短編(3) 闇夜のアヴァンタイム
本編『天国の嘘』第三章のサスペンスの裏側に存在する、愛すべき技術者たちの狂騒と執念。
深夜の東名高速道路、下り線。
日付が変わったばかりの御殿場付近は、自重を知らない長距離トラックのディーゼル音と、アスファルトを削る不快なロードノイズに支配されていた。
その喧騒を、まるで異次元から飛来した宇宙船のような、あるいは遺伝子の突然変異によって生まれた深海魚のような、奇妙な塊が切り裂いていく。
ルノー・アヴァンタイム。二〇〇〇年代初頭、フランスの異端児たちが「ミニバンの広さとクーペの美学を融合させる」という、およそ正気の沙汰とは思えないコンセプトで世に放ち、そして案の定、商業的に大爆死した伝説の迷車である。
ハンドルを握るのは、生物工学科のポスドク(博士研究員)、岸徹。
「……よし。大気圧、一〇一三ヘクトパスカル。路面湿度、四二パーセント。車速、百キロ。条件はすべてクリアだ」
岸は白衣の袖をまくり、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。彼の瞳は、数日寝ていない人間のそれ特有の、怪しい燐光を放っている。彼の本職は、ゲノム編集による人工細胞の代謝制御だ。しかし今、彼の脳内リソースの九九パーセントは、生物工学ではなく、目の前にある一個のプラスチック製ボタンに注がれていた。
センターコンソールに鎮座する、そのボタンの脇には「Grand Air」と刻まれている。一押しで、巨大なパノラマサンルーフと、前後のサイドウインドウ四枚が同時に全開になるという、アヴァンタイム最大にして最悪のロマンギミック。
岸の親指が、そのボタンを深く押し込んだ。
ギギ、と古いサーボモーターが悲鳴を上げ、ガラスが一斉に引き込まれる。
次の瞬間、時速百キロ近い爆風がキャビンに容赦なく、いや、流体力学的な負圧の暴力となって叩きつけられた。
「うおっ!」
車内は一瞬にして台風と化した。
かつて、ポスドクになりたての予算も知識もない頃、岸は同じ高速道路でこのボタンをうっかり押してしまったことがある。その時、助手席に積んでいた三ヶ月分の実験データ、国際学会の発表ポスター、そして翌年分の科研費の申請書が、文字通り「高速道路上の紙吹雪」となって夜空へ霧散した。
あの時の、バックミラー越しに見た、自分のキャリアが空中分解していくかのような芸術的ですらある絶望。料金所でNEXCOの道路巡回車(黄色いパトカー)に拿捕され、「高速道路での危険なポイ捨て」として大目玉を喰らい、撒き散らした紙の回収費用を薄給から天引きされた、あの屈辱。
だが、岸はただの変態ではなかった。
博士号を持つマッドサイエンティストの卵だった。かつて同大学でマッドサイエンティストの称号を受けた有名人、柿枝兄弟、里村、長泉という輝かしい時代の系譜を受け継ぐには十分な素材だった。
「失敗は、次の実験のための最大のサンプルである」
彼は車を買い替えることも、電子化に逃げることもしなかった。夜な夜な、助手席にカビデオカメラをセットし、いらない裏紙を何枚も置いて高速道路へ通った。どの速度域で、どの窓の開度から「書類が離陸する閾値」に達するのかをすべてプロットした。
生物工学で培った「バイオリアクター(培養槽)内の液流コントロール」のノウハウを、強引に空気の層流(きれいに流れる気流)の計算へと流用した。
その幾多の検証の末、彼は生み出したのだ。
岸がダッシュボードのセンター、ミリ単位で計算された位置に設置した、たった一枚のA4サイズのアクリル製防風板。
それが今、咆哮を上げている。
フロントガラスを乗り越えて突入してきた爆風が、そのA4の板に接触した瞬間、まるで意志を持つかのように上方へと美しく跳ね上げられた。キャビンの天井を伝い、気流は後方へと綺麗に剥離していく。車外は、髪の毛が逆立つほどの暴風。
しかし、車内は――。
岸は助手席を見た。
そこには、明日提出する予定の、人工細胞核に関する重要論文の生原稿が、クリップも留められずに無造作に置かれている。
紙は、ピクリとも動かない。
風の鳴る音が耳元をかすめるだけで、助手席の空間だけが、まるで時間が止まったかのように完全な静寂に包まれていた。
「勝った……。科学の勝利だ」
岸は自嘲気味に、しかし深く満足して呟いた。
だが、この時、彼はまだ気づいていなかった。流体力学の第一法則「エネルギー保存の法則」を。車内の風を完璧に防いだということは、その跳ね上げられた爆風の全エネルギーが、アヴァンタイムの真後ろに、絶望的なレベルの乱気流となって集中しているという事実に。
その時、鼓膜を突き破るような高周波のモーター音とともに、物理法則を嘲笑うかのような異常なトルクで、深紅のスポーツセダンがアヴァンタイムの横を弾丸のように突き抜けた。さらにその後ろから、異様な殺気を放つ黒塗りのSUVの車列が、狂ったような速度で追従していく。
(なんだあの車列は……!? 暴走集団かカーチェイスか!? どんな地獄から逃げているんだ!?)
