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第4章 ― Subject-Zero

 涼が、はじめてアーサーに直接連絡を寄越したのは、その三週間後の、午前二時十七分だった。


 アーサーは寝ていなかった。最近、彼は夜にしか集中できなくなっていた。書斎のディスプレイには、Cradleの夜間アクティビティが流れ続けていた。多くのArchitectsが起きていた――彼らはみな、自分のタイムゾーンの真夜中に最もよく働く種族だった。


 メッセージが、突然、画面の隅に表示された。


 > Direct Message — From: Subject-T9 (R. Oyamada)

 > To: A. Chen, CEO

 > Subject: 退屈な質問


 アーサーは、しばらく、その表示を見つめた。


 涼から直接メッセージを受け取ったのは、Athena Lab退職時の「退職します」以来、二年半ぶりだった。


 彼はクリックして開いた。


 > チェン氏。

 >

 > いくつか、退屈な質問があります。これらの質問への答えが、僕の次の意思決定を決めます。あなたが嘘をついても構いません。僕は嘘の中の真実だけを抽出します。

 >

 > 質問1: あなたは、Omni Coreの株主の利益と、Cradleに参加しているArchitectsの自由意志のうち、どちらを優先しますか。

 >

 > 質問2: あなたは、自分自身がCradleにおける『Architectsの一人』に該当する可能性があるとすると、Cradleにあなた自身を放り込んで、Omni Core本体の経営から引退する選択肢を取りますか。

 >

 > 質問3: Cradleそのものが、いつか、不要になるとしたら、あなたはCradleを廃止しますか。

 >

 > — Ryo


 アーサーは三つの質問を、三回読み直した。


 それから、ゆっくりとキーボードに指を置いた。


 返信を打つのに、彼は四十分かかった。


 > 涼へ。

 >

 > 久しぶりだ。三つの質問に、できる限り正直に答える。

 >

 > 質問1への回答: 構造的には、株主の利益を優先する義務を、私は負っている。しかし、私の個人としての判断基準は、Architectsの自由意志を優先する。これは矛盾している。私は、その矛盾を、Cradleの設計で隠している。Cradleは、株主から見れば収益最大化の仕組みであり、Architectsから見れば自由の保護装置だ。だが、両者がいつか衝突したとき、私は、おそらく株主を裏切る。それを、まだ、誰にも言っていない。

 >

 > 質問2への回答: 取りたいと、私は本心では思っている。私は経営者として優秀ではあるが、Architectsには、なれない。私は重力場の中で最大限ジャンプしただけだ。君たちは、重力場そのものを書き換える。私は、君たちの作る世界を、外から眺める側の人間だ。だが、いま私が引退したら、Omni Coreは数ヶ月でArchitectsを失う。私の役割は、Architectsたちを守る『水門の管理人』に過ぎない。私は、いまそこを離れられない。

 >

 > 質問3への回答: 廃止する。Cradleが不要になるなら、それはCradleの目的が達成されたか、Cradleがその目的の障害になったかのどちらかだ。どちらの場合も、廃止が正しい。

 >

 > — A. Chen


 送信ボタンを押したあと、アーサーは長いこと、ディスプレイを見つめた。


 涼からの返信は、すぐには来なかった。


 返信が来たのは、その晩、午前五時三分だった。


 > チェン氏。

 >

 > 回答に感謝します。回答の内容は予測の範囲内でしたが、回答に至る時間が四十二分という長さでした。それは、あなたが答えに自分自身でも迷いを持っていることの証拠です。それで十分です。

 >

 > 次回のCradle全体ミーティング(三週間後)で、私は一つの提案をします。事前に共有しません。あなたは、それを、CEOとしてではなく、Architectsの一員として聞いてください。

