第十七章 残された匂い
第十七章 残された匂い
社員寮に着いた時、蛇森は息を切らしていた。
入り口の前で携帯を取り出し、亀山から届いた指示を読み返す。
『友香さんの安全を最優先に。僕から連絡するまで、そばを離れないでください。知らない者を近づけないようにお願いします』
何を心配しているのか、まだ聞けていなかった。
銀狼が来るまで待ってから入ろうと、蛇森が顔を上げた時だった。
寮の扉が開き、流兎が飛び出してきた。
「流兎?」
長い耳が揺れていた。
流兎は蛇森を見つけると、足を止めた。
「姉ちゃんが……い、いなくなった」
蛇森は、携帯を握ったまま動きを止めた。
「いつから?」
「起きたら……いなくて。ニャイン、送っても……既読に、ならない」
流兎の言葉が、何度もつかえた。
蛇森は近づき、その顔を見た。
「分かった。まず、部屋を見せてくれ」
後ろから足音がした。
銀狼が駆け寄ってくる。
「何かありましたか?」
「友香さんがいない。連絡もつかない」
蛇森が答えると、銀狼は流兎へ向き直った。
「お姉さんが、いなくなったんですね」
流兎が頷いた。
「身につけていた物は、部屋にありますか。毎日使っている物がいい」
蛇森は銀狼を見た。
狼族の嗅覚は、ほかの獣人よりはるかに優れている。
「流兎。部屋へ行こう。銀狼さんなら、匂いを追えるかもしれない」
流兎は、すぐに扉へ戻った。
*
部屋には、争ったような跡はなかった。
ちゃぶ台に湯呑みが二つ置かれ、台所には洗った食器が伏せてある。
流兎が、奥の部屋を指した。
「姉ちゃんは……ここで、寝てた」
銀狼が入っていく。
蛇森も、入り口から中を見た。
布団は畳まれていた。
壁際に衣類が置かれ、小さな棚には、寮へ持ってきた日用品が並んでいる。
銀狼は枕を手に取った。
少し確かめてから、カバーを外す。
「これを、お借りします」
流兎が頷いた。
銀狼は部屋を出て、玄関へ向かった。
蛇森は亀山へメッセージを送った。
『友香さんがいない。連絡もつかない。銀狼さんが匂いを追う。流兎も一緒にいる』
送信してから、時計を見る。
大会は、もう始まっているはずだった。
亀山が、すぐに読めるとは限らない。
蛇森は携帯をしまい、二人の後を追った。
*
寮の外で、銀狼が立ち止まった。
顔を上げ、ゆっくり向きを変える。
それから、通りの先を指した。
「こちらです。まだ、はっきり残っています」
「出てから、そんなに経ってないのか?」
「長くは経っていないと思います」
銀狼が歩き出した。
流兎がすぐに続き、蛇森もその横へ並んだ。
友香は寮を出て、街の中心へ向かったらしい。
道は祭りへ向かう者たちで賑わっていたが、銀狼は迷わず進んだ。
途中で、足を止める。
「どうした?」
蛇森が尋ねた。
銀狼は少し戻り、脇道へ顔を向けた。
「ここから、別の匂いが重なっています」
「誰かと会った?」
「一緒に歩いたのか、すぐ後ろを追っていたのかまでは分かりません。ただ、近い時間に、同じ方向へ進んでいます」
流兎が銀狼を見た。
「姉ちゃんは……連れて、いかれた?」
「まだ、そうとは言えません」
銀狼が答えた。
「先を急ぎましょう」
脇道へ入ると、行き交う人が減った。
さらに進むにつれ、店も少なくなる。
蛇森は前後へ目を配った。
友香が一人で、こんなところへ来るだろうか。
「この辺りに、お姉さんがよく行く場所はありますか?」
銀狼が流兎へ尋ねた。
「分かりません。俺が……知らないだけ、かも」
「そうですか」
銀狼は歩みを止めなかった。
道の先には工場が並んでいた。
今日は祭りのため、どこも閉まっている。広い門の向こうにも、建物の間にも、人影はなかった。
「……静かすぎて、嫌な感じだな」
蛇森が呟いた。
流兎は唇を結び、頷いた。
銀狼は工場の横にある細い路地へ入った。
壁の間を風が通り、どこかで金属が小さく鳴った。
蛇森は、ふと時計を見た。
亀山は今、どの辺りを走っているだろう。
会場では、何か起きていないか。
「大会の方も、何もなければいいけどな」
言葉が漏れた。
銀狼の耳が動く。
「今は、お姉さんを見つけましょう」
蛇森は顔を上げた。
「向こうには、亀山さんと獅子音がいます。必要なら、連絡が来ます」
「……そうだな。すまん」
銀狼が、少しだけ振り返った。
「心配なのは、分かります」
蛇森は、その横顔を見た。
銀狼も獅子音を残して、ここへ来ている。
それなのに、迷う様子を見せず、友香の匂いを追っていた。
銀狼が、ふっと笑った。
「あんた、可愛いな」
「……は?」
「まあ、獅子音の可愛さには、到底及ばないけど」
蛇森は足を止めかけた。
流兎も、銀狼の顔を見た。
銀狼は二人の反応を気にせず、前を向いた。
「こっちです」
蛇森は口を閉じ、後を追った。
*
路地を抜けると、雑草の茂った空き地へ出た。
奥に、古い建物が立っていた。
窓は汚れ、外壁の一部が剥がれている。入口の上には看板があったが、色褪せて文字は読めなかった。
「工場の跡か?」
蛇森が尋ねた。
「何の建物かは、分かりません」
銀狼は草の間を進んだ。
左右へ倒れた草が、細い道を作っている。
最近、誰かが通った跡だった。
入口の前で、銀狼が止まった。
「お姉さんの匂いは、この中へ続いています」
流兎が前へ出た。
金属の扉へ手を掛け、引く。
扉は少し動いたが、途中で止まった。
「待て。俺らも手伝う」
蛇森が隣へ立った。
銀狼も反対側へ回る。
三人で力を掛けると、錆びた蝶番がきしんだ。
もう一度、引く。
重い扉が、音を立てて開いた。
中から、こもった空気が流れ出した。
蛇森は流兎を手で制し、先に入った。
広い部屋だった。
大きなテーブルが何台か置かれ、その周りに椅子が散らばっている。倒れた物も、脚の折れた物もあった。
何かの店だったように見えた。
床には埃が積もっていたが、入口から奥へ、乱れた跡が続いている。
蛇森は目を凝らした。
窓が少なく、部屋の奥は暗かった。
友香の姿は、見えない。
後ろから入った銀狼が、顔を上げた。
「あそこに、階段があります」
壁際の暗がりに、上へ続く階段があった。
流兎が進みかける。
蛇森は、その腕へ手を添えた。
「俺が先に行く。すぐ後ろについてこい」
流兎は蛇森を見て、頷いた。
銀狼が後ろへ回る。
三人は、物音を立てないように階段へ近づいた。




