第十九章 小さなワンピース
第十九章 小さなワンピース
階段は、足を乗せるたびに軋んだ。
蛇森は一段ずつ上がり、後ろへ手を向けた。
流兎がすぐに来ようとするのを、少し待たせる。
上の階から、物音はしなかった。
細長い廊下の先に、扉が一つ見える。
蛇森は近づき、耳を澄ませた。
何も聞こえない。
扉には、板の欠けた穴があった。
そこから中を覗く。
薄暗い部屋の中央に、テーブルと椅子があった。
椅子に、一人の女が座っている。
顔が下を向いていた。
見覚えのある服だった。
「……いた」
蛇森は穴から手を入れ、内側の留め金を探った。
指に触れた金具を動かす。
扉を押すと、床を擦りながら開いた。
「姉ちゃん!」
流兎が蛇森の横をすり抜け、駆け寄った。
友香の肩へ手を置く。
「姉ちゃん。起きて」
友香は動かなかった。
目を閉じ、椅子の背へ身体を預けている。
流兎が、その顔を覗き込んだ。
「姉ちゃん……」
「少し、離れてください」
銀狼が隣へ立った。
友香の手首に触れ、顔へ近づく。
蛇森もテーブルの反対側へ回った。
友香の足元に、バッグが落ちていた。
椅子の下には、携帯もある。
蛇森は拾い上げ、画面を確かめた。
流兎からの着信が残っていた。
「息も脈もあります」
銀狼が言った。
「ただ、呼び掛けに反応しません。早く、病院へ」
流兎が、友香を見たまま頷いた。
「俺が……運ぶ」
姉の背と膝の下へ腕を入れる。
ゆっくり持ち上げた。
友香の頭が揺れ、流兎が腕の位置を変えた。
「階段は、俺が先に行く」
蛇森はバッグへ携帯を入れ、肩に掛けた。
銀狼が扉の外を確かめる。
「戻ってくる者がいるかもしれません。急ぎましょう」
*
蛇森は、階段を一段ずつ確かめながら下りた。
足元にある木片を脇へ寄せ、流兎へ合図する。
流兎は友香を抱えたまま、静かに続いた。
銀狼が、背後を警戒していた。
ホールを抜け、入口から外へ出る。
陽の光に、蛇森は目を細めた。
空き地には、まだ誰もいなかった。
三人で草の間を進み、細い路地へ戻った。
広い道へ出たところで、銀狼が携帯を取り出した。
短く場所を告げ、車を回すよう頼む。
その間に、蛇森は亀山へ連絡した。
『友香さんを保護した。意識は戻っていないが、息と脈はある。これから病院へ運ぶ』
建物の位置も送る。
しばらくして、車が来た。
運転席から降りた男が、銀狼へ頭を下げる。
銀狼は後部座席の扉を開けた。
「病院へお願いします。獅子音の大切なお客様です」
運転手の背筋が伸びた。
「かしこまりました」
「意識がありません。揺らさないよう、できるだけ早く」
流兎が友香を抱えたまま座り、蛇森はバッグを渡した。
銀狼が、開いた扉から流兎へ顔を向ける。
「私たちは、ここへ残ります。お姉さんについていてください」
流兎が頷いた。
視線は、姉の顔へ戻った。
銀狼は少し声を和らげた。
「見つかったんです。今は、病院へ連れていける。あとは、先生に診てもらいましょう」
「……はい」
「分かったことは、連絡します」
扉を閉める。
車が動き出した。
流兎は窓越しに頭を下げ、それからまた、友香へ顔を向けた。
車が見えなくなるまで、蛇森はその場に立っていた。
「さて」
銀狼が言った。
「次は、どうします?」
「戻る」
蛇森は、路地へ目を向けた。
「友香さんをあそこへ連れていった奴が、戻ってくるかもしれない」
銀狼が頷いた。
「同じ考えです」
「……あんた、何でも手際よくやるな」
「仕事ですから」
銀狼は携帯をしまった。
「病院での対応まで確認したら、獅子音にも知らせます」
蛇森は自分の携帯を見た。
亀山から、返事が来ていた。
『ありがとうございます。こちらでも動きがあります。建物で待機してください。無理に取り押さえようとせず、まず相手を確認してください』
続けて、別のメッセージが届いた。
『兎月さんの様子が、おかしくなっています。喜美子さんにも注意してください』
蛇森は画面を銀狼へ見せた。
銀狼の目が細くなる。
「……なるほど」
「何か分かるのか?」
「いいえ。ただ、相手が誰であっても、何を持っているか分かりません。戻る前に、用意したい物があります」
銀狼は、もう一度電話を掛けた。
蛇森は横で、建物へ続く路地を見ていた。
*
廃屋へ戻ると、蛇森は入口で立ち止まった。
中の物音を確かめる。
誰もいないようだった。
銀狼とともに階段を上がり、友香のいた部屋へ戻る。
さっきは、友香を運び出すことしか考えられなかった。
改めて見ると、部屋には生活に必要な物が残っていた。
壁際にベッド。
小さな棚と、キャビネット。
テーブルの上には埃が積もっていたが、友香が座っていた椅子の周りだけ、床が乱れている。
「ここ、何の部屋だったんだろうな」
蛇森が言った。
「店の上にあるなら、住み込みの部屋かもしれません」
銀狼は窓へ近づいた。
汚れで、外が見えない。
指で端を擦ったが、乾いた埃が少し落ちただけだった。
「開かない窓ですね」
蛇森は、キャビネットの前へ立った。
扉が少し開いている。
中を覗くと、布が見えた。
指先で、そっと引き出す。
小さなワンピースだった。
白かったのだろう。
今は黄ばんで、裾も傷んでいる。
蛇森は、それを見たまま黙った。
「何かありましたか?」
銀狼が近づいた。
ワンピースを見て、動きを止める。
蛇森は中へ視線を戻した。
同じくらいの大きさの服が、数枚、畳まれていた。
下の棚には、小さな箱がある。
蓋を開けると、短くなった色鉛筆とクレヨンが入っていた。
その下に、画用紙が重ねられている。
蛇森は、一枚を持ち上げた。
色は褪せていた。
何が描いてあるのか、はっきりとは分からない。
紙の端に、小さな字が残っていた。
『みづき』
蛇森は息を止めた。
銀狼も、その字を見ていた。
「……ここか」
蛇森が呟いた。
古いカジノ。
店主が、十一歳の少女を閉じ込めた部屋。
亀山から聞いた話が、目の前の物とつながった。
蛇森はワンピースへ目を戻した。
一枚ではなかった。
着替えも、絵を描く物も、ここにはあった。
銀狼が、小さく息を吐いた。
「店主が、最後に気を変えて殺したとは……思いたくないですね」
蛇森は頷きかけ、それから画用紙を見た。
「……俺も」
手紙には、迎えに来てほしいと書かれていた。
それでも、深月は帰れなかった。
蛇森は絵を元の場所へ戻した。
「でも、これだけじゃ、分からないな」
「ええ」
銀狼が答えた。
「だから、ここにある物は残しておきましょう。調べる者に見てもらえるように」
蛇森はワンピースも戻した。
キャビネットの扉を、元の位置まで静かに閉める。
その時だった。
下の階から、音がした。
金属が擦れる、重い音。
入口の扉だった。
銀狼の耳が動く。
蛇森は顔を上げた。
二人で、廊下へ出る。
階段の上まで進むと、下から声が聞こえた。
「――こっちだ。もうすぐ、お前の愛しい女に会える」
蛇森は、壁へ身を寄せた。
階段の下を覗く。
二つの人影があった。




