第十四章 ひつじぱんの看板娘
第十四章 ひつじぱんの看板娘
狸野亭の前には、道子が立っていた。
二人を見つけると、慌てた様子で手招きする。
「来てくれたんねぇ。中で待っとるよぉ」
「お待たせしました。調査の方が、もういらしているのですか?」
「ええ。まさか、こんなに早く分かるとはねぇ……」
道子の表情が、どこか硬かった。
蛇森は亀山に続き、店の奥へ入った。
居間のちゃぶ台に、三人が座っていた。
一人は、銀色の長い髪を後ろで束ねた男だった。黒いスーツを着て、金色の目でこちらを見ている。
その前には、豊かな髪と顎髭を持つ、大柄な男。
そして、その隣には、見覚えのある巻き毛の女性がいた。
蛇森は足を止めた。
羊塚美琴だった。
ひつじぱんの紙袋を持って、事務所へ来ていた顔が浮かぶ。
「彼らを呼んだのは私だ。警戒しなくていい」
大柄な男が、銀髪の男へ言った。
それから、亀山たちへ手を向ける。
「こちらへ」
蛇森は動けずにいた。
後ろから道子に背中を軽く押され、ようやく足を進める。
「ご無沙汰しています。獅子音さんが、直々にいらしたとは」
亀山が挨拶をした。
食の四方の当主、獅子音が頷く。
「まず、主人に詫びなければならないと思ってね」
蛇森も亀山の隣へ座った。
美琴は俯いていた。
ちゃぶ台の下で、両手を握り合わせている。
道子が最後に腰を下ろすと、座敷から武雄が声を掛けた。
「獅子音さん。自分で来てくれたんじゃねぇ。ありがとうなぁ。こんな格好で、申し訳ないけど」
「そのままでいてください」
獅子音は身体を武雄へ向けた。
「朝、報告を受けた時に、こちらへ来る者を出さなかった。そのことは、言い訳できません。申し訳ありませんでした」
頭を下げる。
後ろの銀髪の男も、それに倣った。
「証拠を残そうとして、腰を痛められたと聞きました。店を休む間の補償についても、こちらで対応します」
「わしは、友香がまた笑ってくれたら、それでええんじゃ」
武雄が答えた。
「まあ、腰が治るまでは、店も開けられんけどなぁ」
「ご夫妻の暮らしに支障が出ないよう、お願いしたいですね」
亀山が、横から言った。
蛇森はちらりとその顔を見た。
口調は丁寧だったが、念を押していることは分かった。
獅子音は、困ったように笑った。
「分かっているよ、亀山。責任を持つ。それで、話を進めてもいいかな」
「お願いします」
獅子音は姿勢を正した。
「狸野亭の壁に落書きをしたのは、ここにいる羊塚美琴さんです」
蛇森は、美琴を見た。
本人は、顔を上げなかった。
「昨夜から今朝までの防犯カメラを確認しました。この周辺を通った者の足取りを追い、店の前でしばらく止まった後、来た道を戻る姿を見つけた」
獅子音が続ける。
「本人に確認したところ、落書きをしたと認めました。それで、こちらへ同行してもらいました」
蛇森は、膝に置いた手を握った。
美琴も、この店で働く友香を知っていたのか。
何故、そんなことをしたのか。
「美琴さん」
亀山が呼んだ。
美琴の肩が、わずかに動く。
「壁に、あのような言葉を書くまでに、何があったのですか。話していただけますか」
美琴が顔を上げた。
「あの人は、悪い女なんです」
蛇森は眉を寄せた。
「美人局をして、夜ごと男を探して歩いているって。今度は、兎束さんの息子さんを騙しているんです」
「誰から聞きましたか?」
「兎束の奥様です」
亀山は、黙って続きを待った。
「息子さんは全然気づかなくて、困っているって。昼間はお弁当屋さんで真面目に働いているふりをしているけど、週に三、四日しか働いていないって」
美琴の声が強くなった。
