第十八章 並んで走る
第十八章 並んで走る
亀山は、自分なりに走っていた。
足を前へ出し、地面を蹴る。それを繰り返している。
しかし、沿道の民から見れば、早足で歩いているのと大差なかった。
「亀山。これで全力?」
隣の獅子音が尋ねた。
亀山は、口を少し尖らせた。
「走っています。お気になさらず、先へどうぞ」
「いや、私も急に飛ばすと、後がつらいからね。最近、運動不足で」
「でしたら、これを機に、少し身体を動かす習慣を……」
「銀狼と同じことを言うなぁ」
獅子音が笑った。
前を走る羊山明の姿は、すでに小さくなっていた。
衣の四方を担う彼女は、連日の対応で疲れていたものの、この三日ほどは休めたと、控室で話していた。
今は一定の速さで、丘へ向かっている。
亀山は、後ろの足音へ耳を向けた。
不揃いだった。
獅子音も、振り返った。
「……あれ、やっぱりおかしいよ」
兎月は、右へ左へと身体を揺らしていた。
足元を見ているのか、何も見ていないのかも分からない。時折、立ち止まりそうになり、また足を動かす。
「真っすぐ走れー!」
沿道から声が飛んだ。
「ふざけてんのか!」
「しっかりしろよ!」
兎月は、顔を上げなかった。
亀山は獅子音と目を合わせた。
二人で足を緩め、兎月が来るのを待つ。
「兎月さん」
亀山は片方の腕を取った。
獅子音も反対側へ回り、支えた。
「ちょっと、手を貸すよ」
兎月の身体が、二人の間で持ち直した。
三人で、前へ進む。
先程までの野次が止まった。
亀山は兎月の顔を覗いた。
「聞こえますか?」
唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。
「気分が悪いんじゃないの? 救護の人を呼ぶ?」
獅子音が尋ねた。
兎月の耳が揺れた。
亀山は、その目を見た。
「兎月さん。頷くことはできますか」
少し間を置いて、首が動いた。
「質問します。はいなら一回、いいえなら二回、頷いてください」
兎月が一回、頷いた。
亀山は息を整えた。
「何か、飲まされましたか?」
一回。
獅子音の手に、力が入った。
「お父上に?」
二回。
「お母様ですか?」
一回。
亀山は、前を見た。
喜美子が口元を拭い、腕を取って席へ連れていった姿が浮かぶ。
源兎は、息子が従わないことに苛立っていた。
だが、今の兎月は、従うかどうかを自分で決められる状態ではなかった。
「薬かな」
獅子音が声を落とした。
「その可能性はあります」
亀山は答えた。
「何を飲まされたのか、分からないことには……」
足を動かしながら、ポケットの携帯を意識した。
蛇森から、まだ連絡はない。
喜美子が兎月をこの状態にしたのなら、友香にも何かするかもしれない。
亀山は、歩幅を少し広げた。
すぐに息が乱れた。
「無理しないで」
獅子音が言った。
「君まで倒れたら、私一人で二人を運ぶことになる」
「……分かっています」
亀山は速さを戻した。
沿道から、声がした。
「頑張れ、兎束の兄ちゃん!」
「三人とも、頑張れー!」
支えられて進む姿を、助け合って走っていると見たのだろう。
そのとおりではあった。
けれど、亀山には歓声へ応える余裕がなかった。
*
しばらく進むと、道は緩やかな上り坂になった。
沿道の人も少なくなる。
携帯が鳴った。
亀山は兎月を支える手を獅子音へ預け、画面を見た。
『友香さんがいない。連絡もつかない。銀狼さんが匂いを追う。流兎も一緒にいる』
足が止まりかけた。
亀山は短く返事を送り、携帯をしまった。
「何かあった?」
獅子音が尋ねた。
亀山は兎月の腕を取り直した。
「……友香さんが、寮からいなくなりました」
獅子音がこちらを見た。
兎月の足が、もつれた。
二人で支え直す。
亀山は兎月の顔を見た。
重く下がっていたまぶたが、動いた気がした。
「一度、止まりましょう」
道の端へ寄り、兎月を座らせた。
獅子音も腰をかがめ、肩を支える。
