第十六章 大会の朝
第十六章 大会の朝
大会まで数日、蛇森は友香と流兎へ連絡を入れ、必要な物を社員寮へ届けた。
二人の暮らしは落ち着いていた。
流兎の解雇については、亀山家が会社側への調査を続けている。友香も狸野亭を辞めず、店が再開できる日を待つことになった。
四方への虚偽報告についても、少しずつ情報が集まっていた。
金を受け取って報告を送った者が、ほかにも見つかった。誰から頼まれたのか、どう連絡を取っていたのか。弟から届く報告を、亀山は一つずつ確かめていた。
その一方で、兎月との連絡は、大会の三日前から途絶えた。
蛇森が送ったメッセージには既読がつく。
返事は、来なかった。
*
大会当日の朝、街は早くから賑わっていた。
城へ続く通りには人が行き交い、広場の屋台では仕込みが始まっている。遠くから、売り子の声まで聞こえた。
亀山は事務所のソファに座っていた。
いつものスーツではなく、ジャージを着ている。
蛇森はその姿を見て、笑わないように口元へ力を入れた。
「……何か言いたそうですね」
亀山が、目だけを向けた。
「いや。似合ってるよ」
「そうですか」
「すげぇ、運動したくなさそうで」
亀山は顔を背けた。
蛇森は携帯を確かめた。
兎月からの返事は、今朝もなかった。
「結局、あいつから連絡が来ないままだな」
「兎月さんですか?」
「ああ。ここ三日、全部、既読だけ」
亀山が顔を戻した。
「三日も?」
「美琴さんの件も、その後に分かったことも送った。読んではいるみたいなんだけどな」
亀山が手を差し出した。
蛇森は携帯を渡す。
「友香さんへは?」
「大会が終わるまで連絡しない、って来たのが最後だそうだ。忙しいのか、走る練習でもしてるのかと思ってたけど」
亀山は画面を読んでいた。
指でやり取りを遡り、もう一度、直近のメッセージへ戻る。
それから、立ち上がった。
「会場へ行きましょう」
「まだ少し早いぞ」
「今、行きたいんです」
蛇森は携帯を受け取った。
亀山の声から、不貞腐れた調子が消えていた。
「……分かった」
二人は事務所を出た。
*
城の前に広がる公園は、朝から多くの民で埋まっていた。
走者が出発し、戻ってくる広場の周りには、屋台が並んでいる。子供が親の手を引き、焼き菓子や串焼きの店を覗いていた。
「国中から集まってるんじゃねぇか」
蛇森は人の間をすり抜けながら言った。
「ええ。皆さん、楽しみにしていたのでしょうね」
亀山は辺りを見渡した。
「出場者の控室は、あちらです」
広場の端にある建物を指した。
中へ入ると、すでに何人か集まっていた。
獅子音と銀狼もいる。
蛇森が声を掛けようとした時、別の方から呼ぶ声がした。
「兄さん」
亀山によく似た若い男が、こちらへ来た。
片足をかばうように歩いている。
「来ていたのですね」
亀山が、その足元を見た。
「痛みは、どうですか?」
「だいぶ引きました。走れませんけど、歩くくらいなら」
弟は答え、それから蛇森へ頭を下げた。
「兄がお世話になっています」
「こちらこそ。そっちは、少し休めたのか?」
「この三日ほどは。新しい報告が、急に減ったので」
蛇森は亀山を見た。
亀山も、弟の顔を見ていた。
「止まったのですか?」
「ええ。ほかの四方も同じだそうです」
弟は声を落とした。
「それと、給水所に入るはずだった職員が、今朝、何人か交代しています。体調不良と聞きましたが、全員が兎束から出ている人員へ替わっていて……」
「大会の係員も、兎束が?」
「祭りの運営を受け持つので、人を出すこと自体は不自然ではありません。ただ、今朝になってまとめて交代したので、確認させています」
蛇森は、携帯の入ったポケットへ手をやった。
三日前に途絶えた兎月の連絡。
同じ頃に止まった虚偽報告。
亀山が、蛇森へ向き直った。
「友香さんのところへ、行ってください」
「今?」
「ええ。何もなければ、それでいい。僕から連絡するまで、そばにいてほしいんです」
蛇森は、亀山の顔を見た。
理由を全部聞いている時間は、なさそうだった。
「分かった」
出口へ向かいかけ、振り返る。
「お前も、何かあったらすぐ連絡しろよ」
「お願いします」
蛇森は建物を出た。
祭りへ向かう人の流れに逆らい、社員寮へ急いだ。
*
蛇森が出ていくと、獅子音が近づいてきた。
