第四章 優勝の約束
第四章 優勝の約束
約束の一週間が過ぎ、兎月が事務所を訪ねてきた。
ソファに座るなり、亀山へ身を乗り出す。
「友香と一緒になれる方法、あるんですよね。教えてください。ボクは何をすればいいですか?」
瞳がきらきらしていた。
顔に『期待しています』と油性マジックで書いてあるのではないかと思うほど、期待に満ちている。
蛇森は、その目を直視できなかった。
方法がまとまったとは聞いていたが、まだ亀山から詳しい説明を受けていない。何をさせるつもりなのか、知らないままだった。
亀山は一枚の新聞をテーブルに広げた。
「兎月さん。今年も、こちらの大会に出場なさいますよね?」
指先で示したのは、龍王祭の記事だった。
「はい。ここ数年は、父の代わりにボクが出ています」
「今年の種目は、マラソンです」
「……はい」
兎月は新聞と亀山を交互に見た。
この国では、建国を祝う祭りに合わせ、年に一度、四方の当主または次期当主が参加する大会が催される。
種目を決めるのは龍王だった。
大食い大会の年もあれば、チェスの年もある。刺繍の腕を競ったこともあった。
四方が国の繁栄のため、これからも力を尽くす。その意思を神と民に示す場であり、勝敗だけを目的とした大会ではない。
とはいえ、優勝した分野は、その後、不思議と業績が上向く。
それは龍王を通して授けられる神の加護だといわれ、民も自分の生業を支える四方に声援を送っていた。
「こちらの記事も、ご覧ください」
亀山は、別の新聞を重ねた。
過去の大会結果とともに、源兎の談話が載っている。
「三年前は三位。その翌年は二位。昨年は一位。なかなかの成績ですね」
「種目によりますから……」
兎月は、苦笑いを浮かべた。
「ボクが得意なものばかりではありません」
「ですが、お父上は今年も優勝を望んでいらっしゃる」
亀山は、記事の一文を指した。
『今年も優勝する。兎束家が、この国の産業を牽引していく』
「ご自分は出ないのに、勝手なことを……」
兎月が小さく呟いた。
「そのお気持ちを、利用させていただきましょう」
亀山の言葉に、兎月が顔を上げる。
「あなたからお父上へ、こう提案するのです。大会で優勝したら、友香さんとの結婚を認めてほしい、と」
「優勝したら……」
「ええ」
兎月は、もう一度新聞を見た。
「マラソンなら、可能性はあると思います。でも、ボクにできるでしょうか」
「可能性は高いと考えています」
亀山は、四方の出場者について調べていた。
食の当主である獅子音は、近頃、体重が増えたと聞いている。衣の当主、羊山明も、走ることを得意としているわけではない。
亀山家からは、一亀の弟が出場する予定だった。兄よりは運動ができるが、脚力に優れた兎族と競うとなれば、分が悪い。
「もちろん、勝負ですから絶対とは申し上げられません。ですが、友香さんと一緒になるためなら、頑張れるのではありませんか?」
兎月の目に、力が戻った。
「はい。頑張ります!」
膝の上で、両手を握る。
「友香と一緒になるためなら、死ぬ気で走ります」
「死なれては困ります」
亀山が、すぐに言った。
「無事にゴールしていただかなければ、その先の話ができませんからね」
「あ……はい。そうですね」
兎月は照れたように笑った。
「それから、ただ優勝すればよいという話ではありません。走る前に、必ずお父上の了承を得てください」
「先に約束してもらうんですね」
「そのとおりです。できれば、書面にして署名をもらっていただきたい。優勝した後になって、そんな話は知らないと言われては困ります」
兎月は何度も頷いた。
「分かりました。父は、優勝にこだわっていますから。早速、話してみます」
そのまま立ち上がりかけた兎月を、亀山が止めた。
「まだ、お話があります」
「はい?」
「交渉が上手くいかなかった場合も、ご連絡ください。別の方法を考えます」
