第三章 噂の向こう側
第三章 噂の向こう側
兎月が事務所を訪ねてから三日後の夕方、蛇森はソファに座り、撮ってきた写真を整理していた。
背もたれに身体を預け、時折、首を左右に倒す。足を伸ばしてみても、疲れは抜けなかった。
亀山は自分の机で新聞を読んでいたが、やがてそれを畳んだ。
「報告はありますか?」
「ああ。まだ途中だけど」
蛇森は写真から目を離さずに答えた。
「友香さん、兎族だけあって、なかなかの美人さんだな。でも、俺はちょっと苦手かも。気が強そうというか」
一枚の写真を選び、亀山の机に置く。
薄暗いクラブの中で、女が一人、飲み物を持って立っていた。濃い化粧に、真っ赤な口紅。周囲へ向ける目は、どこか険しかった。
「二十一歳だそうだ。化粧のせいか、もう少し上に見えるけどな。週に一度くらい、このクラブに来てる」
亀山は写真を手に取った。
「ここで、どなたかと会っているのですか?」
「俺が見てた日は、誰とも話してない。周りを見て、一時間か二時間で帰った。誰かと待ち合わせしてる感じでもなかった」
「なるほど」
「身体が弱いって聞いてたから、夜にクラブへ来てるのは意外だったけどな。まあ、写真じゃ顔色までは分からないか」
蛇森は別の写真を差し出した。
作業着を着た、大柄な兎族の男が写っている。
「一緒に住んでる男だ。弟だと聞いたけど、本当に姉弟かどうかは、まだ確認できてない。昼間は工事現場で働いてる」
「お仕事ぶりは?」
「手は抜かないし、言われた仕事はきっちりやってる。ただ、あまり人と話さない。周りも声を掛けづらいみたいだな。見た目が怖いし」
亀山は二枚の写真を机に並べた。
「それから?」
蛇森は、少し言いよどんだ。
「……クラブで、気になる話を聞いた」
「どういった話でしょう」
「友香さんが、男を引っかけて家へ連れていく。そこで、こっちの男が出てきて金を脅し取るって。美人局みたいなことをしてるらしい」
亀山は何も言わず、蛇森を見た。
「今回は相手が兎束家の息子だろ。もし本当なら、大金をせしめようって考えてるのかもしれない。兎月さん、全然気づいてないみたいだけど……恋は盲目ってやつかねぇ」
「蛇森くん」
静かな声だった。
「その話は、誰から聞きましたか?」
「クラブの常連。そいつの知り合いが、被害に遭ったって」
「被害に遭ったご本人ではないのですね」
「ああ」
「被害届は出されていますか?」
「出してないらしい」
「届けを出せないような、後ろ盾があるという話は?」
「それも聞いてない」
亀山は、机の写真へ視線を戻した。
「では、まず、その知り合いに起きたことを聞かせてください。君が聞いたとおりに」
蛇森は腕を組み、話を思い返した。
「友香さんの家へ行って、二人でいたら、男が帰ってきたそうだ。あまりに怖くて、持ってた金を全部置いて逃げてきたって」
「金を出せと、言われたのですか?」
「……そこまでは」
「何をされたのかも?」
「聞いてない」
蛇森は、机の上の写真を見た。
「あれ。でも、それって……」
亀山が頷いた。
「ただ、お姉さんの家に弟が帰ってきただけかもしれませんね」
蛇森は黙った。
大柄で、強面で、口数の少ない男。
その姿を見て怖くなったというだけなら、あり得ない話ではなかった。
「もちろん、君が聞いたとおりの出来事だった可能性もあります。ですが、今の話だけでは、どちらとも言えません」
「そうだな」
「分かっているのは、彼女の家へ行った男が、別の男の姿を見て金を置き、逃げたという話がある。それだけです」
蛇森は額を指でこすった。
「俺、話を聞いた時には、ああ、そういうことかって思っちまった」
「噂は、足りない部分を聞き手が埋めてしまうことがありますからね。気が強そうに見えたことも、クラブへ来ていたことも、一つの話につなげやすい」
亀山は友香の写真を指先で持ち上げた。
「けれど、誰とも話さず周りを見ていたという彼女の行動は、男を誘っているという話とは、少し違うように思えます」