岸が戦慄した次の瞬間、車列が引き起こした暴力的な乱気流がアヴァンタイムを襲った。「書類が離陸する閾値」に達した車内から、大量の紙吹雪が高速道路に舞う。
「おぉ、おかげで次の課題が見えた。外圧も制御しなければ……勝利はお預けだ」
その時、ピピピッ、とスマートフォンが鳴った。ハンズフリーの画面に表示されたのは「研究室・ボス(教授)」の文字だ。
「はい、岸です」
『岸! お前今どこにいる!?』
スピーカーから、ボスの怒号が響く。
「どこって、東名高速ですが……今、アヴァンタイムの空力アセスメントの最終フェーズでして」
『アホか! 学長室から内線が入ったぞ! NEXCOから大学に直電だ! 「お宅の生物工学の岸という男の車から、大量の白い微粒子がマシンガンのように後続車に降り注いでいる。またバイオテロの予行演習か」って大騒ぎになってるんだよ!』
「え?」
岸はバックミラーに目をやった。
はるか後方、路面を舞うA4ペーパーと、彼の作ったディフューザー(防風板)が発生させた猛烈なダウンバーストの渦の中で、アヴァンタイムのワイパーの隙間やトランクのゴムパッキンに溜まっていた「実験ゴミ(使用済みのキムワイプの繊維や、分析用サンプルの乾燥粉末)」が、超高速で後続車のフロントガラスに叩きつけられていた。
さらに、その後ろには、すでに赤い警告灯を激しく明滅させたNEXCOの黄色いパトロールカーが、怒りの形相で迫ってきている。
「系の外側(環境)への影響評価を……忘れていた……」
岸は愕然とした。隔離温室の環境を最適化するあまり、排気口から外に遺伝子組み換え花粉をぶちまけてしまったようなものだ。
『今すぐ車を止めろ! あと、お前が撒き散らしたそのゴミ、何なんだ!? 危険な菌じゃないだろうな!』
「大丈夫です、ただのセルロースと不活性の微粒子です!……あ、いや、待てよ?」
怒鳴り散らすボスの声をよそに、岸の脳内で、全く別の、しかし巨大なニューロンの結合が起きた。
「乾燥状態では紙として機能するが、路面の湿気や水分に触れた瞬間……トイレットペーパーを遥かに凌ぐ速度で分子結合が崩壊し、ナノセルロース液として自然界へ100%完全還元されるバイオマス紙……。それを作れば、NEXCOにゴミとして検知される前に消滅する……!」
『おい、岸? 聞いてるのか岸!?』
「ボス、すいません! 次の論文のテーマが決まりました! 科研費、十倍で申請してください!」
通話を切ると同時に、岸はインターチェンジの誘導路へとアヴァンタイムを滑り込ませた。待ち受ける黄色い制服の隊員たちの厳しい視線すら、今の彼の目には入っていなかった。
――それから、三年の月日が流れた。
人間の執念とは恐ろしいものである。
「NEXCOにバレずにアヴァンタイムの車内流体実験を続ける」という、極めて後ろ暗くマニアックな動機から開発された岸の『超・高速生分解性バイオマスペーパー』は、思いがけない分野で世界的な大ブレイクスルーを起こした。
「体内に入れた瞬間、数秒で完全に溶けて安全に吸収される手術用マーカー」として医療工学分野からオファーが殺到し、「最初の雨で100%自然分解され生態系を絶対に汚さない深海・極地用センサー基質」としてNASAが注目。さらに「液体に浸した瞬間、分子レベルで情報が消滅する究極の機密文書」として世界の防衛関係者が極秘裏に接触してきたのだ。
一介のポスドクだった岸は、今や巨額の特許ロイヤリティを手にする特任教授であり、注目のバイオベンチャーのCEOとなっていた。
そして、そのニュースはフランス・パリのルノー本社をも動かした。
「我が社の歴史の悲劇を、日本の若き天才がバイオテクノロジーで救ってくれた。メーカーとして、これに応えないわけにはいかない」
