第七章 噂の出どころ
第七章 噂の出どころ
蛇森は、カウンターに並ぶ三人の男へ近づいた。
先日、友香の噂を聞かせてきた猿族の男が、こちらを見ている。
「この間はどうも。いろいろ話を聞かせてもらって、助かったよ」
男は少し考えてから、手を打った。
「ああ、あの時の兄ちゃんか。何だ、噂を知らねえ男が兎族の餌食になるのかと思って見てたけど、違うのか」
隣の二人へ顔を向け、笑う。
「知ってて近づいて、振られたのか?」
蛇森は、口元に力を入れた。
ここで怒鳴っても、話は聞けない。
「その噂について、僕にも教えていただけますか」
亀山が、隣から口を開いた。
「この女に、ここで声を掛けられる。ついていくと怖い男が出てきて、金を脅し取られる。それだけだよ。同じ話、そっちの兄ちゃんにもしただろ?」
「ええ。その被害に遭われた方は、お知り合いだとか」
「そうなんだよ。面白い奴でさ。俺らと一緒で、ほとんど毎日ここへ来てたんだけど、あれから来なくなっちまった」
男は、友香のいる方を顎で指した。
「あの女が来なくなったら教えてくれって、頼まれてんだ」
「連絡先を交換するほど、親しい方なのですね」
「交換も何も、会社の後輩だ。最初は彼女ができたって喜んでたのによ。気の毒になぁ」
蛇森は、横に下ろした手を握った。
亀山が、わずかに前へ出た。
「お名前を伺っても?」
「俺か? 猿田だ」
「猿田さん。後輩の方は、被害届を出されましたか?」
「それ、俺も言ったんだよ。猪木、届けを出せって。でも、あいつ優しいっていうか、びびりっていうか。結局、泣き寝入りだ」
猪木。
蛇森は、その名を覚えた。
「そうでしたか。ところで、先程から彼女のことをよく見ていらっしゃるようですが、ここで彼女が誰かに声を掛けるところを、ご覧になったことはありますか?」
猿田は、首を傾げた。
「あー……。俺らがいる時は、誰とも話さねえで帰ることが多いな。なあ?」
隣の二人が頷いた。
「では、猪木さん以外に、被害に遭った方をご存じですか?」
「いや、知らねえけど。一度も二度も変わらねえだろ。罪は罪だ」
「ええ。罪を犯していれば、そうでしょうね」
亀山の声は、変わらなかった。
「今、街で広まっている噂は、あなた方がお話しになった内容だと考えてよろしいですか?」
「まあ、そうだろうな。でも、間違ったことは言ってねえし。噂の出どころなんて、どうでもいいだろ」
「彼女にとっては、どうでもよい話ではありません」
猿田の笑いが止まった。
「内容が事実でなければ、彼女は身に覚えのないことで傷つけられています。誰が、何を根拠に広めたのか、確かめる必要があります」
「何だよ。俺が悪いっていうのか?」
「あなたは、猪木さんから聞いた話を、そのまま広めたのですか?」
「そうだよ」
「では、彼女が男を誘っていたところも、金を要求したところも、ご自分では見ていない」
「だから、猪木が――」
「はい。猪木さんがおっしゃったのですね」
猿田の顔が、赤くなっていった。
「たかが噂じゃねえか。みんなやってるだろ。酒を飲みながら、あいつがどうした、こいつがどうしたって。何で俺だけ、こんなこと言われなきゃならねえんだよ」
蛇森は、息をゆっくり吐いた。
相手が噂を軽く扱うほど、殴りたい気持ちが強くなった。
「だいたい、綺麗な服を着て、一人でクラブへ来る女なんて、裏でろくでもないことしてるに決まってんだ」
猿田は、友香の方を見た。
「俺が相手してやろうと思ってたのに、何であんな田舎くさい猪木とくっつくんだよ」
蛇森は顔を上げた。
亀山も、猿田を見ていた。
「おかしいだろ。あいつ、俺に彼女の自慢までしやがって。思い出したら、また腹が立ってきた」
「……それで?」
亀山が促した。
「少し忠告してやったんだよ。手をつないで歩くだけで幸せって、いつまでそんなことやってるんだってな。ぐずぐずしてたら、ほかの男に取られちまう。さっさと自分のものにしろって」