「何かあった?」
「まだ、分かりません。ですが、友香さんが心配で」
亀山は、後ろに控える銀狼を見た。
「銀狼さんを、お借りしてもよろしいですか。蛇森と合流していただきたい」
獅子音は、すぐに銀狼へ顔を向けた。
「行ってくれる?」
「承知しました」
銀狼が答えた。
亀山は社員寮の場所を伝え、蛇森へ短いメッセージを送った。
「詳しいことは、蛇森から聞いてください。お手数を掛けます」
銀狼は頷き、控室を出ていった。
獅子音が、その背を見送る。
「君が二人を向かわせるなら、そうした方がいいんだろうね」
「ありがとうございます」
「私にできることは?」
「少し、考える時間をください」
亀山は携帯を握り直した。
「分かっていることを整理しないと、間違った方へ進みそうで」
「うん。何かあれば、言って」
獅子音は、それ以上尋ねなかった。
扉が開いた。
兎束源兎と喜美子が入ってくる。
その間に、兎月がいた。
亀山は、目を奪われた。
兎月の顔が白い。
まぶたが重そうに下がり、口元は力なく開いていた。足を運ぶたび、身体が左右へ揺れる。
喜美子が、息子の口元をハンカチで拭った。
亀山の隣で、獅子音が声を落とした。
「……あんな顔だった?」
「いいえ」
亀山は答えた。
事務所で向かい合った兎月は、落ち着かないほどよく喋り、友香の話になると顔を明るくした。
目の前の青年は、周囲をぼんやり眺めていた。
「兎月。背筋を伸ばせ」
源兎が言った。
「少し体調が悪いくらいで、そんな顔をするな。お前なら勝てる」
兎月は返事をしなかった。
それでも、源兎は答えを待たず、奥の席へ歩いていく。
兎月の視線が、亀山で止まった。
ふらりと、こちらへ近づいてきた。
「兎月さん」
亀山が声を掛ける。
兎月の唇が動いた。
何か言おうとしている。
喜美子が後ろから腕へ手を掛けた。
「兎月。お父さんのところへ行きましょう」
その時、別の扉から係員が入ってきた。
「皆様、空いているお席へお掛けください。大会の説明を始めます」
喜美子が、兎月を席へ連れていく。
兎月は一度、振り返った。
その目が、亀山を捉えた。
一瞬だけ、何かを訴えるように見えた。
亀山は、弟へ目を向けた。
弟も兎月を見ていた。
*
「では、本日のコースについて――」
係員が説明を始めたところで、源兎が口を挟んだ。
「一つ、聞きたい」
亀山を指す。
「当主か次期当主が出る大会に、何故、家を出た者が混じっている?」
係員は、手元の書類を確かめた。
「亀山家からは、次期当主様が怪我をされたため、ご長男の一亀様が代理で出場されます。龍王様の許可もいただいています」
「なるほど。長男か」
源兎が笑った。
「勝ち目がないから、足の速い種族でも連れてきたのかと思ったよ」
獅子音が身体を動かした。
亀山は横から、その袖に触れた。
獅子音がこちらを見る。
亀山は、小さく首を振った。
「まあ、せいぜい頑張ってくれ。君が戻らなければ、大会も終わらんのだからな」
源兎の言葉に、亀山は顔を上げた。
「なるべく早く戻れるよう、努めます」
それだけ答え、係員へ続きを促した。
コースは、城前の広場から国の中央にある丘へ向かい、頂上で折り返す。
片道二十キロ。往復四十キロ。
亀山は説明を聞きながら、自分の足元を見た。
まだ一歩も走っていないのに、気が遠くなりそうだった。
係員が説明を終えると、四人は広場へ案内された。
獅子音の隣には、羊山明が並んでいた。
衣の四方を担う彼女は、軽く足首を回してから、コースへ目を向けた。
兎月は、少し遅れて来た。
喜美子が係員へ何かを伝え、ようやく息子の腕を離す。
亀山は兎月の隣へ立った。
「僕たちも、そばを走ります」
声を落として言った。
兎月の目が、わずかに動いた。
聞こえたのかどうか、分からなかった。
出場者の名が、一人ずつ読み上げられる。
民の歓声が広場を包んだ。
亀山は優待席へ目を向けた。
父の万亀雄が座っている。
その隣には、弟。
中央には、龍王がいた。
龍王は頬杖をつき、四人を見ていた。
「位置について!」
亀山は、前を向いた。
「スタート!」
合図とともに、花火が上がった。
明が先に走り出す。
獅子音が続き、亀山も足を動かした。
すぐ後ろから、兎月の不揃いな足音が聞こえた。




