第3章 ― 帝国
Project Cradle開始から二年半が経過したとき、世界の景色は、誰の予想も超えて変わっていた。
書き換わったものを列挙すれば、それだけで一冊の本になるだろう。
西アフリカと東アフリカの金融システムは、アデバヨのAshaを中心とする「アフリカ・プロトコル連合」によって、ほぼ非中央集権化された。世界銀行は警告レポートを連発したが、すでに止められなかった。八ヶ国の中央銀行が、自国通貨をAsha互換にすることを発表した。
製薬産業では、エリンのSieveを起点に、世界各地の小規模バイオベンチャーが、Big Pharmaを侵食し始めていた。アルツハイマー、特発性肺線維症、希少がんに対する新規候補化合物が、Sieveのパイプラインから次々と臨床第一相に進んだ。三年前まで創薬ベンチャーへの投資は冬の時代だったが、今は史上最高水準の資金が流れていた。
教育では、コーチンのSubject-R3が立ち上げた「Meridian」という個別化学習プラットフォームが、インドの公教育の補完として爆発的に普及していた。Meridianは、生徒一人ひとりの認知プロファイルを学習し、その生徒だけの教材を自動生成した。インドの教育省は当初、規制しようとしたが、地方の貧しい州ほど効果が顕著だったため、規制案は議会で否決された。
ロジスティクスでは、ペルー出身のArchitect、コードネーム"Subject-L8"が、世界の海運業界の空コンテナ最適化問題を、自律エージェント群に解かせるシステム「Compass」を稼働させた。コンテナの空輸送が半年で三割減った。海運大手のMaerskは、CompassのAPIに統合される側になった。
法務、医療、農業、ニュース配信、エンタテインメント――業界のあらゆる場所で、Architectsたちの「小さなプロトコル」が、既存の巨大プレイヤーを侵食していった。
そして、その大半が、表向きはまったく無関係に、独立に動いているように見えながら、バックエンドではOmni Coreのインフラ上で動いていた。
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Omni Coreの株価は、創業以来最大の上昇率を見せていた。
決算発表のたび、市場アナリストたちは混乱した。「Omni Coreは、もはやAI企業なのか、それともデジタル基幹インフラなのか」と、Bloomberg TVの司会者が真面目に問いかけた。「彼らはGoogleでもAWSでもなく、それらの上位の何かに見える」と、別のアナリストが書いた。
ウォール街は、Omni Coreの新しい収益構造を理解するのに時間がかかった。彼らは、もはやAPIコール単価では稼いでいなかった。彼らはトランザクション・ベースで、世界中の経済活動から、極めて薄く、しかし極めて広範囲に、ベーシスポイントを刈り取っていた。
その仕組みは「人類が呼吸するたび、彼らに微少な税が落ちる」と表現する者すらいた。
時価総額は三・八兆ドルを突破した。Apple、Microsoft、Aramcoを抜き、人類史上最大の企業になった。
GAFAの一部は、すでに「Big Tech」の括りから脱落しつつあった。Googleは検索広告事業の利益率が三十%から十二%に落ち込んでいた。Architectsの一人が立ち上げた分散型「問答エンジン」が、特定領域でGoogle検索を凌駕したからだ。Amazonは小売部門で、Architectsベースの代替プロトコルに、北米シェアの一部を侵食され始めていた。
巨人たちは、自分たちが「Architectsの土俵」では戦えないことに、ようやく気づき始めていた。彼らがArchitectsを真似しようとしても、彼らの組織は「会議」「KPI」「四半期決算」という重力場に縛られすぎていた。Omni Coreだけが、Cradleという仕組みを通じて、Architectsたちの「無重力空間」を作り出せていた。
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アーサー・チェンは、その間、ほとんど公の場に姿を見せなくなっていた。
彼は表舞台での発言を、共同創業者のラジヴと、戦略担当のミラ・サントスに任せ、自分は本社最上階の自分のフロアに引きこもった。そこには、Cradleの全活動を可視化する巨大な多面ディスプレイがあった。
彼は毎朝、コーヒーを淹れて、ディスプレイの前に座り、その日のArchitectsたちの動きを眺めた。
