番外編 待っているから
番外編 待っているから
城に戻った龍王は、手の中のハンカチをじっと見つめていた。
雨に濡れた衣から、床へ雫が落ちる。駆け寄ってきた従者たちは、龍王の姿を見るなり慌て始めた。
「湯の支度を」
「先にお身体を拭くものを持ってこい」
「お休みになれるよう、お部屋を――」
「自分でするから大丈夫だ。ありがとう」
龍王がそう言うと、従者たちは一瞬、言葉を失った。
その間を抜け、龍王は自室へ入った。
龍の姿でもくつろげるように造られた部屋は、広く、天井も高い。ひとの姿で過ごすには、何もかもが大きすぎた。
いつもなら、この部屋に入った途端、途方もない孤独に襲われる。広い空間に自分だけが取り残されているようで、何もする気になれなかった。
けれど、今日は違った。
今は、ひとりになりたかった。
濡れた上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。手のひらにハンカチを広げると、端に縫われた文字が目に入った。
龍王は目を細め、そっと指でなぞった。
「猿木は、手先が器用だったのにな。刺繍だけは苦手だと言っていた」
小さな笑いがこぼれる。
「ふふ。『ミツキ』が『ミシキ』になっている」
「ひどいなぁ。笑うことはないでしょう。私、針仕事には向いていないんですよ」
龍王の指が止まった。
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、柔らかな光に包まれた男が立っていた。
何度も思い出し、そのたびに二度と会えないのだと自分に言い聞かせた顔。
猿木だった。
「……猿木?」
猿木は微笑み、龍王のそばへ歩いてきた。そして、片膝をついて頭を垂れた。
「お久しぶりです、龍王様。長い間、あなたを苦しめてしまいました」
龍王は、その姿をただ目で追っていた。
声を出そうとしても、喉がうまく動かなかった。
「私は……夢を見ているのか?」
猿木が顔を上げ、にっと笑う。
「夢ということにしましょう。こちらに来るまでに、いろいろと手続きを踏みましてね。説明していると、話す時間がなくなってしまいますから」
昔と変わらない笑い方だった。
龍王の胸に、熱いものが込み上げた。
「はは……お前らしい。そうか。夢か」
龍王は椅子から下り、猿木の前にしゃがみ込んだ。
顔を見ていたかった。それなのに、涙で目の前がにじんでしまう。
「猿木。あの時、深月を助けられず、すまなかった」
深く頭を下げると、猿木が慌てて肩に手を置いた。
「やめてください。ほら、立って。もうおしまいです。そういうのは、もうおしまい」
猿木に促され、龍王は顔を上げた。
「ずいぶんと泣き虫になられましたね。私とあなたの間じゃありませんか。そんなふうに頭を下げられると、背中の辺りがむずむずしますよ」
猿木は背中に手を回し、掻く仕草をした。
龍王は涙をこぼしたまま笑った。
「そうか。そうだな」
二人は並んで腰を下ろした。
龍王は、猿木の顔を確かめるように見つめた。
「息災だったか? 変わりはないか? あちらで困っていることは?」
「元気でやっていますよ。というのも、おかしな話ですけどね」
「深月が言っていた。お前の奥さんも一緒だと」
「ええ。あの子は早くに母親と別れてしまいましたから、今はここぞとばかりに甘えています。私のことなんて、ほったらかしですよ」
猿木は楽しそうに笑った。
龍王の手からハンカチを取り、濡れた頬を拭う。
龍王はされるがままになりながら、猿木の顔をのぞき込んだ。
「深月は、あの時のことをよく覚えていないと言っていた。それは、本当なのだろうか」
猿木の手が、わずかに止まった。
「十兎と向き合った時のあの子は、明らかに――」
「どこまで覚えているのか、私にも分かりません」
猿木は穏やかに答えた。
「ただ、深月は頭のいい子ですからね。あなたにはそう伝えるのがよいと考えたのかもしれません。そういう子なんですよ」
「……ああ。聡明な子だ」
龍王は、ハンカチを受け取った。
「一緒に連れていってくれないかと言ったら、怒られてしまった」
「当たり前です。あなたには、まだここでやることがあるでしょう」
「私は、あちらでまた、お前と話がしたかったんだ」
猿木は目を細めた。
「だから、私が来たんです。この国を守ると決めたあなたへのご褒美だそうですよ」
「ご褒美?」
「ええ。もちろん、私も会いたかったですしね」
猿木は部屋を見回した。
「あの頃は楽しかったなぁ。こんな娯楽はどうでしょうと、毎日のように城へ押しかけて。亀山も交えて、ああでもない、こうでもないと」
「お前は、話し始めると止まらなかったからな」
「あなたも亀山も、止めなかったでしょう」
