短編(6) 山田家 オトウサン
本編『天国の嘘』第五章の少し前、サクラの親友・エミリの家庭(山田夫妻)をじわじわと侵食していく、狂気と忘却。その(1)
「財産分与って、本当にする必要あるのかしら」
妻の山田真理子は、食卓で温いお茶をすすりながら、自治体から夫の孝之宛てに送られてきた分厚い冊子を広げていた。
表紙に『ヘブン移行ガイド』と堅苦しい文字で印字された真新しいページをめくり、「所持金のデジタル変換と移行手続き」という小難しそうな説明文を眺めては、あからさまに首を傾げている。
「どれどれ……。『夫婦が別々でヘブンに移行する場合は、事前調整として財産分与した方がよい』とは書いているな」
向かいの席に座る孝之は、妻の手元にあるガイドブックへと身を乗り出した。鼻眼鏡にした老眼鏡をずり下げ、眉間に深いシワを寄せて細目で小さな文字にピントを合わせようとしている。
「ヘブンでは衣食住にお金が掛からないし、最低限の生活ポイントは政府が補填してくれているって話じゃないの。だったら、わざわざ財産分与してまで向こうに資金を持っていく必要は無いと思うのだけど?」
「そりゃお前……いくら基本無料とはいえ、ワシがヘブンで自由に使うお金は、ある程度持って行きたいだろうが」
「使うって言われても、向こうで贅沢さえしなければ必要ないでしょ。こっち(現実世界)では、家の修繕だの私の老後の備えだの、まだまだ入り用なのよ。だから、少しでも多めに残してくれたって……」
「そりゃお前、向こうには向こうの付き合いや、体裁というものがだな……」
もごもごと口籠る孝之の、まるで玩具をねだる子供のような言い分を聞き届けると、真理子はふう、と短くため息をついた。
食卓の上に置かれた自分のコップを手に取って静かに立ち上がると、キッチンのシンクの中へカチャンと乾いた音を立てて置く。
「はいはい、どうぞお好きに。いつだってオトウサンは私の言うことなんて聞かないんだから」
「いや、だからワシはただ移行後の備えをだな……」
背中越しに聞こえるしどろもどろな言い訳を背に、真理子は水道の蛇口を捻りながら呆れ顔で目を伏せた。
真理子はとうに知っているのだ。孝之が最近、夜な夜な自室のタブレットで『ヘブンアバター・最新お洒落カスタマイズ』や『重課金で差がつく! 若返りスキン特集』などの動画を熱心に閲覧していることを。
現実世界の貴重な財産をデジタル通貨に変換し、課金に物を言わせて若々しくて格好の良いアバターを手に入れるつもりなのだという、その見栄っ張りで底の浅い企みを。
「数年前だって終の棲家だとか老後の暮らしに良いからって伊豆に家なんて買って。その挙げ句、立ち入り禁止区域にされちゃったんだから無駄遣いだったじゃない。お陰様で財産分与したって全然残りませんけれど」
「そりゃお前……」
痛いところを突かれた孝之は、バツが悪そうに視線を逸らした。
ギークを自称する彼が、政府肝いりの「伊豆スマートシティ」の一般公募に家族の反対を押し切って応募し、あろうことか最新設備の豪邸を引き当てて浮かれていたのは数年前のことだ。
しかし、いざ完成して引き渡しという矢先、大室山周辺で突如として火山性ガスが発生したとかで、伊豆一帯が立ち入り禁止区域に指定されてしまった。
結局、全くの無駄遣いという現実だけが残り、家族から非難轟々で針のむしろ状態となった孝之に、家庭内での居場所は無かった。
そんな彼に政府が『補償』として差し出したのが、優先的なヘブン移行の権利と、購入額の一部を換算したヘブンコインだった。顔を見れば小言を言う妻や娘から逃れたかった孝之にとって、それはまさに渡りに船だった。彼は現実の家族よりも、仮想現実という名の逃げ場へ望みを繋ぐことを、迷わず選んだのだ。