「男の人は、ああいう女の裏の顔には気づかないって、おっしゃっていました。あんな女、この街からいなくなればいいって」
蛇森は、亀山を見た。
亀山の表情は変わらなかった。
「それを聞いて、落書きをしたのですか?」
「初めは、話を聞いていただけです。奥様が息子さんへ言って、目を覚まさせてあげればいいと思っていました。でも……」
美琴は、亀山を見た。
「私、見たんです」
「何をでしょう」
「夜、パンを配達した帰りに。あの人が、男の人二人の間で、笑っているところを」
蛇森は顔を上げた。
「真っ赤な口紅をして、すごく楽しそうに……。亀山さんと蛇森さん、あなた方です」
クラブからの帰り道だった。
三人で友香のアパートへ向かった夜。
あの時、美琴に見られていた。
「お二人まで騙されていると思って、怖くなりました。このままでは、また被害に遭う人が出るって」
「それで、奥様へ相談したのですね」
亀山が尋ねる。
美琴が頷いた。
「お店の人にも、彼女がどんな女なのか分かってもらう必要があると言われました。話すだけでは信じてもらえないから、店に迷惑が掛かると分からせないといけないって」
蛇森は、壁に残っていた文字を思い出した。
「営業できなくなれば、彼女を辞めさせると思いました。ほかのお店も雇わなくなれば、ここにはいられなくなるでしょう」
美琴は道子と、座敷の武雄を見た。
「怪我をされたことは、申し訳ありません。でも、私は、あなた方を助けたくて……」
「美琴さん」
獅子音が呼んだ。
「あなたが書いた言葉で、この店は営業できなくなった。主人は怪我をし、友香さんも傷ついた。そこは、分かっていますか?」
「だから、それは、あの女が――」
「友香さんが、あなたから聞いたようなことをしていた事実は、確認されていません」
亀山が言った。
美琴は目を見開いた。
「そんな。亀山さんまで、信じているんですか? あの女は、あなた方を――」
「おだまりなさい!」
道子の声が、部屋に響いた。
蛇森も、思わず背筋を伸ばした。
美琴は口を開いたまま、動きを止めた。
道子は一度息を吐き、いつもの声へ戻した。
「ごめんなぁ。でも、これ以上、同じことを言い続けるんは、あんたのためにもならんと思うてねぇ」
美琴を見つめる。
「少し、わしと話してくれんかねぇ」
美琴は、ゆっくり頷いた。
*
「最初に、これだけは言うとくよぉ。友香ちゃんは、あんたが聞いたようなことは、しとらんでねぇ」
道子が言った。
「詳しい事情は、ここでは話さんよ。あの子の話じゃから、わしが勝手に話すわけにはいかん」
美琴は、ちゃぶ台を見ていた。
「それから、うちは小さい弁当屋でなぁ。毎日来てもらうほど、賃金を出せんのじゃ。週に三、四日でお願いしとるんよ」
蛇森は道子を見た。
友香が短い時間しか働けない事情を、道子は知っている。
それでも、ここでは店の都合だと言った。
「友香ちゃんは、来た日は一生懸命働いてくれる。それが、わしらの知っとるあの子じゃ」
美琴の唇が、わずかに動いた。
「……そうなんですか」
「人には、外から見ただけでは分からんことがあるでねぇ」
道子は、声を急がせなかった。
「笑っとるから、悩みがないとは限らんよ」
蛇森は、クラブで涙を流した友香を思い出した。
帰り道では笑っていた。
その二つは、同じ夜のことだった。
「美琴さん。あんたは、お二人を助けたいと思うたんよねぇ」
道子が尋ねた。
美琴が頷く。
「でも、楽しそうに歩く三人を見た時、ほかには、どんな気持ちがした?」
美琴は答えなかった。
目が、亀山の方へ動いた。
すぐに俯く。
