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亀山探偵事務所ーー亀、空を飛ぶ。  作者: もちむぎ


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第六章 真っ赤な口紅

第六章 真っ赤な口紅


 その夜、街で唯一のクラブに友香はいた。


 濃い化粧に、真っ赤な口紅。


 二十一歳の顔には不釣り合いなその化粧を、今夜も念入りに施してきた。


 飲み物を片手に、店内を見渡す。


 カウンターに並ぶ男たち。音楽に合わせて身体を揺らす客。壁際で話し込む男女。


 探している顔は、見当たらなかった。


「……今日も、いないか」


 友香は小さく息を吐いた。


 文句の一つでも言ってやりたいと思っていた。


 しかし、同じ場所へ何度通っても見つからない。時間だけが過ぎていく。


 もう諦めてもいいのではないか。


 そう考えかけた時、横から声がした。


「こんばんは。時々見掛けるけど、いつも一人だよね」


 長身の男が立っていた。


 切れ長の目に、通った鼻筋。整った顔立ちだったが、友香は眉を寄せた。


「……どちら様でしょうか?」


「俺、蛇森っていうんだ。ちょっと気になったから、声掛けただけ」


「私、男漁りをしているわけじゃありませんから」


 きっぱり言った。


「人を探しているんです」


 男の笑顔が、少し引っ込んだ。


「へえ。誰を探してるの? 手伝おうか。俺、仕事柄、そういうの得意なんだけど」


「結構です。返さなければならない物もあるので、自分で探します」


 友香は視線を店内へ戻した。


 噂が広まってから、男たちは遠巻きにこちらを見るだけで、近づいてこなくなった。


 その方がよかった。


 面倒な相手に声を掛けられないよう、化粧もわざと濃くしている。今夜も人探しだけをして、帰るつもりだった。


「でも、そいつ、もう来ないんじゃない?」


 友香は男を見た。


「君の噂を知ってるなら、わざわざ来ないだろ。金を取られるかもしれないって思ってたらさ」


 腹が立った。


 この男も、あの噂を知っている。


 何も知らないくせに、当然のように口にする。


 睨み返そうとしたのに、目から涙が落ちた。


「えっ。いや、泣かせるつもりじゃ……。何か事情があるなら、話を聞くよ」


「泣いてません」


 友香は顔を背けた。


「放っておいてください」


「でも、困ってるんだろ? 俺、怪しくないよ。別に、君に性欲的なものは一切感じてないし――」


 友香は振り向いた。


「何なんですか、あなた! 痴漢ですか? 変態ですか?」


「いや、違うって」


「放っておいてと言っているのに、今度はそんな話ですか!」


 男が口を閉じた。


 友香が席を離れようとした時、その後ろから声がした。


「君は、デリカシーというものを学んだ方がいい」


 垂れ目の男が立っていた。


 蛇森と名乗った男を、呆れたように見ている。


「彼女を怒らせるよう、お願いした覚えはありませんよ」


「亀山? 何でここにいるんだよ。外へ出るの嫌だって、いつも俺を行かせるくせに」


「ちょっと待ってください」


 友香は二人の会話を遮った。


「私のことを話しているんですか? あなた方は、何なんですか?」


 亀山と呼ばれた男が、こちらに向き直った。


「申し遅れました。亀山といいます。困り事の相談や調査を引き受ける仕事をしています。兎月さんから、あなたのお話を伺っていましてね」


「兎月くんから?」


「ええ。お身体があまり丈夫ではないので、心配だと。何かお困りのことがあれば、力になってほしいと頼まれています」


 友香は、持っていたグラスを近くのテーブルへ置いた。


 手に力が入らなかった。


「……知っていたんですね」


「何をでしょう」


「私の噂です。兎月くん、いつも優しくて、何も言わないから……。知らないんだと思っていました」


 あの噂が彼の耳へ届く前に、片づけたかった。


 何もかも嘘だと、胸を張って言えるようにしたかった。


「ご心配には及びません」


 亀山が言った。


「兎月さんの口から、噂の話を聞いたことはありません。聞かせていただいたのは、ほとんど惚気話です」


 友香は顔を上げた。


「……本当に?」


