第一章 亀山探偵事務所
第一章 亀山探偵事務所
爽やかな初夏の日差しが、国中を明るく照らしていた。
その日の正午過ぎ、美しい屋敷の一室から、陽気に似つかわしくない怒号が響いた。
「そんなに私が憎いのか! どうしてお前は、そんなに変わってしまったんだ!」
白髪交じりの頭から、二本の長い耳がぴんと立っている。端正な顔立ちの初老の男は、目の前の青年を睨みつけた。
「お前には失望した。もう親でも子でもない! 金輪際、兎束を名乗ることは許さん。どこへでも行くがいい。さっさとここから出ていけ! 二度と私の前に、その面を見せるな!」
男は、手にしていた林檎を投げつけた。
鈍い音を立て、林檎が青年の顔に当たる。そのまま床へ落ち、転がった。
男のそばにいた女性が、泣きながら青年に駆け寄った。伸ばされた手を、青年は払いのける。
何も言わず、目を伏せたまま部屋を出ていった。
青年の名は、兎束兎月。
娯楽を担う兎束家の一人息子であり、次期当主になるはずだった。
林檎を投げつけた男は、父である兎束源兎。泣いている女性は、母の喜美子だった。
兎族は長い耳を持ち、見目の麗しい者が多い。初老の源兎も例外ではなかったが、今その顔に浮かんでいるのは、怒りよりも深い悲しみだった。
源兎は喜美子の肩を抱き、椅子に座らせた。自分も隣に腰を下ろし、妻の背中をさする。
「変わるべきなのは、私の方だったのにな」
先程とはまるで違う、静かな声だった。
「すまない。気づくのが遅くなってしまった」
扉の外で、兎月は立ち止まっていた。
背中を扉につけ、顔を上げる。
「ありがとうございます……」
一筋の涙が、頬を伝った。
*
時は、ひと月ほど遡る。
この国は、かつて神の手によって作られた。
神は国を治める者として龍神を遣わし、龍は人の姿を取る龍人となって、この地に降り立った。
様々な動物が進化を遂げ、それぞれに暮らしていた土地を一つにまとめたのが、今の龍王である。
国の北には、龍王の住まう城がある。城から南へ広がる街を囲むように、四つの家が置かれていた。
北東に、食を担う獅子音家。
南東に、娯楽を担う兎束家。
南西に、衣を担う羊山家。
北西に、住を担う亀山家。
城と四家を結んだ五角形の内側が、獣人国の領土だった。龍王の張った結界が外からの侵入を防ぎ、その向こうには広大な森が広がっている。
四つの家は、それぞれの分野で働く民の後ろ盾となり、収益の一部を取りまとめて国へ納める。民は、彼らを四方省と呼んでいた。
四方省に定められた家には、民の手本となる誠実な暮らしが求められる。その代わり、国からの恩恵も優先して受けられるよう配慮されていた。
ゆえに四方省は奢ることなく、民と共に豊かになるために尽力していた。
一昔前は。
獣人国の民は、皆それぞれの種族の特徴を備えている。
頭の上に耳を持つ者。背中に硬い甲羅を持つ者。先の分かれた舌を持つ者。尋常ではない脚力を持つ者。
違う姿、違う力を持つ民が、この国で暮らしていた。
以前は保たれていたはずの均衡が、近頃、少しずつ崩れ始めている。
そう感じる者も、少なくなかった。
*
「亀山。何やってんの?」
亀山探偵事務所の所長、亀山一亀は、新聞を読む手を止めて顔を上げた。
「蛇森くん。僕は新聞を読んでいますね。あと、片手間にパソコンを操作したりもしています」
そう答えると、再び新聞に目を落とした。片手でマウスを動かす。
「いや、違くて!」
助手の蛇森が、すかさず声を上げた。
「ここ何日も依頼の『い』の字も見てないし、聞いてもいない。この状況で何やってんだって言ってるの! このままじゃ家賃も払えなくて、俺ら事務所からおん出されるぞ。だから、チラシ配りでもしたらどうかって、昨日話したじゃん!」
一気にまくし立て、蛇森は所長を見た。
亀山はゆっくりと顔を上げた。
「家賃を払うのは僕ですけどね。それに、チラシを配るという案を出したのは君です」
「だから?」
「僕は外へ出ることを望みませんし、外出は必要最低限にしたい。だから君がいるのでしょう?」
蛇森が何か言うより先に、亀山は続けた。
「ああ、それに、チラシを受け取った方が依頼をしようと訪ねてきた時、誰もいなかったら困るでしょう。なので、僕はここにいます」
表情一つ変えずに言い終え、新聞へ視線を戻す。
蛇森は、しばらくその顔を見ていた。
やがて、大きな溜め息をつく。
「はぁあ……。はいはい。行ってきますよ、亀山一亀、大・明・神・様」
