第二十三章 祈りの広場
第二十三章 祈りの広場
車を待つ間、蛇森は建物の外に座っていた。
亀山はその隣にしゃがみ、銀狼から受け取った布で傷を押さえていた。
「もう少し、力を抜いても大丈夫だと思うぞ」
「血が止まるまでは、このままです」
亀山は手を緩めなかった。
兎月は少し離れた場所に立ち、城の方を見ていた。何度もそちらへ顔を向けては、戻している。
亀山も空を見上げた。
龍王の姿は、もう見えなかった。
やがて車が来た。
獅子音が連絡した医師が降り、蛇森の傷を診た。防護用のベストを外し、背中を確かめる。
「傷は浅いですが、処置が必要です。強く打たれたようなので、ほかに痛むところも診たい。病院へ行きましょう」
「分かりました」
亀山が答えた。
蛇森が顔を向ける。
「何で、お前が返事するんだよ」
「君が渋りそうでしたから」
蛇森は口を閉じた。
亀山は医師へ搬送先を尋ね、それから蛇森の腕を支えた。
「立てますか?」
「立てる」
蛇森は銀狼にも手を借り、ゆっくり身体を起こした。
車へ向かう途中で、亀山を見た。
「お前は、広場へ行け」
「ですが――」
「喜美子さんを助けるんだろ。俺は医者に診てもらうから」
亀山は答えなかった。
腕を支える手も離れない。
「何かあったら連絡する。だから、行ってこい」
蛇森が言った。
亀山はもう一度、医師へ傷の状態を確認した。
それから、ようやく頷いた。
「終わったら、すぐに行きます」
「はいはい」
蛇森が車へ乗り込む。
扉が閉まるまで、亀山はその場に立っていた。
獅子音が肩へ手を置いた。
「行こう。奥様の方も、急がないと」
亀山は顔を上げた。
兎月と銀狼も待っていた。
四人は、残った車へ乗り込んだ。
*
広場へ近づくにつれ、空が暗くなっていった。
城の上に灰色の雲が湧き、みるみる広がっていく。
朝から街を照らしていた日差しが消えた。
車が止まると、亀山は扉を開けた。
広場から、悲鳴が聞こえた。
白銀の龍が、中央にいた。
長い身体を幾重にも巻き、喜美子を締め上げている。
鱗が逆立っていた。立髪が揺れ、剥き出しの牙の間から低い唸りが漏れていた。
「龍王様! どうか、お鎮まりください!」
近衛兵が呼び掛けた。
龍王は振り向かなかった。
尾が大きく動き、石畳を打った。
地面が震えた。砕けた石が跳ね、近衛兵たちが腕で顔をかばう。
民が一斉に後退した。
子供を抱き上げる者。連れの腕を引く者。屋台の陰へ身を寄せる者。
倒れかけた者を、隣の者が支えた。
それでも、誰も中央から目を離せずにいた。
亀山は獅子音とともに、近衛兵の間を抜けた。
龍王の周囲に残っているのは、四方の者たちと近衛兵だけだった。
兎月と銀狼は、その外側で足を止めた。
亀山の弟が、こちらへ近づいてきた。
「兄さん……」
「戻られてから、ずっとこの状態ですか?」
弟が頷いた。
「何度もお声を掛けていますが、聞いてくださらないんです」
亀山は龍王を見た。
その目は、巻きついた身体の内側へ向けられていた。
喜美子の顔が、鱗の隙間から見える。
苦痛に歪み、口を開いていた。息を吸おうとしても、胸を動かせないようだった。
「龍王様、妻を離してください!」
源兎が近づいた。
「このままでは、死んでしまいます!」
龍王の喉から、地を震わせるような唸りが響いた。
源兎の足が止まる。
龍王は喜美子へ頭を寄せた。
牙が、その顔のすぐそばまで迫った。
「龍王様!」
亀山が叫んだ。
「その身体は、喜美子さんのものです! 彼女まで傷つけてはなりません!」
龍王の目は動かなかった。
廃カジノでは、一瞬、言葉が届いた。
今は、亀山の声にも反応しない。
締めつけられた喜美子の喉から、しゃがれた声が漏れた。
何を言ったのかは聞き取れなかった。
龍王が牙を剥く。
身体に、さらに力が入った。
獅子音が、亀山の隣で息をのんだ。
「……このままじゃ、奥様が殺される」
近衛兵たちは武器を手にしていたが、構えることもできずにいた。
民は広場の縁まで下がっていた。
互いに身を寄せ、ただ遠巻きに見つめている。
泣く子供を、親が胸へ抱き寄せた。
頭上では、灰色の雲が重なり続けていた。
昼間とは思えないほど、広場が暗くなっていく。
「龍王は、ご乱心だ!」
源兎が叫んだ。
後ずさりしながら、龍王を指す。
「何の罪もない妻を殺そうとしている! このままでは神の座を失い、邪神となるぞ!」
近衛兵へ顔を向けた。
「何をしている! あれを止めろ! 国を守れぬなら、もはや王ではない。ただの怪物だ!」
誰も動かなかった。
「首を落とせ!」
源兎の声が広場に響いた。
「首を取った者には、お前たちが一生拝めぬほどの報酬を与える!」
「いい加減にしろ、兎束!」
万亀雄が前へ出た。
源兎を冷ややかに見据える。
「妻を救いたいと言いながら、今度は王を殺せと命じるのか」
「では、貴様が止めてみろ! あれを見ろ! 妻は――」
「だからこそ、これ以上、混乱させるな!」
万亀雄の声に、源兎が口を閉じた。
万亀雄は近衛兵へ向き直った。
「誰も、龍王様へ刃を向けてはならない」
それから、広場の縁に集まる民を見た。
「皆さん。どうか、聞いてください」
