第二章 結婚の条件
第二章 結婚の条件
蛇森が、湯呑みをかたかた鳴らしながら戻ってきた。
兎月の前にお茶を置き、亀山の隣へ腰を下ろす。
亀山はテーブルを見て、それから蛇森を見た。
「蛇森くん。これはどういうことでしょう。僕のお茶はないのですか?」
「ないです」
蛇森は、きっぱり答えた。
「だって所長、俺が入れたお茶は熱くて香りも何もあったもんじゃないって、いつも残すじゃないですか。なら、初めからなくてもいいでしょう。俺は入れる手間が省けるし、あなたは美味くないお茶を飲まずに済む。お互い、ウィンウィンです」
「おやおや。そんなことを考えていたのですか」
亀山は、眉一つ動かさず蛇森を見た。
「なるほど。君は上手にお茶を入れる努力をせず、不味いと言うくらいなら飲まなくていいと。そういう意味で、ウィンウィンとおっしゃるわけですね」
蛇森は正面を向いたまま、動かなかった。
「僕は違う意味に捉えていましたよ。そうでしたか。蛇森くんは、そういう考えの人でしたか」
横から注がれる視線が痛い。
顔を向けたら負ける気がした。何に負けるのかは分からないが、とにかく圧がすごい。
まるで蛇に睨まれた蛙だった。
ただし、睨んでいるのは亀で、睨まれているのは蛇である。
「分かりました、分かりました。入れますよ。入れたらいいんでしょう?」
とうとう蛇森が立ち上がった。
「少々お待ちください、所長様。いつもの緑茶? それとも、紅茶がいいですか?」
先日手に入れた紅茶があることを思い出し、何気なく付け加えた。
亀山の目が、急に輝いた。
「なんと。紅茶があるのなら、紅茶がいいですね。君は熱いお湯で入れるので、そちらの方が向いているでしょう」
「はいはい」
「いいですか。緑茶は湯を少し冷ましてから入れるのが望ましいですが、紅茶は熱い湯で入れる方が――」
蛇森は、すでにキッチンへ向かっていた。
「君はいつもどおり入れればいい。僕は美味しい紅茶を飲める。これが本当のウィンウィンではありませんか?」
「そうですねー」
キッチンから、抑揚のない返事が届いた。
亀山は満足したのか、兎月へ視線を戻した。
「さて、兎束さん。お話を伺いましょうか」
兎月は、驚いていた。
お茶を入れるか入れないかという、些細なやり取りである。
それでも、雇われている者が雇い主にあれほどはっきり意見を言う光景を、兎月は初めて見た。
兎束の会社で同じことをすれば、どうなるだろう。
少なくとも、父の前であんな口を利ける者はいない。
結局、蛇森の言い分は通らなかった。それでも、自分の意見を言えた。
「どうかしました? 俺の顔に、何かついてます?」
紅茶を運んで戻った蛇森に声を掛けられ、兎月は我に返った。
いつの間にか、その顔を見つめていたらしい。
「ああ、すみません。少し驚いてしまって。お二人は、いつもこのようなやり取りをされているのかなと……」
「うちは、見てのとおり小さな事務所ですからね。助手は彼だけです」
亀山が答えた。
「僕はいつも彼に怒られてばかりですが、嫌な気はしていませんよ。むしろ、尻を叩かれなければ一日中同じことに集中して、寝食も忘れてしまいますから」
「えっ。俺、いつも怒ってます?」
蛇森が、亀山を見た。
「自覚ないなぁ。俺はいつも、所長に上手く言いくるめられてると思ってますけどね」
首を傾げ、天井を見上げる。
兎月の口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。
羨ましかった。
自分にはない強さを、蛇森は持っているように思えた。
「兎束さんのお困り事は、お父様に関係することでしょうか」
亀山の言葉に、兎月の笑みが消えた。
「……はい。正確には、父とボク、それから、ボクの彼女のことです」