蛇森は、その視線を見た。
「……分からなくても、ええよぉ」
道子が言った。
「ただ、あの子がおらんようになったら、自分は何が嬉しいんじゃろう。それは、考えてみてもええんじゃないかねぇ」
美琴の目から、涙が落ちた。
膝の上で握っていた手を、さらに強く握る。
「私……」
その先は、声にならなかった。
道子は席を移り、美琴の隣へ座った。
「誰かのいる場所に、自分も立ちたいと思うことはあるよぉ。わしも若い頃には、あった」
美琴の肩が震えた。
「でも、その人を引きずり下ろしても、同じ場所へ立てるとは限らんでなぁ」
蛇森は、亀山の横顔を見た。
亀山は黙って聞いていた。
「今、全部分からんでもええ。いつかまた、同じ気持ちになった時に、今日のことを思い出してくれたら」
道子が、美琴の背中へ手を置いた。
「あんたは、あんたでええんよ。ほかの誰かにならんでも、あんたができることはある。それを、あんたまで諦めんでなぁ」
美琴は両手で顔を覆った。
しばらく、泣く声だけが聞こえた。
やがて、途切れ途切れに言葉が出た。
「おじさん……おばさん……ごめんなさい」
道子の手が、背中をさすった。
「お店に……あんなことをして……。怪我も……ごめんなさい」
武雄が、座敷から美琴を見ていた。
道子は夫へ顔を向けた。
「お父ちゃん。わしは、この子の謝罪を受けたいと思うんじゃけど」
武雄が頷く。
「母ちゃんに任せる言うたじゃろう。わしも、それでええよぉ」
それから、少し照れたように笑った。
「……母ちゃんに、惚れ直したわ」
「後で、湿布を多めに貼ったるでねぇ」
道子も笑った。
美琴は顔を覆ったまま、何度も頭を下げていた。
道子が獅子音を見た。
「うちへのことは、これで終いにしたいんよ。もちろん、あの子のことまで、わしらが決めるわけにはいかんけどねぇ」
獅子音は頷いた。
「友香さんにも、調査で分かったことを伝えます。その上で、どうしたいか伺いましょう」
「お願いします」
亀山が言った。
獅子音は、美琴へ向き直った。
「あなたには、奥様から聞いたことや、昨夜の行動を詳しく話してもらいます。」
美琴が、赤くなった目で頷いた。
「……はい」
「ご夫妻が謝罪を受け入れたことを、忘れないでください」
美琴は、もう一度二人へ頭を下げた。
*
聞き取りを終え、美琴が帰る時、蛇森も店先へ出た。
亀山が、その後ろから歩いてくる。
「美琴さん」
呼び止められた美琴が、振り返った。
亀山は少し視線を外し、言った。
「蛇森と友香さんの関係を疑ったようですが……彼は、友香さんに恋愛の気持ちはないと言って、本人を怒らせています」
蛇森は目を閉じた。
何故、今、それを話すのか。
「君には関係のないことかもしれませんが、誤解は解いておいた方がよいと思いまして」
美琴は、亀山を見ていた。
「あの……亀山さんは?」
「僕ですか?」
「その、友香さんのことを……」
亀山は首を傾げた。
「強い方だと思います。ですが、恋愛の気持ちとは別ですよ」
美琴は小さく頷いた。
少しだけ表情が緩んだのを、蛇森は見た。
「……ありがとうございました。それから、本当に、すみませんでした」
深く頭を下げ、美琴は帰っていった。
その姿が通りの向こうへ消えるまで、亀山は見送っていた。
「……お前さ」
蛇森が言った。
「何でしょう」
亀山が振り向く。
蛇森は、その顔を見てから、首を振った。
「いや。何でもない」
言ったところで、まだ分からないのだろう。
今夜の美琴の視線も。
自分が毎朝、パンを買ってここへ来る理由も。
亀山は不思議そうな顔をしたまま、店の中へ戻っていった。




