第二十四章 さようならの、その先
第二十四章 さようならの、その先
深月は、龍王の右手を両手で包んでいた。
「痛いの、痛いの、飛んでけ」
傷の周りを、そっと撫でる。
龍王は顔を伏せ、肩を震わせていた。
亀山は、その少し後ろに立っていた。
先程まで誰の声も届かなかった龍王が、小さな少女の前で泣いている。
雨が髪を濡らし、頬を伝った。それが涙と混ざって、地面へ落ちていく。
「……お前」
しゃがれた声がした。
喜美子が、肘をついて身体を起こしていた。
その目は、深月へ向けられている。
「あの時の、娘か」
亀山は喜美子へ顔を向けた。
龍王の手に触れていた深月も、振り返る。
「何故、お前がここにいる。お前も蘇ったのか」
十兎が、喜美子の身体を起こした。
雨に濡れた髪が、頬に張りついている。
「子供のくせに、女のくせに。この私を、またそんな目で見るか!」
深月は、龍王の手をゆっくり離した。
十兎へ向き直る。
「まだ、そんなことを言っているの?」
少女の声は、はっきりしていた。
「子供だから。女だから。だから何?そう言えば、あんたのすることに黙ってついていくとでも思っているの?」
「黙れ!」
十兎が立ち上がろうとした。
近衛兵たちが動きかけたが、万亀雄が手で制した。
亀山は深月を見ていた。
小さな身体は、怯むことなく十兎へ向けられている。
「あたし、あんたと話したくはないの。でも、神様から頼まれたから、伝えるわ」
十兎の動きが止まった。
深月は、静かに続けた。
「お前に、愛を知る機会を与えた」
龍王が顔を上げた。
「愛する者を見つけた人の中で、その人とともに一生を過ごし、愛を学ぶはずだった」
亀山は、呪いの言葉を思い出した。
子孫が愛する者を見つけた時、その魂が引き戻される。
死者を呼び戻すことは、その者をただ罰するためではなかった。
「けれど、お前は、その愛が歪んだ時、それを利用した。与えられた命を奪い、また、自分のために人を殺そうとした」
兎月が、近衛兵の後ろから喜美子を見ていた。
亀山は、その横顔へ目を向けた。
息子を愛する母の中に宿った。
その母とともに生きながら、十兎は何を見ていたのだろう。
「愛を知る機会を与えたが、お前はそれを選ばなかった」
深月の声が、雨の降る広場へ通った。
「二度と、この世に生を受けることはない。暗黒の地で、未来永劫、自分のしたことを悔いるがいい」
少女は一度、息を継いだ。
「……以上よ」
十兎が口を開いた。
その声が出る前に、空が光った。
雷鳴が轟く。
亀山は反射的に腕で顔をかばった。
足元まで響く衝撃が走り、少し離れた石畳に雷が落ちた。
そこに、黒い穴が開いていた。
底は見えなかった。
ただ暗いというだけではない。覗き込もうとする目を、その奥へ引き込むような闇だった。
穴の奥からは低い呻き声が聞こえた。
遠くで、いくつもの声が重なっているようだった。
亀山の背中に、冷たいものが走った。
「う、あ……!」
喜美子が身体をくねらせた。
その姿に、もう一人の輪郭が重なる。
男だった。
長い耳を持つ、年老いた男の姿が、喜美子の身体からずれていく。
「やめろ……私は……!」
十兎が手を伸ばした。
何かにつかまろうとする指が、地面をすり抜けた。
喜美子が倒れた。
その上に残った男の姿が、黒い穴へ吸い込まれるように輪郭が歪んでいく。
男の足が煙のように霧散し穴へ吸い込まれていく。
「龍王! お前は……!」
声も、途中で引き延ばされるように途切れた。
伸ばされた手が消え、顔が消えた。
最後に耳の先が闇へ吸い込まれると、穴は小さくなった。
呻き声が遠ざかる。
やがて、何も聞こえなくなった。
石畳には、雷の焼け跡だけが残っていた。
*
「母さん!」
兎月が駆け寄った。
源兎も立ち上がり、喜美子のそばへ膝をつく。
亀山も近づいた。
喜美子は目を閉じていた。
胸が、ゆっくり動いている。
「息はあります」
亀山が言った。
源兎は妻の顔を見つめ、震える手で、頬に張りついた髪を払った。
「……喜美子」
返事はなかった。
兎月が、母の手を握る。
近衛兵が医師を呼びに走った。
亀山は立ち上がり、龍王へ目を向けた。