「ほう。彼女ですか」
「兎田友香という、兎族の女性です」
兎月は湯呑みに目を落とし、話し始めた。
出会ったのは、友香が働いている弁当屋だった。
弁当を買いに行き、彼女に一目惚れした。勇気を出して声を掛け、友人として話すようになり、やがて付き合い始めた。
一緒に過ごすうちに、結婚したいと思うようになったという。
「でも、父に話したら反対されました。父は、家柄のいい女性との結婚を望んでいます。友香は兎束家にふさわしくないと、話も聞いてくれません」
兎月は、両手を膝の上で握った。
「ボクは、友香と一緒に生きたいだけなんです」
「お話は分かりました」
「亀山さん。ボクは、どうしたらいいのでしょうか」
亀山は紅茶を一口飲み、湯呑みを置いた。
「正直に申し上げて、成人した二人が結婚するのであれば、父親の許可は必要ないと思います。家柄だけで相手を決めるという考えも、今どきナンセンスでしょう」
兎月は、俯いた。
「しかし、それで済まないから、こちらへいらしたのですね」
「……はい」
「お母様は、どうお考えですか。あなたは確か、一人息子でしたよね」
「母は、最初は応援してくれました。『あなたの人生なのだから、信頼できる人を選びなさい』って」
兎月は、少しだけ顔を上げた。
「でも、ある時から父と同じことを言うようになったんです。家柄のいいお嬢さんとの見合い話まで持ってきて……。何とか理由をつけて断っていますが」
「ある時、とは?」
「母が検査入院をして、帰ってきた頃です。体調を崩していたんですが、検査の結果は大したことがないと言っていました。だから、身体のこととは関係ないと思うんですけど」
「なるほど」
亀山は、少し考えた。
「友香さんに、お会いすることはできますか?」
兎月の表情が曇った。
「どうしても、会わなければなりませんか?」
「何か、ご都合が?」
「友香は身体が弱くて、昼間の仕事だけでも疲れてしまうんです。それに、探偵の方に相談したと知ったら、心配すると思います。余計な負担を掛けたくありません。ボクが依頼するだけでは、駄目でしょうか」
「ご病気なのですか?」
「詳しくは聞いていません。ただ、身体が弱くて、短い時間しか働けないと」
兎月は、早口になった。
「だからデートも、ボクが休みの日に彼女の家へ行くことがほとんどです。疲れさせたくないので、夕方には帰ります。あの、その……プラトニックな関係です」
蛇森は黙って聞いていたが、最後の説明には、少しだけ目を瞬かせた。
「ボクは彼女を守りたいんです。幸せにしたい。どうか、友香と一緒になれるよう、力を貸してください」
亀山は口元に手を当て、考えていた。
その時、事務所の扉が開いた。
「こんにちはー! ひつじぱんです。今日は、いつもの――」
明るい声とともに、天然の巻き毛を持つ女性が入ってきた。
紙袋を亀山へ差し出しかけ、兎月と目が合う。
「あっ! す、すみません! まさか、お客様がいらっしゃるなんて思わなくて!」
女性の顔が、みるみる赤くなった。
兎月は突然のことに呆気に取られ、彼女を見ていた。
亀山は、小さく笑った。
「近所のひつじぱんさんです。うちにお客様がいるとは、夢にも思わなかったのでしょうね」
「所長。それ、笑って言うことじゃないです」
蛇森が立ち上がり、女性の方へ向かった。
彼女は亀山を見ていたが、蛇森に声を掛けられると、慌てて紙袋を渡した。
「お代は、また後で大丈夫です。お邪魔してすみませんでした!」
深々と頭を下げ、事務所を出ていく。
扉が閉まると、亀山は兎月に向き直った。
「羊塚美琴さんといいます。ひつじぱんの看板娘でね。働き者で、明るい方です。少しおっちょこちょいなところもありますが」
蛇森が紙袋をキッチンへ運ぶ。
「ああ、話を戻しましょう」