猿田は笑った。
「女の嫌は、いいってことだ。安心して進めろって、そう言ってやったんだよ」
蛇森は、一歩踏み出した。
亀山の腕が、さりげなく前へ伸びた。
止められたことは分かった。
まだ、我慢しろ。
そう言われている気がした。
「猪木さんは、その言葉を聞いて、彼女に関係を迫ったのですね」
「らしいな。でも、部屋には別の男がいた。大した女だよ。猪木も、ようやく分かっただろ」
もう一歩、蛇森は動いた。
拳を振り上げた。
亀山が、猿田の前へ身体を入れる。
鈍い音がした。
拳に、硬い感触が返ってきた。
「っ……!」
蛇森は手を引いた。
目の前にあったのは、亀山の背中だった。
「いけません、蛇森くん」
亀山が振り向いた。
「何でだよ!」
蛇森は赤くなった拳を握り直した。
「そんな奴、かばうことないだろ!」
「君が手を出せば、今度は君が加害者になる」
亀山は、猿田から離れた。
「彼女を傷つけた者のために、君までそうなる必要はありません」
蛇森は、言葉を飲み込んだ。
殴った手が痛かった。
それより、亀山を殴ったことが腹立たしかった。
猿田は顔を青くしていたが、亀山が自分を守ったと分かると、また口を開いた。
「確かに、余計なことを言ったかもしれねえ。でも、彼女に別の男がいたのは事実だろ。だから、猪木だって――」
亀山が、カウンターを叩いた。
大きな音が響いた。
「少し、黙っていただけませんか」
その声に、蛇森も動きを止めた。
亀山の口元から笑みが消えていた。
「あなたの話を聞いていると、どうやって相応の責任を取っていただくか、そればかり考えてしまいます。これ以上、僕を刺激しないでいただきたい」
近くにいた客が、こちらを見ていた。
猿田の隣の二人も、いつの間にか椅子から腰を浮かせている。
「彼女と暮らしている男性は、実の弟です。確認も取れています」
「……弟?」
「仕事から帰ってきた弟を、猪木さんが怖がった。金を要求されたわけでもないのに、財布を置いて逃げた。それが、彼女から伺った話です」
猿田は、隣の二人を見た。
どちらも、何も言わなかった。
「あなた方が広めた話とは、随分違いますね」
「そんな……。でも、猪木は……」
「猪木さんの話を聞く必要はあります。ですが、少なくとも、何人もの男が被害に遭っているかのように広める根拠はなかったはずです」
猿田が俯いた。
蛇森は、亀山の横に立ったまま、その頭を見ていた。
この男が友香を気に入っていたことも、後輩への嫉妬も、友香には関係がない。
なのに、友香と流兎が悪者にされていた。
「自分で確かめてもいない話で、人を傷つける。あなたにとっては酒の肴でも、彼女はその噂のせいで、行く先々で疑いの目を向けられているんです」
亀山の声が、静かになった。
その時、背後から友香が近づいてきた。
「これ、猪木さんへ返していただけますか」
財布を、猿田の前に置いた。
「連絡がつかなくなってしまって。ここへ来れば会えるかと思って、ずっと探していました」
猿田が、顔を上げた。
財布を手に取り、それから友香を見た。
「……これを返すために、来てたのか」
「はい」
「俺は……噂が広がっても来るのをやめねえから、本当にそういう女なんだと……」
蛇森は、また口を開きそうになった。
亀山の手が、今度は腕に触れた。
「……すまなかった」
猿田が言った。
友香は、少しだけ頷いた。
「私は、もうここには来ません」
声ははっきりしていた。
「これから何を話されるか、全部確かめて回ることはできません。でも、私の大切な人が信じてくれれば、それでいいです」
蛇森は友香を見た。
赤い口紅は、相変わらず彼女の顔に不釣り合いだった。
けれど今は、そればかりが目につくことはなかった。