「兎月さん。僕を見てください」
亀山は、兎月の前へしゃがんだ。
「友香さんがいなくなりました。蛇森たちが探しています」
兎月の唇が震えた。
「行き先に、心当たりはありませんか」
返事はなかった。
兎月は地面へ目を落とし、浅い呼吸を繰り返していた。
「兎月さん」
亀山が肩へ手を置いた。
低い声が、喉から漏れた。
「……う、あ……」
兎月の指が、地面をつかんだ。
長い耳が、ゆっくり持ち上がる。
「友香……」
亀山は身体を寄せた。
「ええ。友香さんです」
兎月は顔を上げた。
目が、亀山を捉えた。
さっきまでとは違う。
「ボク……」
「聞こえますか?」
兎月が、はっきり頷いた。
獅子音が顔を覗き込む。
「戻ってきた?」
「……友香は、どこに?」
声はかすれていたが、言葉になっていた。
「今、探しています。銀狼さんが匂いを追っている。君に分かることがあれば、教えてほしい」
兎月は両手で顔をこすった。
それから、額へ手を当てる。
「母が……薬を」
「いつですか?」
「三日前。会社へ戻ったら、ボクの部屋にいたんです」
亀山は獅子音と目を合わせた。
兎月からの連絡が途絶えた日だった。
「栄養剤だって、飲ませました。飲んでから、頭がぼんやりして……何を考えていたのか、分からなくなって」
兎月は膝の上の手を見た。
「その後も、何度か。嫌だと思っても、母に言われると……」
言葉を止め、息を吐いた。
「逆らっちゃいけない。何も考えなくていい。言うとおりにしなさいって、ずっと……」
亀山は頷いた。
「薬で意識が鈍っているところへ、繰り返し言われたのですね」
「はい」
兎月の手が、まだ震えていた。
「でも、あれは……母じゃない」
亀山は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「見た目は母なんです。でも、声とか、目が……。ボクを見る時、知らない人みたいで」
兎月は亀山を見た。
「上手く言えません。でも、違うんです」
亀山は、その言葉を急いで否定しなかった。
百五十年前の話が、頭をよぎった。
今はまだ、それと結びつけるには早い。
「立てそうですか?」
兎月は地面へ手をつき、立ち上がった。
身体が揺れる。
獅子音が、すぐに腕を取った。
「意識が戻っても、身体はまだつらそうだね」
「……はい。でも、行きます」
兎月が言った。
「友香を探しているなら、ボクも……」
「まずは、給水所まで行きましょう」
亀山は丘の方を見た。
「そこで、君の身体を診てもらう必要があります」
兎月は頷いた。
三人は、再び並んで進み始めた。
*
丘の頂上へ着く頃には、亀山の息も上がっていた。
もう、会話を続ける余裕はない。
前を歩く獅子音が、給水所へ声を掛けた。
「すみません。少し――」
途中で、声が止まった。
亀山は顔を上げた。
給水用のテーブルに、紙コップが並んでいた。
その向こうのベンチに、羊山明が横になっている。
腕が、力なく垂れていた。
近くでは、係員も椅子にもたれ、あるいは地面に座り込んだまま、動かなくなっていた。
「……何だ、これ」
獅子音が呟いた。
亀山は兎月をベンチの端へ座らせ、明へ近づいた。
獅子音が、呼吸を確かめている。
「息はしてる」
肩へ声を掛けても、明は目を開けなかった。
亀山はテーブルを見た。
飲みかけのコップ。
そのそばで倒れたように眠る係員。
今朝、弟から聞いた交代の話。
「獅子音さん。ここの飲み物には、手をつけないでください」
亀山は携帯を取り出した。
弟へ連絡する。
場所と、倒れている者の人数を伝えた。
最後に、給水所の飲み物を調べてほしいと付け加える。
「……皆、同じように眠ってるね」
獅子音が周囲を確かめた。
兎月も、顔を上げていた。
亀山は送信を終え、携帯を握ったまま給水所を見渡した。
ここで何が起きたのか。
それを確かめる間にも、友香の捜索は続いている。
先程まで熱かった身体が、急に冷えた気がした。