亀山は、改めて兎月を見た。
「友香さんにお会いできないのは残念ですが、事情は分かりました。ただ、いずれ彼女抜きで話を進めるのは難しくなると思います。それは、覚えておいてください」
「はい」
「あなたのお気持ちは分かりました。まずは一週間、時間をいただけますか。お二人が一緒になれるよう、方法を考えましょう」
兎月の顔が、ぱっと明るくなった。
「お願いします! 友香と一緒になるためなら、ボク、何でもしますから」
それから、思い出したようにポケットを探った。
「あ、連絡先を交換した方が便利ですよね。亀山さん、ニャインはしていますか?」
携帯を取り出し、期待に満ちた目を亀山へ向ける。
「お互い何か聞きたいことがあれば、すぐに聞いたり答えたりできますし」
「依頼内容の連絡は、蛇森を通していただいています。彼とニャインを交換してください」
亀山がキッチンへ声を掛けると、蛇森が戻ってきた。
兎月の手にある携帯を見て、すぐに自分の携帯を取り出す。
二人が登録を済ませたところで、亀山が言った。
「何かあれば、こちらからご連絡します。まずは、一週間後にまたお会いしましょう」
「はい。ぜひ、よろしくお願いします!」
兎月は立ち上がり、亀山と握手を交わした。
入ってきた時とは違い、顔を上げて事務所を出ていく。
扉が閉まるまで、蛇森はその背中を見送っていた。
*
「どう思う? この依頼」
客が帰った途端、蛇森の口調が変わった。
「俺らに何ができるんだよ。亀山が言ったとおり、二人で婚姻届を出せばよくね?」
「それができないから、困っているのでしょう」
亀山は、残っていた紅茶を飲んだ。
「結婚は当人同士の問題だけで済まない場合もあります。下手に逆らえば、お父上が強行手段に出る可能性もある」
「厄介だなぁ。兎束源兎っていったら、亀山の父さんに匹敵するくらい、気難しいことで有名じゃん」
「君は今、さらっと酷いことを言いましたね」
亀山は湯呑みを置いた。
「そもそも、君は彼に何と言って連れてきたのですか?」
「え?」
「探偵への依頼としては、少し変わった相談です。君は広場で、何と言っていたのですか」
蛇森は、チラシを配っていた時の自分を思い出した。
迷子の捜索。調査。電球の取り替え。
そして。
「あー……。『何でもやります』って」
「なるほど」
「だって、誰も受け取ってくれなくて、半分やけくそで……。すまん」
蛇森の肩が落ちた。
「それなら、やるしかありませんねぇ。何でもやると、言ってしまったのですから」
「はぁあ……。やっちまった」
亀山は、口元だけで笑っていた。
「料金の説明は、してありますよね?」
「あ」
蛇森が、固まった。
「……あー。忘れた」
「そうですか」
その静かな返事が、かえって怖かった。
蛇森は携帯を取り出す。
「今から連絡します。はい」
「お願いします」
亀山は机へ戻り、兎月が来る前に読んでいた雑誌を閉じた。
その表紙を見た蛇森が尋ねる。
「何か、気になることでもある?」
「ええ。調査へ行ってもらえますか」
「友香さんだろ?」
亀山が顔を上げた。
蛇森は携帯をポケットへしまい、扉へ向かう。
「行ってくるよ。何か分かったら、ニャインする」
「まだ、何を調べてほしいか言っていませんが」
「分かるよ、それくらい」
蛇森は振り返り、携帯をひらひら振ってみせた。
「所長様とは、長い付き合いですから」
扉が閉まった。
亀山はしばらく、その扉を見ていた。
やがて片手で目元を押さえ、息を吐く。
「今日は、二人も接客したせいで疲れました」
兎月と美琴。
二人と話しただけで、身体に熱がこもっているように感じた。
「少し、休みましょうか」
来客用のソファへ戻り、横になる。
ほどなく、静かな事務所に寝息だけが聞こえ始めた。