「……楽しかったんだよ。本当に」
龍王はハンカチを握り直した。
「あの時間は、私の宝だった。それが、一瞬で壊れてしまった」
「私も、同じ思いです」
猿木はしばらく黙っていた。
龍王も、何も言わなかった。
その沈黙さえ、今は惜しかった。
「悲しい時は、悲しんでいいんです」
やがて、猿木が口を開いた。
「けれど、あなたはもう、前を見ると決めたのでしょう。あの子も、それが嬉しかったんだと思いますよ」
「深月が?」
「ええ。私たちも、あちらでいろいろな思いと向き合っています。そうして、またこちらへ戻ってくるんだそうです」
猿木は、にっと笑った。
「今度は何になるか分かりませんけどね。きっと、あなたに会いに来ますよ」
龍王も、ゆっくりと微笑んだ。
「そうか」
「それまで、元気でいてください」
猿木はそこで、思い出したように龍王の右手を見た。
「ああ、そうだ。深月から聞きました。手を切られたそうですね。傷はもう大丈夫なんですか?」
龍王は右手を上げ、猿木の前でひらひらと振った。
「この通りだ。十兎をあの廃墟から連れ出す時、隠し持っていたナイフで切られた。私も冷静ではなかったからな」
手のひらに傷は残っていなかった。
「深月のまじないと、あの雨のおかげかもしれない」
「それはよかった」
猿木は安堵したようにうなずいた。
「それにしても、よく十兎の居場所が分かりましたね」
「それが、私にも分からない」
龍王は、自分の胸に手を当てた。
「急に身体が熱くなったんだ。あそこへ行かなくてはならないと、どうしてもそう思った。気づいた時には、もう飛んでいた」
「初めてのことですか?」
「ああ。あのようなことは、今まで一度もなかった」
猿木は首を傾げた。
「その場に、あなたと血のつながりがある者がいたなら、話は別ですが……」
龍王は目を見開いた。
「猿木。今、何と言った?」
「血のつながりがある者、と」
「私の血が、どうしたというのだ?」
「ああ。ご存じなかったんですね」
猿木は居住まいを正した。
「上の方に聞いたんです。龍の血は、互いを呼ぶのだそうですよ」
「互いを呼ぶ?」
「例えば、親や子、兄弟。その誰かが命の危険にさらされた時、血を分けた者にそれが伝わる。場所を知らなくても、そこへ行かなくてはならないと分かるんだそうです」
龍王は黙った。
猿木は、その顔を見ながら言葉を続けた。
「あなたには、親兄弟はいらっしゃらないはずですよね。となると……いつの間にか、お子さんが?」
「私には、子もいないはずだが」
二人は顔を見合わせた。
猿木は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「いや、まさか……しかし、もしかすると……」
「何だ?」
「私の記憶違いでなければ、あなたが王になられた時、早々に世継ぎの話が出ていたでしょう」
「ああ。いろいろな種族の長が、娘たちを連れてきていたな」
龍王の声が冷えた。
「王妃の座を得れば、自分たちの地位も上がる。そう考えていたのだろう」
「私が生きている間には、お相手はいなかったと記憶しています。その後は?」
「おい、猿木。私はお前を失って、何もかもがどうでもよくなっていたんだ。そんな私に――」
龍王の言葉が途切れた。
猿木が、じっとその顔を見た。
「……何か、思い出しましたか?」
龍王は口元に手を当てた。
その頬が、みるみる赤くなった。
「まさか、次々といろいろな方と、なんてことはありませんよね。あなたに限って。はは……」
猿木の笑いが止まった。
「身に覚えがあるんですか?」
「ひとりだ!」
龍王は、慌てて答えた。
「後にも先にも、彼女だけだ。大勢の令嬢に会わされたが、誰にも心は動かなかった。ただ、彼女には……」
「どちらのご令嬢です?」
「令嬢ではない。この城で働いていた女性だ」
猿木が息をのんだ。
「まさか、あなた。立場を利用して、その方を無理やり――」
「待て。最後まで聞け。早とちりが過ぎるぞ」
龍王は身を乗り出した。
「彼女は、悲しみに暮れる私を案じてくれたんだ。私が何も話さなくても、そばにいてくれた。彼女のおかげで、私は邪神にならずにいられたのかもしれない」
猿木は、黙って聞いていた。
「そんな彼女に、無理強いなどするはずがない」
「なるほど。つまり、惚れたんですね」
涼しい顔で言われ、龍王は眉を寄せた。
「『惚れた』とは、ずいぶんとおっさんじみた言い方だな」
「間違っていますか?」
「……いや。お前の言う通りだ」
龍王は目を伏せた。
「私は彼女を愛した。彼女も、私を受け入れてくれた。毎日が幸せだった」
「だった?」
猿木が、その言葉を拾った。
「今は、どうされているんです?」