深月が、その前に立っていた。
「もう、大丈夫」
少女は言った。
「これは、あの人の終わり。でも、おじちゃんにとっては、始まりだからね」
龍王が手を伸ばした。
深月の小さな手を取り、両手で包む。
「……もう、行ってしまうのかい」
深月が頷いた。
龍王の目から、また涙が落ちた。
「私も、一緒に連れていってはくれないか」
亀山の呼吸が一瞬止まる。
深月は、龍王の顔を見ていた。
「おじちゃんは、ここから始まるの」
優しい声だった。
「そのために、今日はちゃんと、さよならしなきゃ」
龍王の指が、少女の手を握り直した。
深月は、急かさなかった。
しばらく待ってから、空いている手で小さなハンカチを取り出した。
龍王の頬へ当てる。
「まるで、赤ちゃんみたい」
少し笑った。
「そっか。生まれたばかりだから、赤ちゃんなのね。だったら、いっぱい泣いてもいいわ」
涙を拭っても、また次の涙がこぼれた。
深月はハンカチを畳み、龍王の手へ握らせた。
「これ、あげる」
龍王が、手の中を見た。
「お父ちゃんが作ってくれたの。でも、お父ちゃんなら、きっと同じことをすると思うから」
龍王は、ハンカチを握ったまま顔を伏せた。
深月が、そっと手を抜いた。
「じゃあね、おじちゃん」
一歩、離れる。
「さようなら」
龍王が顔を上げた。
少女を見つめる。
引き留めようとした手が、途中で止まった。
ゆっくり下ろす。
「……さようなら」
深月は、にっこり笑った。
その輪郭が、光にほどけ始めた。
白いワンピースの裾から、小さな粒が舞い上がる。
髪も、手も、笑っていた顔も、たくさんの光になった。
灰色の雲の下を、光の粒が昇っていく。
龍王は、その最後の一つが見えなくなるまで、顔を上げていた。
手の中には、ハンカチが残っていた。
*
雨が弱くなっていた。
雲の切れ間から、薄い日差しが広場へ落ちる。
龍王は立ち上がった。
髪も衣も濡れていたが、先程の怒りは、その顔から消えていた。
広場の縁で祈り続けていた民が、少しずつ顔を上げた。
龍王は、その一人一人を見るように、ゆっくり視線を巡らせた。
「皆、私の話を聞いてほしい」
声は、遠くまで届いた。
「私は昔、大切な友と、友が何より大切にしていた娘を失った」
誰も、口を挟まなかった。
「救えなかったことを悔い、奪った者を憎み、その思いに長い間、囚われていた」
龍王は、手の中のハンカチを見た。
「この国がどうなろうと構わない。そう思うことさえあった。私は、その間、自分の務めから目を背けていた」
万亀雄が、黙って聞いていた。
獅子音と明も、その隣に立っている。
「それでも、四方や国に仕える者たちは、民の暮らしを守り続けてくれた。今日、私が怒りに我を失った時も、私に刃を向けず、戻ってくることを願ってくれた」
龍王は、広場の民へ頭を下げた。
「恐ろしい思いをさせた。すまなかった」
亀山は、龍王の濡れた髪を見ていた。
顔を上げると、龍王は続けた。
「私は今日、ここで自分の生を生きると決めた。失った者を忘れるためではない。その者たちとの時間を抱えて、これからを生きるために」
ハンカチを、胸元へ収める。
「約束しよう。これからは、この国のために尽くしていくと」
広場は静かだった。
やがて、どこかで拍手が聞こえた。
一人、また一人と、手を打つ音が重なる。
膝をついていた民が立ち上がった。
拍手は、広場全体へ広がっていった。
亀山は、その音を聞きながら息を吐いた。
隣へ、獅子音が来た。
「……終わったね」
「ええ」
亀山は頷いた。
喜美子には医師がつき、兎月と源兎がそばにいた。
弟は近衛兵と話している。
明は椅子へ座り、係員から水を受け取っていた。
それぞれが、また動き始めている。
亀山は携帯を取り出した。
病院へ向かった蛇森から、メッセージが来ていた。
『処置、終わった。生きてる。腹減った』
亀山は、画面を見たまま小さく笑った。
「蛇森?」
獅子音が尋ねた。
「はい。お腹が空いたそうです」
「元気そうだ」
「……ええ」
亀山は返事を打った。
『今から行きます』
送信して、携帯をしまう。
雲の向こうから、陽の光が差していた。




