第二十二章 喜美子の声
第二十二章 喜美子の声
亀山からのメッセージを読み、蛇森は銀狼へ画面を見せた。
「兎月は、戻ってるそうだ」
銀狼が頷く。
「では、相手に気づかれないよう、合わせましょう」
蛇森は携帯をしまい、ワイシャツの上から胸元を押さえた。
銀狼が取り寄せた防護用のベストが、その下にあった。
動くたび、少し窮屈だった。
銀狼も同じ物を着ている。
「慣れねぇな、これ」
「念のためです。相手が何を持っているか、分かりませんから」
そう言われ、蛇森はそれ以上、文句を言わなかった。
部屋の外へ出ようとした時、下の階から金属の擦れる音がした。
二人が顔を見合わせる。
蛇森は廊下を進み、階段の上から下を覗いた。
入口から、二人の人影が入ってきた。
喜美子と兎月だった。
喜美子が息子の腕をつかみ、奥へ引いている。
「こっちだ。もうすぐ、お前の愛しい女に会える」
蛇森は、壁へ身を寄せた。
声が違った。
控室でどのように話していたかは知らない。
だが、この声を母親の声だと言われても、信じられなかった。
「最後に、話くらいはさせてやろう」
兎月は俯いたまま歩いていた。
倒れた椅子へ足を引っ掛ける。
椅子が床を滑り、大きな音を立てた。
「薬が効きすぎているのか。全く、手間の掛かる……」
喜美子が舌打ちした。
「ここから階段だ。落ちるなよ」
蛇森は銀狼へ合図し、部屋へ戻った。
友香が座っていた椅子へ、腰を下ろす。
銀狼は入口の脇へ立った。
足音が近づく。
やがて、扉が押し開かれた。
喜美子が、部屋へ入った。
蛇森と目が合う。
その顔が、強張った。
「……誰だ、お前は」
蛇森は椅子から立ち上がった。
喜美子の後ろで、銀狼が兎月の腕を取る。
部屋の奥へ引き入れ、自分の背後へ立たせた。
喜美子が振り向いた。
兎月を取り返すように手を伸ばしたが、銀狼が前へ出た。
「おい。あんた、何するつもりだった?」
蛇森が尋ねた。
喜美子は二人を見比べた。
それから、口元を歪めた。
「……どいつもこいつも、私の邪魔をする」
低い笑いが漏れた。
「いつも、いつも……」
「友香は、もうここにはいねぇよ」
蛇森が言った。
「無事に保護した。あんたが何を飲ませたのか、病院で調べてもらってる」
兎月が顔を上げた。
「……友香は」
蛇森は一瞬だけ、兎月を見た。
「弟がついてる。今は、医者に診てもらってる」
兎月が、深く息を吐いた。
喜美子の目が細くなる。
「お前……」
兎月が、その顔を見た。
「誰なんだ。母さんに、何をした」
喜美子は、しばらく兎月を見つめていた。
「薬が切れていたとはな」
唇が吊り上がる。
「なかなか、上手く演じていたじゃないか」
「母さんから、出ていけ」
兎月が言った。
蛇森は、二人の間へ立った。
喜美子の顔から、笑みが消えた。
「黙れ。これは、私の身体だ」
バッグへ手を入れる。
蛇森はその手を見た。
「喜美子は、奥で眠っている。今、この身体を動かしているのは、私だ」
取り出した物が、薄暗い部屋で光った。
ナイフだった。
銀狼が兎月を、さらに後ろへ下がらせた。
「二人殺すつもりが、三人になっただけだ」
蛇森は、喜美子から目を離さなかった。
身体は喜美子のものだ。
中に誰がいるとしても、殴り倒して済む相手ではない。
手を出すなら、あのナイフを奪うため。
蛇森は足を少し開いた。
「もう、やめませんか」
入口から声がした。
喜美子が、壁際へ飛び退いた。
亀山と獅子音が立っていた。
蛇森は、亀山の破れたジャージを見た。
背中から、甲羅が見えている。
一体、何があったのか。
聞ける状況ではなかった。
亀山は部屋へ一歩入り、喜美子を見た。
「兎束十兎さん」
喜美子の顔が変わった。
「何故、その名を知っている」
蛇森は、ナイフへ向けていた視線を上げた。
十兎。
亀山の呼び掛けに、目の前の者が答えた。
「百五十年前、兎束家が娯楽の四方となった時の当主。喜美子さんの祖父に当たる方です」
亀山が言った。
「そして、兎月さんには、曾祖父ですね」
兎月が、壁際の喜美子を見た。
「……曾祖父?」
「小僧。私を知ったつもりになるな」
十兎が、亀山を睨んだ。
女の身体から、しゃがれた声が出ていた。
「お前、亀山だな。昔も今も、忌々しい。何故、いつも邪魔をする」
「僕は一亀です。あなたとは、初めてお会いします」
「分かっている!」
十兎が叫んだ。
ナイフを握る手が揺れた。
「猿木の時も、そうだった。あいつさえいなければ、兎束が四方になるはずだった」
蛇森は亀山の横へ動いた。
十兎は、その動きにも目を向けた。
「龍王に気に入られて、子供じみた事業ばかり増やしおって。狐滝も、少しは役に立つかと思ったのに」
「カジノの店主ですか」
亀山が尋ねた。
