短編(8) 山田家 真理子の孤立と変貌
本編『天国の嘘』第五章の裏、サクラの親友・エミリの家庭(山田夫妻)をじわじわと侵食していく、狂気と忘却。その(3)
ダイニングテーブルに置かれたタブレットの画面に呼び出した夫は、今日も虚ろな目をしている。 以前は晩ごはんの時だけ夫を呼び出していたが、ダイニングテーブルに腰掛ける動作の一部として、習慣的に呼び出すようになった。
移行して随分と経つというのに、まともな会話が一つとして成立せず、時折スピーカーから聞き飽きたセリフが断片的に流れるだけだ。動かないアバターは、まるで気味の悪い遺影のように真理子の心をじっとりと冷やしていく。
そもそも、夫だけが先にヘブンへ行ったのはイレギュラーな事態だった。
数年前、ギークを自称する夫が家族の反対を押し切って購入した伊豆スマートシティの住宅が、直後に火山性ガスの影響で立ち入り禁止区域に指定された。その補償として、政府から優先的なヘブン移行の権利と、多額のヘブンコインが与えられたのだ。
真理子の同年代の友人・知人たちは、何の疑問も持たず、夫婦揃ってヘブンへ移住していくか、移行日を心待ちにしている。真理子は彼女たちに「ヘブンはおかしい。夫と全く会話が成立しない」と不安を打ち明けた。だが、返ってくるのは冷たい反応ばかりだ。
「政府が言うことに間違いなんてないわよ。少し繋がりにくいだけでしょ?」
仲の良かった隣の田中さんは冷たく言い放つ。それどころか、補償で多めにヘブンコインを貰った夫に対するやっかみすら混じっていた。
「お宅の旦那さん、ヘブンコインでしたっけ? 補償で貰ったお金がいっぱいあるのでしょう? だったら、自分も若い格好をして女の子達と遊んでいるのよ。会話ウインドウだって適当な画像を貼り付けて誤魔化しているんじゃないの?」
誰も真理子の言うことに耳を貸さない。
藁にもすがる思いで処置センターへ足を運んでも「お宅のネットワークの不調です」と突き放され、マンション管理会社に訴えれば「こちらからは問題があるとは思えません。使い方を理解されていないのではないでしょうか」と、時代の変化についていけない厄介な老害クレーマーとして冷遇された。
真理子は、自分が社会から完全に孤立してしまったことを悟った。 ヘブンがおかしいと訴えても、誰も信じてくれない。SNSへ投稿しても、誰も見向きもしない。狂っているのは自分の方なのだと、真綿で首を絞められるように社会全体から排除されていく。
疲れ果てて帰宅したリビング。静けさに居た堪れなくなってテレビのリモコンを押す。ちょうどお昼のニュース番組が流れていた。
『当初はヘブン構想に対し強い懸念を示していたWHO事務局長ですが、本日の会見で一転し、革新的な医療的アプローチとして一定の理解を示しました。また主要な宗教団体も、新たな救済の形であると事実上容認する発言を――』
友人・知人たちだけでなく、世界的な権威を持つ偉い人たちでさえも、皆狂ってしまったのだろうか。
真理子はたまらずテレビの電源を切り、テーブルの端に置いた郵便受けから持ち帰った封書に目を落とした。自治体から届いた『ヘブン移行 ご予約に関するご案内』だ。
震える手で封を開けた。中には薄い一枚の紙が入っているだけだった。紙に目を通すとそこには、予約サイトを案内するホームページのアドレスと、QRコードが示されていた。その下には「本人認証にはマイナンバーカードが必要です」とだけ記載されている。
(アクセスした途端に『予約完了』なんてことにならないかしら……)
そんな行政のシステムに対する不信感と不安を覚えつつも、スマホでQRコードを読み取り、予約サイトへアクセスした。マイナンバーカードで本人認証した後で表示される画面が「予約完了」では無かったことに、ひとまず安堵した。
そのサイトには、ヘブン移行のガイダンスが大量に書かれていた。図解でわかり易く記載されているものの、「リアル世界とのつながり」の項は嘘だらけの綺麗事で埋め尽くされていた。所々に配置された「今すぐ予約」のリンクが余計に腹立たしく思えた。
しかし、サイトの最下部に小さく記された【移行を辞退される場合について】という説明文が、真理子の目を釘付けにした。
・本移行を辞退される場合、現行の社会保障制度の対象外となります。
・次年度以降の年金受給の段階的縮小と、四年後の完全停止。
・健康保険制度の適用除外(医療費・介護費の全額自己負担)。