「……確かにな」
蛇森は、ソファへ戻って腰を下ろした。
調べたことを報告するつもりが、いつの間にか噂を説明していた。
そのことが、思いのほか堪えた。
「やはり、一度ご本人とお話ししたいですね」
亀山はそう言い、畳んだ新聞を再び開いた。
何枚かめくり、隅の小さな記事で手を止める。
「蛇森くん。ちょうどよい催しがあります」
「催し?」
「ええ。楽しみですねぇ」
蛇森は顔を上げた。
亀山の口元が、わずかに上がっていた。
嫌な予感がした。
「その前に、兎月さんへ今回の噂を伝えるのは待ちましょう。姉弟なのかどうかも、まだ確かめられていませんから」
「分かった。もう少し調べる」
「君の調査が悪かったと言っているのではありませんよ」
亀山が新聞から顔を上げた。
「三日で、よくこれだけ調べてくれました。彼女の行動を実際に見てきたからこそ、噂との違いも分かったのです」
蛇森は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……どうも」
褒められて嬉しくないわけではなかった。
ただ、顔に出すのも癪だった。
「で、その催しって何?」
「これです」
亀山が、新聞を蛇森へ向けた。
『龍王祭、今年は四方対抗マラソン大会に決定』
見出しを読み、蛇森は亀山を見た。
「……マラソン?」
「ええ」
「それが、結婚の話とどうつながるんだよ」
「少し調べてから、お話しします」
亀山は楽しげに、記事へ目を落とした。
蛇森は、その顔を見ながら思った。
この顔をする時は、大抵、何かを企んでいる。
それが誰にとっていいことなのかは、まだ分からない。
少なくとも、自分の仕事は増えるだろう。
「……今回は、ちゃんと依頼料が入りますように」
「何か言いましたか?」
「いーえ。何も」
*
それから数日、蛇森は友香と、同居している男の暮らしを調べた。
昼間は友香の勤める弁当屋の周辺で過ごし、男の仕事が終わる頃には、工事現場へ足を運ぶ。
そうして確かめた二人の生活は、拍子抜けするほど地味だった。
友香は短い時間の仕事を終えると、まっすぐ帰宅する。
買い物をする時も、値引きされた品を少し買うくらいだ。定期的に病院へ通っていることも分かった。
男も仕事を終えると、寄り道をすることはほとんどなかった。
そして二人は、確かに姉弟だった。
姉は兎田友香。弟は兎野流兎。
幼い頃に両親が離婚し、それぞれ別の親に引き取られたため、姓が違っている。
友香が今のアパートで暮らし始めたのは、二年ほど前。流兎が一緒に住むようになったのは、半年ほど前だった。
蛇森は事務所へ戻り、調べたことを亀山に伝えた。
「弟が住み始めた頃に、あの噂も出てる」
「そうですか」
「金に困ってるから、二人で美人局を始めたって考えることもできるけど……」
蛇森は、一度言葉を切った。
「弟も働いてるんだ。姉一人の時より、収入は安定してるはずだろ。それに、二人とも派手な暮らしなんてしてない」
亀山は頷き、続きを待った。
「噂だけ聞いた時は、金目当てなのかと思った。でも、実際に見てると、何か違うんだよな」
「では、その違いを確かめましょう」
「友香さんに会う?」
「ええ。ただ、その前に兎月さんにも話さなければ。彼女を心配させたくないとおっしゃっていましたからね」
亀山は、机の上の新聞を引き寄せた。
「こちらも、一応の案はまとまりました」
指で示したのは、あのマラソン大会の記事だった。
「兎月さんに、頑張っていただきましょう」
蛇森は、亀山の顔を見た。
「それ、まさか走らせる気?」
「マラソンですからね。当然、走っていただきます」
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて」
亀山は答えず、紅茶を一口飲んだ。
兎月が再び事務所を訪ねるのは、翌日だった。




