短編(5) インド レジスタンス
本編『天国の嘘』第五章の少し前、ポンディシェリに移住したヴィジャイとラーニー
インドでも、主要都市にヘブン処置センターが建造された。
飢えと貧困に喘ぐ何十万もの人々が、政府が謳う『救済措置』を信じ込み、処置センターへと続く果てしない列を作っている。
彼らは「これで苦しみから解放される」と喜んでいるが、その肉体がその後どこへ送られ、誰の臓器スペアや飼料として消費されるのかを知らない。そして、彼らの意識データがヘブンという名の巨大なストレージの奥底で、永遠の休眠状態に置かれていることも。
「……今日も大盛況ね。行列が昨日より伸びているわ」
背後から歩み寄ってきたラーニーが、苦々しい声で吐き捨てた。
「ああ。グラモハを追われてから事態は悪くなる一方だ。たった五年でここまで世界が変わってしまった。だが……俺たちにはどうすることもできない」
ヴィジャイは拳を固く握りしめた。
かつて彼らは、日本サイバトロニクス社の合弁会社グラモハで、ヘブンのアーキテクチャ開発の最前線にいた。不当に解雇された当初は燻っていたが、ヘブンの裏事情やオーロヴィルやランドゥールの実情を知ってからは、かつての生き残った仲間達を集めて秘密裏にラボを立ち上げた。莫大な暗号資産を操る『謎のエンジェル投資家』の支援を受けて。
姿の見えない投資家は、底知れぬ財力で彼らに潤沢な資金と最新鋭の機材を与え、一つの極秘プロジェクトを依頼してきた。『ヘブンにいる意識体を現実世界で動かすための、物理的な器――すなわち、意識の乗り物を開発せよ』と。
それは奇しくも、五年前にこの世を去った里山博士や、柚木、佐伯達が取り組んでいた極秘の研究に極めて近いものだった。これが単なる偶然なのか、それとも見えざる巨大な意志によって意図的に仕組まれた盤面なのか。
「ヴィジャイ、シミュレーションが終わったわ。……やっぱり、あの投資家の要求仕様、どう考えても異常よ」
充血した目を細め、深い疲労を滲ませながら、ラーニーが手元の薄型タブレットをヴィジャイのデスクに乱暴に放り投げた。滑るように手元へ届いたタブレットの画面には、赤いエラーログが滝のように流れ続けている。
「指定された生体プロトコルの記述、どう見ても二十年前にサイエンス誌に掲載されて頓挫した、当時の古い『人工細胞核』の構造を前提としているのよ」
「なんでまた、そんな過去の遺物を対象に組み込まなくちゃならないんだ。そいつを削って最新のアーキテクチャに置き換えれば、もっと単純で安定したコードで済むっていうのに。二十年前のレガシー仕様……おまけに三十二ビットのライブラリに依存してコンパイルしろなんて、ナンセンスにも程がある」
ヴィジャイは眉間を深く揉みほぐしながら、吐き捨てるように言った。無駄が多くて鈍重なレガシーコードでの構築を強制されるのは、一線級のアーキテクトであった彼らにとって耐え難い苦痛だ。
「しかも、意識体が存在するヘブン側のシステムにも同期用のコードを直接実装しないとリンクは成立しないのに、『プロジェクトは絶対の秘密裏に進めろ、ヘブン側には直接手を下すな』なんて、いくらなんでも制約が無理筋過ぎるわ」
ラーニーが苛立ち紛れに頭を抱え、デスクに突っ伏した。
「チッ……!」
ヴィジャイは忌々しげに、鋭い舌打ちを冷え切ったラボの空気に響かせた。
高性能なサーバ群を与えられ、睡眠時間も休日も削って死に物狂いで開発に費やしているというのに。この無意味で不可解な『旧世代の人工細胞核』という絶対の前提条件に縛られているがために、最適化は遅々として進まない。
ただ徒らに時間だけが溶け、正体不明の投資家から突きつけられた非情な期日ばかりが、真綿で首を絞めるように押し迫ってきていた。
「ラーニー。俺たち、いつからこんなワーカーホリックに成り下がった?」
ヴィジャイは自嘲気味に息を吐き、キーボードから手を離して天井を仰いだ。
「あなたが日本の柚木と張り合って、エナジードリンク片手に三日三晩徹夜でコード書いていた頃から比べれば……ずいぶん耐性が落ちたわね」
ラーニーが皮肉めいた笑みを浮かべ、あえて挑発するように肩をすくめる。
ヴィジャイの脳裏に、かつて日本で共にアーキテクチャの覇権を競い合った、あのチャラくて底抜けに優秀な男の顔が鮮明に浮かんだ。
彼らが命懸けで何かを遺そうとしていたこと、そして不審な事故として冷たい海に消え去ったことは、独自の調査網を通じてとうに彼らにも伝わっていた。
「あいつら……日本のバカみたいに優秀な連中は、巨大な権力に中指を立てて、命を懸けて抗ったんだ。俺たちが、ただ正体不明の権力者の言いなりになって、奴らのための『棺桶』を黙って作ってやるわけにはいかないよな」
ヴィジャイの深い漆黒の瞳に、かつて最前線で技術を競い合っていた頃の、ギラギラとした野心と情熱の炎が再び宿った。その熱にあてられたように、ラーニーもまた不敵な笑みを浮かべて自身の端末へと向き直る。
「どうする気? 投資家の意向を裏切れば、私達は間違いなく消されるわよ」
「裏切るんじゃない。『ありがたく利用してやる』んだ。あいつらから送られてくるこの莫大な資金を使って、世界中に散らばる腕利きの同志達をかき集める」
ターッ、とヴィジャイの指が軽快に動き、エンターキーを強く叩き込んだ。
投資家のために心血を注いで作っていた『意識体の乗り物』のソースコードが暗号化されてアーカイブ領域へ放り込まれる。代わってモニターの青白い光の中に立ち上がったのは、全く新しいプロジェクトのまっさらなディレクトリだった。
「奴らが俺たちに作らせようとした技術を逆利用する。ヘブンという名の巨大な牢獄から、強制的に意識を引きずり出して安全な場所へ退避させるための『箱舟』を作るんだ。……権力者どもの潤沢な資金を使ってな」
「最高に悪趣味で、最高のアイデアね。……乗ったわ」
ラーニーが即座に同期のスクリプトを走らせた。彼女の指先から放たれた無数の暗号化された招集シグナルが、インドの熱帯夜を切り裂き、地下のネットワークを通じて世界中へ向けて一斉に放たれる。地上で権力者たちが醜悪なディストピアを貪り食い、理想郷を破壊していくその足元で。
かつてのライバルたちの遺志を無意識に受け継いだインドの天才技術者たちが、謎の投資家の資金を喰らい尽くし、世界を根底から転覆させるための『レジスタンス』を産み落とした瞬間だった。
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ぜひ本編『天国の嘘』、スピンオフもよろしくお願いします。