「その上、オトウサンの方が先にヘブン行きが決まっちゃって。残される身としては、愚痴の一つだって言いたくなりますよ。向こうへ行っても、ちゃんとこまめに連絡を寄越してくださいね。ご近所さんの話だと……」
シンクの汚れをスポンジで擦りながら、真理子はポツリとこぼした。
先行してヘブンへ移住した者たちは、次第に現実世界への興味を失うのか、家族への連絡が徐々に減っていくのだという。やがてこちらからアクセスしないと全く音沙汰無しになるケースも珍しくない。
今はもう解散してしまった『スマートシティ被害者の会』の集まりで知り合った同年代の奥さんは、「手のかかる亭主がいなくなって、むしろ清々してるわ」と強がり交じりの嫌味をこぼしていたが、真理子としてはやはり一抹の寂しさと不安がある。
ふう、と息を吐き、真理子は濡れた手をタオルで拭いて振り返った。
そして、食卓に座る夫をジロリと見据える。
「私が後から向こうへ行って再会した時、お互い気まずい思いをするのは御免ですからね。どうせ、中身は私と同じおばあちゃんでも、課金して見た目だけ若返ったピチピチの女の子たちをはべらしてるんじゃないでしょうね?」
「お、お前、なんで急にそんなことを……!」
図星を突かれたのか、孝之は手に持っていた分厚い移行ガイドをバサリと落とし、慌てて視線を泳がせた。
巷の噂では、ヘブンのシステムは課金すればするほどアバターの容姿を自在にカスタマイズできるらしい。そのため、少しでも理想の自分(あるいは若い頃の自分)で第二の人生を謳歌しようと、移住予定者はこぞって現実の財産を『ヘブンコイン』に換金しているのだ。
結果として、ヘブン移住前の年老いた姿からは想像もつかないような、非現実的なまでに若く美しい容姿へと変貌してしまう者が後を絶たないという。
長年連れ添った夫婦の面影すら消え失せ、見た目も年齢も性別すらもカオスに入り乱れた世界。そうなってしまえば、目の前にいる美少女が自分の夫であると特定する手段は、頭上に浮かぶユーザーIDの文字列だけなのだ。
それから幾日か過ぎた。
孝之が『ヘブン処置センター』での日帰り手術を終え、首の後ろに生々しい医療用の保護テープを貼って帰宅した。
「ほら、ここだ。まだ局所麻酔が効いていて感覚はないね」
孝之は少し首を曲げ、うなじの皮膚の下に埋め込まれたチップの膨らみを妻に見せた。
「あら、こんな小さなチップで人の記憶が全部蓄積できるのかしら。……まあ、オトウサンは昔から大事なことも都合よく忘れるのだから、このサイズでも十分に容量は足りるのでしょうけど」
真理子が呆れたようにため息をつくと、孝之はむっとしたように振り返った。
「お前なあ……。処置センターの先生が言うには、『本人が思い出せない記憶も欠損なく移行できる』システムらしいからな。ヘブンに行けば、ワシだって大事なことをバッチリ思い出すだろうよ」
「あらそうですか。これから物忘れが進むかと心配でしたけど、ちょうど良かったですね」
妻がチクリと皮肉を刺すが、自身の体をサイボーグ化したかのように浮かれている孝之には全く響いていない。孝之は病院から渡された分厚い同意書とマニュアルの束をバサバサとめくりながら、テクノロジー好きのギーク特有の早口と得意げな顔で解説を続けた。
「なんでも、これからの移行準備期間中、睡眠中にこのチップが脳内をスキャンして、無意識の奥深くに仕舞い込んだ記憶まで余さず拾い上げて、データとして蓄積してくれるんだそうだ」
「へえ、それは凄いわね。じゃあ、結婚当初に私に借金して、今の今までうやむやにして返してくれていないこととか、そういう都合の悪いこともちゃんと思い出していただけるのかしら?」
「うっ……!」
急所を突かれた孝之は、喉の奥でカエルのような声を漏らして硬直した。真理子は目を細め、逃げ場を塞ぐように夫をジト目で睨み据える。
「だ、だから、そういう弊害の……過去のトラウマを和らげる『回避用の薬』も、ちゃんと希望すれば処方されるんだよ!」