経営陣の粋な計らいにより、日産・ルノーアライアンスの既存スポーツEVプラットフォーム(アルピーヌA390ベース)を流用した『新型アヴァンタイム(AVANTIME E-Tech)』の開発プロジェクトが始動。その内装には、岸が開発した生分解性バイオマスレザーが惜しみなく使われ、シリアルナンバー「001」の鍵が、岸の元へ届けられたのである。
再び、深夜の東名高速道路。
岸は、届けられたばかりの新型アヴァンタイムのコックピットにいた。未来的なフォルムに生まれ変わったその車は、EVならではの完全な無音で、滑るように夜の闇を駆けていく。
助手席には、あえて、クリップも留めていない数枚の紙の書類。
岸は、ステアリングに配置された、あの懐かしいマークのボタンを押した。
「Grand Air」
静かに、しかし素早く、パノラマサンルーフとサイドガラスが引き込まれる。
時速一〇八キロ。
ルノーの空力チームが総力を挙げ、岸の過去の流体力学データを完全にフィードバックして設計した、電子制御のポップアップ・ディフレクターがフロントガラス上部からミリ単位でせり出す。
車外を流れる爆風は、完璧に、美しく、車体の上空へと受け流された。
今回は、後方に乱気流を発生させることもない。完璧な環境アセスメント(評価)の結晶。
助手席の紙は、やはり1ミリも動かない。かつてのようにゴミを撒き散らすこともない。バックミラーの遥か後方には、またしても警戒中の黄色いパトカーが見えたが、今回はもう、追いかけてくる理由すら存在しなかった。
「……先生、すごいです! ついにやりましたね! 自動車の歴史を塗り替える、完全な無風キャビンの完成だ!」
インパネのモニター越しに、大学の研究室に残した教え子たちがリモート画面で歓声を上げている。ルノーの技術者たちも、パリのオフィスでシャンパンを開けている頃だろう。世界は今、岸の偉業を称賛していた。
だが。
当の岸の耳には、その称賛の声は一言も届いていなかった。
「……いや。まだだ」
岸は、周囲の声なんて聞こえないかのように、ブツブツと呟いた。彼の瞳には、かつてポスドクだった頃と全く変わらない、周囲の目が一切入らない純粋でマッドな光が宿っている。
「ルノーの設計は完璧だ。外気からの干渉は完全にシャットアウトされている。エアコンからの微細な上昇気流と、フロントから回り込むわずかな負圧のバランス……。この二つのベクトルの合力を、1ヘルツ単位で同調させれば……」
岸はハンドルを左手で固定し、白衣の胸ポケットから、学生時代から使い古している一本の安価なボールペンを抜き取った。
そして、ダッシュボードと助手席のちょうど真ん中、目に見えない気流の「圧力の籠」が存在するはずの空間へと、静かに指を離してペンを「置いた」。
一瞬、ペンが重力に従って傾く。
しかし、次の瞬間。
ペンは下に落ちることも、後ろに吹き飛ぶこともなかった。
時速百キロ以上で窓を全開にして爆走するオープンカーの車内。その激しい風の鳴る音の真ん中で、一本のボールペンが、まるで宇宙空間に放り出されたかのように、空中でピタッと静止した。
街灯の光を浴びながら、ペンは無重力空間のように、ゆっくりと、その場で回っている。岸はそれを見て、ガッツポーズをするわけでも、大声をあげるわけでもなかった。
ただ、眼鏡のブリッジを少しだけ押し上げ、満足そうに、フッと微笑んだ。
「……よし。計算通りだ。アヴァンタイムは今、完全な『走る無重力実験室』になった」
モニターの向こうで、学生たちが「先生、ルノーはそんなことのためにEVの空力設計をしたんじゃないと思います……!」と頭を抱えてあきれ返っている。
だが、彼は聞こえない。
深夜の高速道路を、窓を全開にして、車内に一本のペンを浮かせながら静かに滑走していく紫の怪物のなかで、マッドサイエンティストは、すでに次の「側から見たらおかしな実験」の計画を立て始めていた。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。
ぜひ本編『天国の嘘』、スピンオフもよろしくお願いします。