チラシの束をつかみ、事務所を出ていった。
扉が勢いよく閉まる。
「僕は大明神様ではないのですがねぇ」
一人になった事務所で、亀山は小さく呟いた。
新聞を畳み、今度は机の上の雑誌を手に取る。ページをめくり、気になった箇所で指を止めた。
パソコンで記事に関係する情報を探す。
「……この話は、本当なのでしょうか。情報の出所がはっきりしませんが……」
雑誌には、大きな見出しが躍っていた。
『四方省の闇』
*
「亀山探偵事務所でーす! お困り事、何でもお引き受けしまーす!」
街の広場で、蛇森はチラシを差し出していた。
「迷子の捜索、調査、家の電球の取り替え! 何でもしまーす! お願いしまーす!」
目の前を通り過ぎる民は多い。
しかし、チラシは減らない。
差し出した手を避けるように歩く者もいれば、蛇森を見ようともせず通り過ぎる者もいる。
少し、泣きそうになった。
「はぁ……。この街には困ってる奴がいないんだなぁ。平和でいい街じゃねぇかよ。ちくしょー……」
チラシを持った手を下ろし、空を見上げた。
青空を、雲がゆっくり流れていく。
「……なんて愚痴ってても、稼げねぇしな」
蛇森は深呼吸を一つした。
「お困りの事がありましたらー! 亀山探偵事務所にご連絡お願いしまーす!」
通りかかった者の前へ、再びチラシを差し出す。
その一枚を、若い兎族の男が受け取った。
蛇森の顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます! お困り事がございましたら、何でもご相談くださーい!」
男は何も言わなかった。
その場に立ち止まり、受け取ったチラシを見つめている。
蛇森は少し気になったが、ほかの通行人にも声を掛けた。
「亀山探偵事務所でーす!」
「……あの」
小さな声がした。
振り向くと、先程の男がチラシを持ったまま、蛇森を見ていた。
*
慌ただしい足音が近づいたかと思うと、事務所の扉が乱暴に開いた。
蛇森が飛び込んでくる。
亀山は机から顔を上げ、助手をじろりと見た。
「もう少し静かに帰ってこられませんか。制御不能になった車でも飛び込んできたかと思いましたよ」
蛇森は構わず、来客用のテーブルに置かれた物を片づけ始めた。
それから簡易キッチンへ向かい、やかんに水を入れて火に掛ける。
「亀山! ……あ、所長。お客様です。今、お通ししますから!」
扉を開け、廊下へ顔を出した。
「どうぞ。中へ」
若い男が、俯いたまま入ってきた。
蛇森に案内され、部屋の中央にあるソファに腰を下ろす。
亀山はその様子をじっと見ていた。
客が座ったところで、口を開く。
「これはこれは、兎束家の次期当主様。こんな場末の探偵事務所に、何かご用でしょうか?」
口調は柔らかかったが、どこか棘があった。
亀山の口元には笑みがある。しかし、その目は笑っていなかった。
青年は、はっとして腰を浮かせた。
そのまま立ち上がり、入り口へ向かう。
「お帰りですか?」
背後から、亀山の声がした。
「あなたが何のためにここへ来たのか、僕にはまだ分かりません。帰りたいのであれば、お帰りになった方がいい」
青年の手が、扉の前で止まった。
「ただ、あなたが亀山と関わる意味を、知らないとは思えません。ここを訪ねるほど、お困りなのではありませんか。身近に相談できる方も、いらっしゃらないのでしょう」
青年は、振り返らなかった。
亀山は静かに続けた。
「我々は探偵です。お客様の秘密を、よそへ漏らすことはありませんよ」
四方省の亀山家と兎束家は、昔から反りが合わなかった。
住を担う家と、娯楽を担う家。一見、関係が薄いようでいて、施設を建てるとなれば互いを避けては通れない。
もっとも、一亀はすでに亀山家を出て、独立していた。四方省の仕事には就かず、この小さな事務所で探偵をしている。
家同士の不仲を、そのまま目の前の青年に向けるつもりはなかった。
ただ、相手も同じ考えだとは限らない。
青年はしばらく扉の前に立っていたが、やがて踵を返した。
亀山の前まで戻ってくる。
今度は、顔を上げた。
「初めまして。ボクは兎束兎月と申します。あなたがおっしゃったとおり、兎束家の者です」
緊張した声だった。
それでも、青年は亀山から目を逸らさなかった。
「ボクの話を、聞いていただけますか?」
亀山は、微笑んだ。
「やっと目が合いましたね」
向かいのソファを、手で示す。
「お話、伺いましょうか」