「ある日、突然いなくなった」
龍王は、ハンカチに視線を落とした。
「喧嘩をしたわけでもない。何も聞いていなかった。彼女は、身ひとつで私の前から姿を消したんだ」
「……それきりですか?」
龍王は答えなかった。
「探さなかったんですか?」
「裏切られたのだと思った」
声に出すと、あの時の痛みが胸に戻ってきた。
「大切にしていたものが、また、私の前からいなくなった」
猿木は龍王を見つめた。
「そこまで、しんどかったんですね」
「……すまない。あの頃の私は、どうかしていた」
猿木はしばらく考えてから、静かに言った。
「もしかすると、その方は妊娠に気づいて、逃げたのかもしれません」
龍王が顔を上げた。
「逃げる? なぜ?」
「ご令嬢たちが、この城へ送り込まれていた理由を、あなたはご存じでしょう」
龍王の表情が、ゆっくりと強張った。
「王妃の座を望んでいた者たちにとって、あなたが城の使用人を選ぶのは、喜ばしいことではなかったはずです。まして、その方があなたの子を身ごもったとなれば」
「まさか……彼女は、殺されたのか?」
「落ち着いてください」
猿木の声が、龍王を引き止めた。
「少なくとも、子は生まれています。今日、あなたの血が呼んだのなら、その子は生きている」
龍王は大きく息を吸った。
猿木は、その呼吸が落ち着くのを待った。
「ただ、その方がなぜ城を出たのかは、まだ分かりません。何かを恐れたのか、実際に危険が迫っていたのか。今の私たちには、そこまでは」
「彼女は……この国のどこかにいるのだろうか」
「その可能性はあります」
猿木はうなずいた。
「けれど、今もお元気かどうかは分かりません。種族によって寿命は違いますし、出産も命がけです。誰の子を宿したのか言えず、頼る相手もいなかったかもしれない」
龍王は唇を結んだ。
「……二十六年前だ。彼女がいなくなったのは」
「では、なおさら、調べなくては」
「会いに行かなくてはならない。だが、今さら私は――」
「しかしも、かかしもありませんよ」
猿木が、大きくため息をついた。
「あなたが、唯一愛した方なのでしょう。ここで考えているだけでは、その方がどうしているかも分かりません」
龍王は、何も言い返せなかった。
「名前は、覚えていますね?」
「……さわ」
久しぶりに口にした名だった。
「私は、彼女を『さわ』と呼んでいた」
「姓は?」
龍王は考え込んだ。
「さわの姓は……何だった?」
「私に分かるわけがないでしょう」
猿木は呆れた顔をした。
「この城で働いていた方なら、名簿があるんじゃありませんか?」
「ああ。そうだな」
龍王がうなずいた時、猿木を包む光が強くなった。
それまで見えていた指先の輪郭が、光の中へ溶けていく。
龍王は、思わず手を伸ばした。
「猿木」
「そろそろ、戻る時間のようです」
猿木は、自分の手を見下ろした。
「会えてよかった。上も、粋なことをしてくれますね」
龍王は何か言おうとして、口を閉じた。
猿木が、その顔を見て笑った。
「そんな顔をしないでください。私は、またこの地に生まれてきます。どんな姿になっても、きっと会いに来ますから」
「……ああ」
「それまで、よろしくお願いしますよ。龍王様」
光が、猿木の全身を包んだ。
にっと笑った顔が、最後まで見えていた。
やがて光は無数の粒となり、部屋の中をゆっくりと昇っていった。
龍王は、それを見送った。
最後のひと粒が見えなくなってから、小さく呟いた。
「待っているからな」
手の中には、ハンカチが残っていた。
龍王はそれを丁寧に畳み、胸元へしまった。
*
図書館の司書は、急に現れた龍王を見て、椅子から立ち上がった。
「龍王様。何か御用でしょうか」
「この城に仕えていた者の名簿はあるか」
「ございます。年代は――」
「二十六年前だ。その頃まで働いていた女性を探している」
司書はすぐに書架へ向かった。
「こちらでございます」
案内された棚には、年代ごとに整理された名簿が並んでいた。
「ありがとう。あとは、自分で探す」
司書を席へ戻し、龍王は一冊を手に取った。
ページを開く。
名前、種族、働いていた部署。在籍していた期間。
写真の添えられた記録を、一つずつ確かめていった。
次の一冊を開く。
その次の一冊を開く。
紙をめくる音だけが、静かな書架の間に響いていた。
何冊目かの名簿で、龍王の手が止まった。
切れ長の目をした女性が、真っ直ぐ前を向いて写っていた。
笑ってはいなかった。
けれど龍王は、その顔が笑う時のことを覚えていた。自分を呼ぶ声も、隣にいる時の静けさも。
「……見つけた」
写真の下へ、指を滑らせる。
そこには、彼女の名が記されていた。
――蛇森 佐和。