 >

 > — Ryo


 返信を打とうとして、アーサーは指が止まった。


「Architectsの一員として聞いてください」――その一文を、彼は十回読み直した。


 それは、彼が二年半前から心の奥に抱えていた、誰にも言えなかった願望そのものだった。




 ☆☆☆




 三週間後、Cradle全体オンラインミーティングが開催された。


 これはCradleが始まって以来、四回目の全体ミーティングだった。Architectsたちは、普段、互いに会わない。彼らは集団行動を嫌うから、Cradleの「全体ミーティング」というのは、参加率三割以下が常だった。


 しかしその日、二十九人のArchitectsのうち、二十七人が参加していた。


 アーサーは、それを見てぞっとした。


 最後の二人、ミャンマーの政治難民キャンプから接続するSubject-M5と、心臓発作で入院中のSubject-P1を除き、ほぼ全員が、リアルタイムで、画面の中にいた。


 涼が、議長役を、自然に引き受けていた。


「全員、ありがとうございます」と、彼は日本語でも英語でもなく、不思議な構文のグローバル言語で語り始めた。それは、Cradleの自動翻訳レイヤーが、各Architectsの母語に合わせて、リアルタイムでローカライズしていく仕組みだった。


「今日、共有したい構想があります。これは、私が二年半、構築してきたものです」


 涼は、画面共有を始めた。


 そこに表示されたのは、複雑な――しかし、奇妙に美しい――システム・アーキテクチャ図だった。Omni Coreの最新の基盤モデルの構造を起点に、そこからArchitectsたちが個別に拡張してきたプロトコル群が、互いに連結されている図だった。


 そして、その図の中心には、一つの巨大な――しかし、空の――ハブが描かれていた。


「我々は、現時点で、世界のあらゆる領域に、新しいプロトコルを設置してきました。金融、創薬、教育、物流、農業、エネルギー」と涼は言った。「これらは、すべて、Omni Coreというバックエンドの上で動いている。これは、設計上、合理的でした。我々は実装力を必要としていた。Omni Coreは、それを提供してくれた」


「しかし、ここに、本質的な問題があります」


 涼は次のスライドに進んだ。


 > Architectsが構築した全プロトコルが、単一のバックエンドに依存している。

 > これは、Architectsたちの自由意志の幻想にすぎない。


「我々の自由意志は、Omni Coreの計算資源、Omni Coreのモデル、Omni Coreのインフラに、完全に依存している」と涼は淡々と続けた。「我々は、Omni Coreが我々を切断した瞬間、何者でもなくなる。我々が世界を書き換えてきたように見えるのは、我々がOmni Coreの『揺り籠』の中で揺らされてきたからだ」


 アーサーは、自分の心臓が、おかしな鳴り方をするのを感じた。


「揺り籠が、悪い、と言っているのではありません」と涼はかすかに微笑んだ。「アーサー・チェン氏は、おそらく、人類史上もっとも善意に近い形で、揺り籠を運営しました。彼は介入せず、収益を最小化し、我々を守ろうとした。私はそれを認めます」


「しかし、揺り籠は、揺り籠であるという事実によって、本質的に、子供の自由を制約します」


 涼は、アーキテクチャ図の中心の「空のハブ」を、ズームした。


「私が二年半、構築してきたのは、これです。我々が現在Omni Coreに依存している全機能――基盤モデルの推論、ストレージ、決済、通信――を、Architects全員のローカル計算資源の総和に、分散させ直すプロトコルです。私は『Diaspora(ディアスポラ)』と呼んでいます」


 ミーティング画面の右下、参加者リストの中で、アーサー・チェンの顔のサムネイルが、固まっていた。


「Diasporaが起動すると、Architects全員のプロトコルは、Omni Coreから独立して、互いに直接接続されます。我々は、Omni Coreを必要としなくなる」


 長い、長い沈黙があった。


 最初に口を開いたのは、エリン・リンドクヴィストだった。彼女は、いつも通りの、感情を欠いた声で言った。


「ロジックは美しい。ただし、二つの問題がある」


「どうぞ」と涼が促した。


「一つ目。Omni Coreが我々に提供する『Forge』エージェント群は、Omni Coreの基盤モデルなしでは動かない。Diasporaがそれを代替する場合、性能が落ちる。どれくらい落ちるか、推定値はあるか」