ナイジェリアのアデバヨは、最近、よく眠るようになっていた。彼のAshaはもう自分の手を離れ、自律的に成長していたから、彼は次のプロジェクト――南米と東南アジアへのAsha互換ネットワークの拡張――に時間を割いていた。
ヨーテボリのエリンは、相変わらず会議という会議を拒否し、しかし「論文と特許」だけは大量に量産し続けていた。Sieveが生み出した知財は、もはやエリン個人のものではなく、彼女が設立した「Sieve Foundation」というオープン研究組織に集約されていた。Foundationの理事はエリン一人だった。
コーチンのR3は、最近、結婚した。相手はMeridianのユーザーだった盲学校の元教員だった。彼女のSNS投稿の頻度が増え、それまで彼女のログに見られた「過剰な集中」のシグナルが、わずかに弱まっていた。アーサーは少しだけ、彼女のことを心配した。だが、彼女のMeridianは安定運用フェーズに入っていて、彼女自身が手を動かさなくても、すでに自律的に拡大していた。
そして、足立区の涼。
涼は、二年半、表に何も出さなかった。
二年半、ずっと、計算資源だけは限界まで消費し続けていた。最近では、彼一人で、Cradleの全Architectsの合計リソースの三十%を使っていた。それでもアーサーは介入しなかった。彼は涼を信じていた。あるいは、涼のことを、誰よりも理解していると思っていた。
涼が何を作っているのか、相変わらず、誰にも見えなかった。
☆☆☆
ある秋の午後、ミラ・サントスがアーサーのオフィスに入ってきた。
彼女は最近、笑顔が増えていた。Omni Coreが世界の頂点に立っているという事実は、彼女のような外向性の高い戦略担当にとって、最高の麻薬だった。
「アーサー、新しい問題が出てきた」と彼女は言った。
「どんな」
「Architectsの中に、互いに接触し始めた者がいる」
アーサーは顔を上げた。
ミラはタブレットを差し出した。そこには、Cradleの内部通信プロトコル経由で、Architectsたちが互いにメッセージを送り合っている形跡が示されていた。
「アデバヨとR3が、まずMeridianのアフリカ展開について話し始めた。それは想定内」とミラは言った。「次に、エリンが製薬データのインフラ最適化をアデバヨに相談した。これも、まあ、理解できる。問題はここから」
彼女は次の画面を表示した。
「涼が、過去三ヶ月で、Architectsのほぼ全員と、個別に接触している」
アーサーは画面を凝視した。
「内容は」
「暗号化されてる。我々のCradleのプロトコルでは、Architects間の通信は『プライバシーを守る』ことを契約に明記している。我々は内容を読めない」
「メタデータだけ見えるんだな」
「そう。誰が、誰と、いつ、どのくらいの量、通信したか。涼は、全二十九人のArchitectsのうち、二十二人と、個別の長時間セッションを持っている」
アーサーは長い時間、その画面を見つめていた。
「彼らは、何かを企んでいる、と思うか」と、彼はようやく言った。
「『企んでいる』というフレーミングは、彼らの精神構造に合わない」とミラは答えた。「彼らが企むとしたら、それは『より美しい論理構造を見つけた』からよ。動機はいつもそれだけ」
「彼らが見つけている『より美しい論理構造』とは、なんだ」
ミラは答えなかった。彼女にも分からなかったからだ。
アーサーはディスプレイに視線を戻した。涼のアクティビティの波形が、相変わらず、深海の生物のように、規則的に揺れていた。
「ミラ」と彼は言った。「涼への、リソース供給を、今のままにしておいてくれ。介入はするな」
「アーサー、それは……」
「介入はするな。Cradleの契約だ。我々は、彼らに自由を提供すると約束した」
「でも、もし彼が」
「ミラ」アーサーは静かに、しかし強く遮った。「もし俺が今、彼に介入したら、俺は、自分自身が八ヶ月で潰したアテナ・ラボのCEOに、また戻ることになる。俺は二度と、あれにはならない」
ミラは長い間沈黙したあと、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。じゃあ、私は、別の準備をしておく」
「別の準備?」
「もしものとき、Omni Core本体を守る準備よ」
ミラはそう言って部屋を出た。
アーサーは一人になった。ディスプレイの中の涼の波形は、何かを呼吸しているように、ゆっくりと、しかし確実に、振幅を大きくしていた。