「弊害って何よ、弊害って! 妻への借金を思い出すことが弊害だっていうの!?」
真理子の声のトーンが一段上がった。孝之は「いや、そういう意味じゃなくて!」と顔を真っ赤にしながら、カサカサと音を立てて薬局の処方袋を頭上に振りかざし、必死になって見苦しい言い訳を始めるのだった。
「あとこれ、サインしておいて」
「なんですの?」
真理子に手渡された書類は、『ヘブン移行後の意識を抜かれた肉体の再利用に関する同意書』だった。
意識をデジタル空間へ転送するという超高度なテクノロジーを前にして、こういった役所の手続きはいまだに時代遅れな紙への手書き署名と、仰々しい実印の押印を要求してくる。
「肉体の再利用って、具体的にどう利用されるのかしら。肥料? それとも実験体?」 「さあな。処置センターの担当者に聞いてみたけど、守秘義務があるのか『知らない』ってさ。全部、政府管轄の再利用センターにお任せらしい」
「ふうん……自分の体なのに、そういうものかしら」
「ふぉうふぉう」
深刻な話題にもかかわらず、孝之は口に茶色いバーを咥え、モゴモゴと咀嚼しながら適当な返事をした。
「ちょっとオトウサン、何食べてんのよ。晩御飯はさっきちゃんと食べたでしょ」
「ボケた老人みたいな風に言うなよ」
孝之がモソモソと食べているのは、処置センターの前で無料配布していた、銀色パッケージの栄養バーの試供品だった。
「それはそうと、首にそんな機械が埋まってるのに、お風呂で水に濡れても大丈夫なの?」
「完全防水だから水は問題ないそうだ。ただ、むしろ今の季節みたいに空気が乾燥している時に、衣服の摩擦なんかで静電気が帯電しやすいらしくてな。チップに直接触るとピリッときて、場合によってはショックで気を失うらしい」
「へえ……あら、良いこと聞いた」
真理子の口角が上がり、ニヤリと悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「お、おいお前……やめろよ? 絶対にやめろよ?」
「オトウサン、それって振りのフラグかしら?」
真理子は楽しげに意地悪な笑みを深め、冬物のセーターの袖を捲り上げると、両手の指をワシャワシャと蠢かせながらじりじりと孝之に迫った。
「冗談だろ、やめろって!」
孝之が椅子から立ち上がり、慌てて後ずさった拍子に、食卓の端に置かれていたテレビのリモコンが床へ滑り落ちた。運悪く、逃げようとした彼の次の一歩が、そのリモコンをモロに踏み抜く。
「わわっ!」
ツルッと足元が滑り、孝之の体が大きく宙に浮く。腕を風車のように回してバランスを崩し、無防備な仰向けで倒れそうになった。
「危ないっ!」
悪ふざけが一転し、反射的に真理子が夫を庇おうと手を伸ばした。しかし、彼女の指先が孝之の背中を支えるよりもほんの一瞬早く、セーターの摩擦でたっぷり帯電した指先が、首の後ろに埋め込まれた真新しいチップの金属部分へと触れてしまった。
――バチッ!!
青白い火花と共に、鋭い放電音がリビングに鳴り響いた。
「きゃっ!」
真理子が驚いて手を引っ込めると同時、空中で暴れていた孝之の身体からふっと全ての力が抜け、まるで糸が切れた操り人形のようにドサッと床へ崩れ落ちた。
口から食べかけの栄養バーをこぼし、白目を剥いてピクリとも動かない。それはまさしく『主電源を切られた機械』そのものだった。
「あらやだ。気を失うって、本当なのね」
しばらく待っても全く動く気配のない夫を見下ろし、静まり返ったリビングで、真理子は痺れの残る自分の指先と倒れた孝之を交互に見比べ、どこか感心したようにポツリと呟いた。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。
ぜひ本編『天国の嘘』、スピンオフもよろしくお願いします。