「ええ。ですが、僕たちは噂を耳にしました。そこで、あなたに直接お話を伺いたいと思ったのです」


 亀山は蛇森をちらりと見た。


「彼も、そのつもりだったのでしょう。ただ、配慮に欠けた言い方になりました。申し訳ありません」


 蛇森も頭を下げた。


「ごめん。さっきのは、俺が悪かった」


 友香は二人を見た。


 兎月が噂を信じて、彼らをここへ寄越したわけではない。


 そう分かって、ようやく息ができた気がした。


 同時に、自分が何を恐れていたのかも分かった。


 彼が離れていくことだった。


 兎束家の息子だからではない。


 自分に向かって少し照れたように笑う、兎月を失いたくなかった。


「よろしければ、話していただけませんか」


 亀山が静かに尋ねた。


「何があったのかを」


 友香は店内へ目を向けた。


 今夜も、探している男はいない。


 一人で通い続けても、何も変わらなかった。


 しばらく迷った後、壁際の席を指した。


「……あちらなら、少しは話しやすいと思います」


     *


「一緒に暮らしているのは、弟です。流兎っていいます」


 二人が向かいに座ると、友香は話し始めた。


「子供の頃に両親が離婚して、私は母に、弟は父に引き取られました」


 母は離婚して間もなく、別の男と暮らすようになった。


 新しい父との生活は、初めから悪かったわけではない。


 けれど妹が生まれてから、友香は少しずつ居場所を失った。


 その頃、病気にもなった。


「治療を受けさせてくれたことには、感謝しています。でも、ずっとあの家にいるのは難しくて」


 体調が落ち着いた十八歳の頃、家を出た。


 弁当屋で短時間の仕事をしながらお金をため、小さなアパートを借りた。継父は保証人になってくれた。


 流兎を見つけたのは、それから後のことだった。


「バイト先の近くで、工事が始まったんです。そこに、父によく似た人がいて」


 気になって、昼休みには現場の横を通るようになった。


 ある日、怒鳴り声が聞こえた。


 兎野、という名が呼ばれた。


 仕事が終わるのを待ち、その男へ声を掛けた。


「身体は大きくなっていました。でも、目が……すごく、おどおどしていて」


 姉だと名乗っても、流兎はしばらく黙っていた。


 近くの喫茶店へ連れていき、少しずつ話を聞いた。


 離婚後、父は酒に溺れていた。


 気に入らないことがあると、躾だと言って流兎を殴った。何日も家を空け、まだ幼い流兎を一人で残すこともあったという。


 外へ出ることを禁じられ、食べる物がなくなっても、ただ父の帰りを待っていた。


「その頃から、言葉が出づらくなったそうです」


 友香は膝の上で両手を重ねた。


「大きくなって、殴られることは減ったけど、父を怖がるのは変わらなくて。話している間、一度も笑わなかったんです」


 それでも流兎は、父と暮らしていた。


 友香は、その日のうちに言った。


 姉ちゃんと一緒に暮らそう。


 もう、あの人のところへ帰らなくていい。


「初めは、お互い、どうしたらいいか分からない感じでした。でも、少しずつ慣れて……今は、笑ってくれるんです」


 洗い物をしながら、こちらを見て笑った弟の顔が浮かんだ。


「落ち着いている時は、言葉も出やすいみたいで。家のことも手伝ってくれます」


 二人は黙って聞いていた。


 友香は一度、飲み物に口をつけた。


「噂になった出来事は、弟と暮らし始めて間もない頃です」


 グラスを置き、膝の上の手を握る。


「ここで知り合った人と、付き合っていました」


 話しやすい男だった。


 病気のこともあって、男と付き合った経験のなかった友香には、一緒に出掛けて話すことが楽しかった。


 何度目かのデートで、男がアパートへ行きたいと言った。


「弟がいるからって、断ったんです。でも、少しだけでいいって。昼間だったし、部屋を見せてお茶を飲んだら、また出掛ければいいかと思って……」


 断り続けたら、嫌われるかもしれない。


 あの時は、そんなことも考えていた。


「帰ろうとした時に、押し倒されました」


 蛇森の眉が動いた。


「やめてって言ったんです。押し返そうとしても、重くて。口も塞がれて……」


 友香は息を継いだ。


 あの時の重さや息遣いが、まだ身体に残っている気がした。


 その時、玄関の扉が開いた。


 仕事から帰った流兎が、そこに立っていた。