※以降の生活につきましては、完全な『自助』となりますことをご承知おきください。
真理子は全身の力が抜けるようにその場に崩れ落ちた。
世界から反対の声が消え去り、国は冷酷なルールで孤立した一般市民を追い詰めてくる。ヘブンという不気味な箱に入るか、このリアル世界で誰の助けも得られずに野垂れ死ぬか。
テレビをつければ、どのチャンネルも同じニュースと話題で持ちきりだった。
『気象庁は本日、今年も大規模なエルニーニョ現象が発生し、世界的な異常気象と深刻な不作が長引くとの見解を発表しました。これに伴い、家畜の飼料不足も深刻化しており――』
『――そうした中、連日激しさを増しているのが動物愛護団体によるデモです。彼らは「完全総合栄養食という代替品があるのに、これ以上無駄に家畜を殺すな!」と主張しており、ネット上でも大きな賛同を集めています』
画面の中では、環境保護を訴えるプラカードを掲げた若者たちや、ヘブンのインフルエンサーたちが、銀色のパッケージに包まれた栄養バーを笑顔で齧って見せている。
異常気象による食糧不安と、「動物を食べるのは野蛮だ」という作られた正義感。政府の息のかかった広告代理店は、それらを巧みに利用し、この得体の知れない栄養バーがいかにバランスの取れた完全食であり、健康的に理想のボディを手に入れられるかを連日宣伝し続けた。
結果として、コンビニやドラッグストアの前には早朝から長蛇の列ができる異常事態となり、フリマサイトでは定価の数倍に跳ね上がった栄養バーが転売ヤーによって大量に出品された。それが『社会問題』としてさらに人々の飢餓感を煽り立てる。絵に描いたようなステルスマーケティングと品薄商法。だが、狂騒に踊らされる大衆は、誰もその異様さに気づかない。
そして、事態は政府のシナリオ通りに次の段階を迎えた。
『栄養バーの高額転売や品薄状態を受け、行政は国民の健康を守るための救済措置として、専用の行政注文サイトの開設を決定しました』
それは単なる一律の配給ではなかった。マイナンバーでサイトにログインし、自身の性別、年齢、体重、生活活動レベルなどを入力すれば、数あるバリエーションの中から『その人に最適な栄養素とカロリーが計算された栄養バー』が選択され、定期便で届くという、画期的なシステムだった。
だが、その真の目的は『ヘブン移行のターゲット層の精密なプロファイリング』だ。高齢者や中年層など、政府が狙い撃ちにしたい年齢層に合わせて、最適な配合の向精神薬を確実に摂取させるための悪魔のスキームである。
社会から孤立し、心身ともに疲れ果てていた真理子もまた、その甘い罠から逃れることはできなかった。
「お母さん、私もこれ注文して! 友達みんな自分専用のやつ食べてるんだよ!」
娘の絵美里にせがまれた真理子は、半ば自暴自棄な思いで行政サイトを開き、自分と娘のパーソナルデータを入力して『注文』のボタンを押した。
それから、一ヶ月が過ぎた。ダイニングテーブルに座る真理子の顔から、かつての険しい疲労と恐怖の色はすっかり抜け落ちていた。代わりに浮かんでいるのは、何の不安も無い穏やかな笑顔だ。
「本当に美味しいわね。なんだか、今まで悩んでいたのがバカみたい」
真理子は自分専用にカスタマイズされた銀色のパッケージを開け、栄養バーを齧る。
かつて日本サイバトロニクスの研究所で研究員たちを狂わせた『笹山御膳』の洗脳スキーム。バーに混入された微量の向精神薬は、毎日三食継続して摂取させることで、ゆっくりと確実に真理子の脳に蓄積し、その思考力を削り取っていた。
自分から進んで注文し、地球環境と健康のためにと食べ続けた結果、彼女は抗う気力を持たない従順な羊へと完全に作り変えられてしまったのだ。
彼女は栄養バーを貪りながら、テーブルに置かれたタブレットに目を向けた。そこには、相変わらず最適化が終わらず、遺影のように動かない夫、孝之のアバターが映っている。だが、今の真理子にその不気味さはもう感じない。
「オトウサン、待っててね。私もすぐヘブンへ行くから」
真理子は口元に食べカスをつけたまま、穏やかな笑顔でスマホを取り出し、かつてあれほど恐怖した自治体のヘブン移行予約サイトを開いた。そして、『今すぐ予約』のボタンを、何の躊躇いもなくタップした。
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ぜひ本編『天国の嘘』、スピンオフもよろしくお願いします。