「店が潰れると泣きついてきたから、儲かる方法を教えてやった。猿木を負けさせればいい。娘を押さえれば、逆らえない」
蛇森の手に、力が入った。
あのワンピースが、キャビネットの中にある。
絵を描いた紙も、ここにあった。
「ところが、あいつは急に娘を返すと言い出した。自分のしたことを悔いて死ぬなどと。私の駒が、勝手に役目を降りるとはな」
「それで、あなたがここへ来たのですね」
亀山の声が、少し震えていた。
「狐滝が死んでいた。娘は、迎えを待っていた。そういうことですか」
十兎は鼻で笑った。
「生意気な娘だった。父親を返してくれと泣くなら、まだ可愛げがあったものを」
蛇森は、息を止めた。
「私を真っすぐ見て、意見をした。あの目が気に入らなかった。何もかも見透かしたような目だった」
「……それで、殺したのか」
声が出た。
自分の声だと気づくまで、少し間があった。
十兎は蛇森を見た。
「気づけば、紐を手にしていた。最後まで、あの目で私を見ていたよ」
蛇森は踏み出しかけた。
「皆さん」
亀山の声が響いた。
「目の前にある身体は、喜美子さんのものです」
蛇森は足を止めた。
ナイフを握っているのは、喜美子の手だった。
十兎の言葉を聞いているうちに、それを忘れかけていた。
「喜美子さんを、傷つけてはいけません」
亀山が続けた。
獅子音も、大きく息を吐いた。
銀狼は兎月の前に立ったまま、十兎を見ている。
「身体を持たぬ魂であろうと、ここまでしたことは消えません。ナイフを置いてください」
「魂だけだと、私を侮るか」
十兎が笑った。
「この身体は、私の意思で動く。お前たちが手を出せないなら、なおさら都合がいい」
蛇森はナイフへ目を戻した。
「だが、私も馬鹿ではない。五人を相手に、これ一本で済むとは思っていない」
十兎の目が、兎月へ向いた。
「お前だけなら――」
身体が、急に動いた。
銀狼の脇を抜けるように、ナイフが兎月へ向かう。
蛇森は兎月の腕をつかんだ。
横へ突き飛ばす。
身体を返した時、背中へ衝撃が来た。
「っ!」
息が止まった。
膝が折れる。
その瞬間、頭上で、雷のような音がした。
天井が砕けた。
白い光が差し込み、大きな塊が部屋へ落ちてくる。
蛇森は片手を床へついた。
埃が舞い、何も見えなくなった。
「蛇森くん!」
亀山の声がした。
腕をつかまれる。
「動かないでください。どこを――」
「背中……」
蛇森は息を吸った。
吸えた。
ひどく痛かったが、声も出た。
「……いてぇ。これ着てても、結構、痛いんだな」
亀山が背へ手を回した。
裂けた服の下に触れ、手を止める。
「防護のベスト?」
「銀狼さんが……用意してくれた」
蛇森は顔をしかめた。
「先が、少し入ったみたいだ。背中、切れてる」
銀狼が近づき、傷を確かめた。
「深くはありません。ですが、診てもらわないと」
亀山は、蛇森の肩を支えたまま頷いた。
向こうで、獅子音の声がした。
「……龍王様」
蛇森は顔を上げた。
舞っていた埃が、少しずつ薄くなる。
天井に、大きな穴が開いていた。
陽の光を浴び、白銀の鱗が輝いている。
長い身体が部屋を埋め、喜美子を締め上げていた。
鋭い牙を剥き、立髪を逆立てた龍だった。
喜美子の顔が苦痛に歪む。
「亀山」
獅子音が呼んだ。
「このままじゃ、奥様が……」
亀山は蛇森から顔を上げた。
龍を見て、息をのむ。
銀狼へ蛇森を預け、立ち上がった。
「龍王様!」
白銀の龍の目が、亀山へ向いた。
「その身体は、喜美子さんのものです。この者の罪を、ここで彼女とともに終わらせてはなりません」
龍の身体に、力が入る。
喜美子の喉から、声が漏れた。
「四方の揃う場で、何があったのかを明らかにしてください。どうか、裁きの場へ」
亀山は、龍から目を逸らさなかった。
しばらくして、締めつけが緩んだ。
龍が身体を動かす。
喜美子をつかみ、天井の穴へ向かった。
風が巻き起こった。
蛇森は顔を伏せ、腕で目元を覆った。
大きな影が、空へ抜けていく。
音が遠ざかった後、部屋には割れた木片と埃が残っていた。
「……何で、龍王が」
蛇森が呟いた。
銀狼に支えられ、ゆっくり立ち上がる。
亀山が、空の見える穴から顔を戻した。
「広場へ向かったようです。僕たちも、戻りましょう」
「待って。蛇森は、病院へ行かせた方がいい」
獅子音が言った。
「車を呼ぶ。医師にも、来てもらおう」
蛇森は背中を動かしかけ、顔をしかめた。
亀山の手が、すぐに腕を支えた。
「無理に動かさないでください」
「……分かってる」
亀山は蛇森の顔を見た。
確かめるように、じっと見ていた。
蛇森は、少しだけ口元を上げた。
「生きてるよ」
亀山は返事をしなかった。
ただ、腕を支える手に、もう一度、力が入った。




