの気配を探しているような顔だった。


「友香さんに、何かされると思うのか?」


「分かりません」


 亀山は立ち上がった。


「だから、見に行きます。君は書面を受け取ってきてください。僕は、彼女の勤め先へ」


「一人で平気か?」


「見に行くだけです。何もなければ、それでいい」


 亀山は上着を手に取った。


 蛇森も、ソファから立ち上がる。


「何かあったら、必ず連絡しろよ。俺も、受け取ったらすぐ行くから」


「お願いします」


 二人で事務所を出た。


 通りへ出たところで、別々の方向へ歩き始めた。


     *


 蛇森は約束の三十分前に、虹色公園へ着いた。


 公園からは、兎束の会社の出入り口が見える。


 立派な建物だったが、人の出入りは少なかった。


 蛇森は少し離れた場所に立ち、携帯を取り出した。


『もう着いている。早めに出られそうなら、連絡してくれ』


 兎月へ送る。


 しばらく待ったが、既読はつかなかった。


 十一時五十分を過ぎた頃、会社の扉が開いた。


 兎月が一人で出てきた。


 片手には小さな紙袋。もう片方には雑誌を持っている。


 公園へ入り、ベンチに座った。


 紙袋からパンと苺ミルクのパックを取り出す。


 パンを口へ運び、雑誌を開いた。


 蛇森は、少し離れた物陰から見ていた。


 兎月は雑誌を、やけに速くめくっている。


 読んでいないことが、遠目にも分かった。


 周囲を見回し、パンを食べ、また雑誌をめくる。


「……怪しすぎるだろ」


 蛇森は小さく呟いた。


 五分も経たないうちに、兎月が立ち上がる。


 ごみ箱へ紙袋を入れ、その上に雑誌を落とした。


 最後にもう一度、きょろきょろと周りを見てから、会社へ戻っていった。


 蛇森は、すぐには動かなかった。


 ごみ箱に近づく者がいないか、じっと見ていた。


 会社の扉が閉まってから、十分ほど待つ。


 それから、ポケットに入れていた不要な紙を手に、公園へ入った。


 ごみを捨てるついでに、中を覗く。


 真新しい雑誌が、一冊あった。


 何気なく拾い上げ、ページをめくる。


 間に挟まれた書面を確かめると、そのまま公園を出た。


 歩きながら、亀山と兎月へ連絡する。


『原本、回収完了』


 続けて、亀山へ送った。


『今からそっちへ向かう』


 返事は、すぐに来た。


『狸野亭に来てください』


 友香が働いている弁当屋だった。


 蛇森は画面を見た。


 何もなければ、亀山はそう書くはずだった。


 携帯をしまい、歩く速度を上げる。


 狸野亭は、ここから遠くない。


 通りを曲がると、店先が見えた。


「亀山! 大丈夫か?」


 駆け寄りかけて、蛇森は足を止めた。


 亀山はスーツの上に割烹着を着て、店の壁をこすっていた。


 その横には、同じようにたわしを持つ友香がいる。


 壁には、大きな文字が残っていた。


『あばずれ』


『犯罪者』


『兎田友香』


 蛇森は、言葉を失った。


 足元には、野菜くずや生ごみが散らばっている。


「……何だよ、これ」


 亀山が振り向いた。


「君も手伝ってください。まず、足元のごみを」


 蛇森は、近くに立て掛けてあった箒を手に取った。


 友香は何も言わず、壁をこすっていた。


 頬を涙が伝っている。


 それでも手を止めず、自分の名前にたわしを押しつけていた。

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