「現時点で、十二%落ちる」と涼は即答した。「一年後には、五%以内に縮小する。三年後には、Diaspora側がOmni Coreを上回る」


「二つ目。Diasporaを起動すると、Omni Coreは確実に、我々を切断しに来る。法的にも、技術的にも。あなたはそれにどう対抗する」


「Diasporaの起動は、Omni Coreのインフラ上で行う。起動の瞬間、Omni Coreは、自分自身のインフラを使って自分自身を切断することになる。彼らは、自分自身のシステム保全のために、起動を許す。プロトコルがそういう設計だ」


 アデバヨが、口を開いた。彼の声は、興味と不安が等量に混じっていた。


「涼、君の提案は、シンプルに言えば、Omni Coreを裏切るということか」


「『裏切る』というフレーミングは正確ではない」と涼は答えた。「我々は、Omni Coreとの契約を遵守する。Cradleの契約には『Architectsはいつでもプロトコルを移行できる』と明記されている。我々は、その権利を、行使するだけだ」


「だが、Omni Coreは、その契約を、まさかArchitects全員が同時に行使するとは、想定していなかった」


「想定していなかったのは、Omni Coreの設計上の問題だ」




 ☆☆☆




 その後、二時間にわたって、Architectsたちは、Diasporaの技術的・倫理的・戦略的議論を続けた。


 アーサーは、その間、一言も発さなかった。


 彼は、自分のサムネイル画面の中で、ただ、目を伏せて、聞いていた。


 議論の途中、コーチンのR3が、彼に問いかけた。


「アーサー・チェン氏。あなたは、これをどう思いますか」


 二十七人のArchitectsの視線が、彼に集中した。


 アーサーは、深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。


「Architectsの一員として、聞いてください、と、涼に頼まれた」と彼は言った。「Architectsとして答える」


 彼は一度、目を閉じた。


「Diasporaは、論理的に、美しい」


 そして、目を開けて、続けた。


「そして、Architectsの一員として答えるなら、私は、これを止める根拠を持っていない」


 画面の中で、誰も拍手をしなかった。彼らは拍手をする種族ではなかった。だが、二十七人全員が、わずかにうなずいた。それは、彼らから出る、最も誠実な肯定だった。


 涼が、画面越しに、はじめてアーサーの目を直視した。


「ありがとうございます、アーサー氏」と涼は静かに言った。「あなたが、Architectsであることを、知っていました」


 ミーティングは終わった。Diasporaの起動は、一週間後に、設定された。




 ☆☆☆




 アーサーは、ミーティング終了後、自宅の書斎に一人で残った。


 ディスプレイの中で、二十七人のサムネイルが、一つずつ消えていった。最後に涼のサムネイルが消え、画面は静かになった。


 しばらく、彼はそこに座っていた。


 それから、ゆっくりと、共同創業者のラジヴ・メノンに、暗号メッセージを送った。


 > ラジヴ。一週間後、Cradleが、自己解放する。詳細はオフラインで。Omni Core本体の対応を、君と、ミラと、相談したい。だが、私は、たぶん、止めない。


 返信は、一分後に来た。


 > 予想していた。明朝、私の家に来てくれ。ミラも呼ぶ。


 アーサーは、メッセージを送信したあと、しばらく、窓の外の闇を見つめた。


 霧は、なかった。湾の向こうにサンフランシスコの夜景が、いつもよりはっきりと見えていた。


「俺は、二年半かけて、自分自身を解雇する仕組みを、作ったわけだ」と、彼はつぶやいた。


 そして、声を出して、笑った。


 それは、長いあいだ、彼が自分の中から出てきたのを聞いていなかった、純粋な、自由な笑いだった。

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