「バイト先のご夫婦も、きっと噂を知っています。それでも、変わらず親切にしてくれます。私は、そういう人たちとの時間を大事にしたいんです」
友香は一礼し、踵を返した。
蛇森と亀山も、その後を追った。
数歩進んだところで、友香が立ち止まる。
「あ。一つだけ、伝えてください」
振り返り、猿田を見た。
「先輩に言われたからって、力ずくで女性をどうこうしようとする男なんて、私、大嫌いですから!」
それから、にっこり笑った。
今度こそ、扉へ向かって歩き出す。
蛇森はその後ろで、ようやく握っていた手を開いた。
*
店の外へ出ると、空には星が見えた。
友香が深く息を吸った。
「……すっきりしました」
二人へ向けた顔には、笑みがあった。
「これで、よろしいのですか?」
亀山が尋ねた。
「彼がしたことも、噂の件も、然るべきところへ相談することはできます。必要であれば、お手伝いしますが」
「ありがとうございます。でも、今はもういいです」
友香は首を振った。
「あの人たちのために、これ以上、時間を使いたくないんです」
「……分かりました。お気持ちが変わった時には、ご相談ください」
「はい」
亀山は道の先を見た。
「夜も遅いですし、お宅まで送りましょう。蛇森くんが送り狼になっては困りますから、二人で」
「俺を何だと思ってるんだ!」
蛇森は、思わず声を上げた。
「そんなことするわけないだろ!」
友香が笑った。
「大丈夫ですよ。蛇森さんは、私には何も感じないそうですから」
「……それは」
「それに、家には怖い弟がいますし」
蛇森は、言葉を探した。
先程の発言を忘れてくれていればよかったが、そんなに都合よくはいかなかった。
「きっと、好きな方がいらっしゃるんですね」
友香が言った。
「だから、私なんて、道端の石ころくらいにしか見えないんですよね?」
「いや、石ころとか、そういうことじゃなくて」
亀山が、横で笑っている。
蛇森は、その顔を見た。
誰のせいで、ほかの女に気が向かないと思っているのか。
そんなことを言えるはずもなく、視線を逸らした。
「そのくらいにしてあげてください。彼には今後、デリカシーを教えていきますから」
「何なんだよ、二人して。俺をいじめて楽しいか?」
「はい」
「ええ」
返事が重なった。
友香が声を立てて笑い、亀山まで肩を揺らした。
蛇森は大きく息を吐いた。
まあ、笑っているなら、それでいい。
三人で、夜道を歩いた。
*
友香をアパートへ送り届け、事務所に戻る頃には、日付が変わっていた。
亀山は明かりをつけ、ソファへ腰を下ろした。
蛇森も向かいに座った。
「……背中、大丈夫か?」
「何ともありませんよ」
亀山は、上着を脱いで背もたれに掛けた。
「亀族の甲羅は頑丈です。むしろ、君の手の方が心配ですね」
「俺の手はいいんだよ」
蛇森は、自分の拳を見た。
まだ少し赤かった。
「何で、あそこで飛び込んでくるんだよ。お前まで怪我したら、どうすんだ」
「言ったでしょう。君を加害者にしたくなかったんです」
亀山は欠伸をした。
「君の手を、汚したくなかった」
蛇森は顔を上げた。
亀山は目元をこすり、そのままソファに横になった。
久しぶりに外へ出て、夜遅くまでひとと話した。
疲れ切っているのは、一目で分かった。
「……寝るなら、ちゃんと寝ろよ」
「少しだけ……」
その言葉を信じたことは、ほとんどなかった。
蛇森は立ち上がろうとした。
亀山の声が、聞こえた。
「君には……好きなひとが、いるのですか」
目は閉じたままだった。
「……知りませんでした」
蛇森は動きを止めた。
すぐに答えようとしたが、その前に静かな寝息が聞こえ始めた。
「……いるよ」
ソファに横たわる亀山を見た。
「俺の、目の前に」
返事はなかった。
蛇森は奥へ行き、毛布を持ってきた。
眠る亀山の身体へ、そっと掛ける。
「……くっそ鈍感」
小さく呟いた。
それから明かりを消し、静かに事務所を出た。