 男は流兎を見ると、友香から離れた。


 すみません、これで許してください。


 そう言って財布を置き、逃げていった。


「弟は、何も言っていません。殴ってもいないし、お金を出せなんて、一言も」


「それで、あの噂かよ」


 蛇森の声が低くなった。


「……はい」


「っんだよ、それ。そいつ、絶対に見つけてやる」


 友香は顔を上げた。


 蛇森は口元を固く結んでいた。


 自分の話を聞いて、怒っている。


 弟以外にも、信じてくれる人がいた。


 胸の奥が熱くなった。


「でも、私も……あの人のこと、何も知らなかったんです。家へ上げなければ、こんなことには」


「相手のことを十分に知らないまま、家へ入れるのは危険です」


 亀山が言った。


「住所も勤め先も、ご存じなかったのですか?」


「……はい」


「そして、今も一人で探している。見つけたとして、また二人きりになったら、どうするおつもりですか」


 言葉が胸に刺さった。


 何も考えていなかったわけではない。


 財布を突き返して、怒鳴って、それで終わりにするつもりだった。


 けれど、相手がどう出るかまでは考えていなかった。


「こうして僕たちを信用して話すことも、もう少し慎重に――」


「亀山」


 蛇森が遮った。


「悪いのは、その男だろ。友香さんは被害に遭ったんだ」


「それは分かっています。ですが、危機感を持っていただかなければ、また同じような――」


 友香は俯いた。


 握り合わせた手へ、さらに力が入る。


 また誰かに迷惑を掛けるかもしれない。


 流兎が帰ってこなかったら、どうなっていたか。


 自分でも、何度も考えたことだった。


「……申し訳ありません」


 亀山の声がした。


 友香が顔を上げると、亀山は椅子に座り直していた。


「責めるつもりはありませんでした。言い方がきつくなりましたね」


 それから、蛇森を見た。


「その男のしたことが悪い。それは、君の言うとおりです」


 再び友香へ向き直る。


「ただ、今度は一人で会いに行かないでいただきたい。彼を見つけることも、その後の対応も、僕たちが手伝います」


 友香はゆっくり頷いた。


「お願いします」


 バッグを開け、財布を取り出した。


「これを返したくて、通っていたんです。電話もつながらないし、ニャインも既読にならなくて。ここへ来れば会えると思って」


 亀山が財布を見た。


「返すために、ずっと持ち歩いていたのですか?」


「ええ。もういいかと思ったこともありました。でも、噂を聞いたら……」


 流兎が自分を助けてくれた時の顔を思い出した。


 あの弟まで、脅しを働く男にされていた。


「私と弟を、何だと思ってるのって。財布を返して、あんたなんか大嫌いだって言ってやりたくて」


「……なるほど」


 亀山が小さく頷いた。


 友香は財布をバッグへ戻す。


「この化粧も、男の人に声を掛けられたくなくて。わざと濃くしているんです」


 蛇森が、友香の顔を見た。


「ごめん」


「え?」


「俺、噂を聞いて、勝手に分かった気になってた。さっきも、あんなこと言って」


 蛇森は頭を下げた。


 友香は少し驚いてから、首を振った。


「話を聞いてくれましたから」


 亀山が蛇森へ顔を向けた。


「君に噂を話した方は、今日、ここにいますか?」


 蛇森が店内を見渡した。


 友香も、その視線を追った。


 カウンターに、スーツ姿の男が三人並んでいる。


 一人がこちらを見て、にやりと笑った。


「……いる」


 蛇森が言った。


「あそこの三人だ」


 亀山が、ゆっくり席を立った。


「では、少しお話を伺いましょうか」


 友香へ向き直る。


「あなたは、ここで待っていてください」


 蛇森も立ち上がった。


 友香はバッグの上に手を置いたまま、二人がカウンターへ向かうのを見送った。


 あの男たちが、噂を話していた。


 何を知っているのだろう。


 何を聞かされて、ああやって笑っているのだろう。


 指先が冷たくなった。


 けれど今夜は、一人で店内を見渡していた時とは違っていた。


 自分の話を聞いた二人が、そこにいる。


 友香は、立ち上がりそうになる自分を抑え、席で待った。

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