唸り声の中でも届くよう、声を張る。
「奥方の身体には、別の者が宿っています。龍王様は、その者へ怒りを向けておられる。ですが、このままでは、奥方まで命を落とす」
万亀雄は一度、龍王を見た。
その尾が地面を擦り、砕けた石を押しのけた。
再び民へ向き直り、頭を下げる。
「どうか、力を貸してください。龍王様が怒りに呑まれず、正しく裁きを下せるよう、皆さんの祈りを」
獅子音が、万亀雄の隣へ進んだ。
病院から戻った羊山明も、青白い顔のまま並んだ。
二人が民へ頭を下げる。
亀山は龍王の前に残り、その目を見つめていた。
民は、すぐには動かなかった。
やがて、一人の老人が膝をついた。
胸の前で手を組み、目を閉じる。
隣にいた者も、ゆっくり座った。
前から後ろへ、静かな動きが広がっていく。
親のそばで、子供も手を合わせた。
近衛兵たちは武器を下ろし、その場へ膝をついた。
広場が静かになった。
龍王の唸りが、少しずつ低くなる。
巻きついた身体が、わずかに緩んだ。
喜美子が顔を上げた。
「また、亀山か……!」
しゃがれた声が響いた。
「いつも、邪魔ばかりしおって。猿木と親しかったお前は、私が四方になってからも、何かにつけて口を出してきた!」
龍王の身体が強張った。
亀山は一歩、近づいた。
「龍王様」
呼び掛けたが、こちらを見なかった。
万亀雄が、十兎へ答えた。
「猿木さんと親しくしていたのは、私の父、亀十郎です」
十兎が万亀雄を睨む。
「父から、あなたの話は聞いています。店子へ重い税を課し、工事の費用まで切り詰めさせた。安い材料で施設を建てるよう求められたと、父は嘆いていました」
「黙れ……!」
「四方が店子を守るのではなく、店子に四方を支えさせた。それが、あなたのやり方だったのですね」
源兎が、万亀雄へ向かって歩き出した。
「亀山! 貴様、兎束を――」
「源兎さん」
万亀雄が顔を向けた。
「今回、各地の店や会社から虚偽の報告を送らせた件は、調査で明らかになっています」
源兎の足が止まった。
「あなたの指示で金が渡されたことも、確認されています。大会で息子を勝たせるため、ほかの四方を混乱させた」
源兎の唇が動いた。
言葉は出なかった。
「給水所の飲み物についても、調べています。あなたには、詳しく話していただかなければなりません」
万亀雄が続けた。
「民を巻き込み、その暮らしを損なう者に、四方を任せることはできません」
源兎は、その場へ膝をついた。
亀山の頬へ、冷たいものが触れた。
空を見上げる。
雨だった。
一粒、また一粒。
やがて細い雨が、広場を包んだ。
龍王の白銀の身体へ降り注ぎ、鱗の上を流れていく。
薄い湯気が立ち昇った。
それでも龍王は、喜美子を離さなかった。
牙を剥き、目の前の者を睨み続けている。
亀山は、その目に向かって、もう一度声を掛けようとした。
白いものが、視界を横切った。
小さな少女が、広場の中央へ歩いていた。
白いワンピースを着ている。
民は、遠くで膝をついていた。
少女だけが、迷わず龍王へ近づいていく。
亀山は手を伸ばしかけた。
少女は龍王の身体に触れ、嬉しそうに笑った。
「龍王のおじちゃん、綺麗ね」
声が、静かな広場に響いた。
「雨に濡れて、きらきらしてる」
龍王の目が、少女へ向いた。
唸りが止まった。
少女は、その大きな顔を見上げた。
「あのね。お父ちゃんが、おじちゃんを助けてあげてって言うの。だから、お父ちゃんも一緒に行こうって言ったんだけど」
少し、口を尖らせる。
「自分が姿を見せたら、おじちゃんが忘れられなくなるからって。変よね。忘れられない人を、無理に忘れなくてもいいのに」
巻きついた身体が、ゆっくり緩んだ。
「ちゃんと伝えてね、深月って言われたから、伝えるね」
亀山は息をのんだ。
深月。
十一歳で命を奪われた、猿木の娘。
龍王は、少女を凝視していた。
「お父ちゃんからの伝言よ」
少女は笑った。
「もう、終わりにしませんか。僕はまた、あなたと楽しいお喋りがしたいんです、だって」
白銀の鱗が、雨の中で光った。
長い身体がほどけ、喜美子が地面へ横たわる。
その前に、人の姿の龍王が立っていた。
右手から、血が流れている。
龍王は少女へ近づき、左手を伸ばした。
頬へ触れる。
「あの時は……助けられず、すまなかった」
少女は、その手へ自分の手を重ねた。
「おじちゃん。あたし、あの時のことは、よく覚えてないの」
龍王の顔を見つめる。
「気づいたら、お母ちゃんがいてね。少ししたら、お父ちゃんも来たの。嬉しかった」
龍王は、口を開きかけた。
何も言えず、両手で顔を覆った。
その場へ膝をつく。
少女が、右手を見た。
「おじちゃん、怪我してる!」
小さな手を重ねる。
「痛いの? それで泣いてるの?」
龍王の肩が震えた。
「お薬、持ってないわ。どうしましょう……」
少女は少し考え、それから頷いた。
「大丈夫。お母ちゃんが教えてくれたおまじないがあるの」
龍王の手を、両手で包んだ。
「痛いの、痛いの、飛んでけ」
亀山は、その声を聞いていた。
何度も、同じ言葉が繰り返される。
龍王は少女の前で、肩を震わせて泣いていた。
雨は、静かに降り続いていた。