「ありがとうございます」
「それと、友香さんのことです」
兎月の表情が、少し硬くなった。
「まだ、その……会わなければ駄目ですか?」
「彼女の様子を見守らせていただけませんか」
「見守る?」
「杞憂に終わればよいのですが、お父上が結婚を諦めさせるために、友香さんへ直接働きかける可能性もあります」
兎月の長い耳が、わずかに下がった。
父ならば、あり得る。
自分に何も言わず、友香へ会いに行くかもしれない。彼女が何を言われるのか想像すると、胸が冷たくなった。
「お二人が、お付き合いしていることは周りも知っていますか?」
「会社では、あまり話していません。でも、父と母は知っていますし、弁当屋さんのご夫婦も……」
「では、なおさらです。何かあった時に対応できるよう、彼女に近づくことを認めていただきたい」
兎月は、すぐには答えなかった。
友香を心配させたくない。自分が探偵に相談していることも、まだ知られたくなかった。
けれど、何かが起きてからでは遅い。
「……お願いします」
ようやく頷いた。
「彼女を、怖がらせないでください」
「分かりました」
「絶対に、傷つけないでください」
亀山は、兎月をまっすぐ見た。
「僕たちは、お二人が一緒になるために依頼を受けています。そのことは忘れていませんよ」
兎月は、少しだけ肩の力を抜いた。
*
兎月が帰った後、蛇森はテーブルの新聞を片づけた。
「優勝したら結婚を認めろ、か。あの親父さん、乗るかねぇ」
「それは、兎月さん次第でしょうね」
「勝つ方より、そっちの方が難しそうだ」
「そうかもしれません」
亀山はソファに座ったまま、目を閉じた。
蛇森は、その顔を見てからキッチンへ向かった。
「紅茶、飲む?」
「いただきます」
やかんに水を入れる音がした。
亀山は目を開け、キッチンに立つ蛇森を何となく眺めた。
百八十センチを超える長身に、すらりと伸びた手足。細身ではあるが、必要な筋肉はついている。
蛇族らしい切れ長の目と、通った鼻筋。薄い唇も形がよかった。
黙っていれば冷たそうに見えるが、口を開けば、あの調子である。
亀山は、ソファに預けていた背中を少し動かした。
自分の身長も百七十センチはある。しかし、背中の甲羅のせいで姿勢が丸まり、実際より小さく見られがちだった。
筋肉がついているわけでもない。
垂れ目で、いつも眠そうだと言われる。幼い頃は、女の子と間違われることもあった。
今はさすがに、そんなことはない。それでも、蛇森の顔を見ると、自分にないものばかり目についた。
「……実に不公平だ」
「何が?」
思ったより近くで声がした。
亀山が顔を上げると、紅茶を持った蛇森が立っていた。
「……何でもありません」
「そう?」
蛇森は亀山の前へ紅茶を置いた。
「熱い紅茶を入れて差し上げましたから、元気出してください。所長様」
「元気がないのは、いつものことです」
亀山は少し睨んでから、湯呑みを手に取った。
「休めば、また頭は働いてくれます」
「はいはい」
蛇森は向かいのソファへ座った。
何か言いたそうに、こちらを見ている。
亀山は気づいていたが、尋ねる気力がなかった。
紅茶を飲み終えると、湯呑みを置き、そのまま横になった。
「ちょっと、休みます」
「ああ。俺は、友香さんの方を見てくる」
「……お願いします」
返事は、眠気にほどけていた。
蛇森が立ち上がる頃には、静かな寝息が聞こえ始める。
「早えな」
奥から毛布を持ってきて、亀山に掛けた。
依頼人の前では平気な顔をしているが、ひとと話した後は、いつもこうなる。
無理をして外へ出れば、もっと疲れる。それを知らないほど、短い付き合いではなかった。
「おやすみ。兎月のお姫様を、見てまいりますよ」
声を落として言い、蛇森は事務所を出た。
扉は、静かに閉まった。
その夜、亀山は夢を見た。
もう何度も、繰り返し見ている夢だった。




