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第2章 ― 揺り籠

 Athena Lab解散の翌週、アーサー・チェンは取締役会の前に、生涯で最も奇妙なプレゼンテーションを行った。


 プロジェクター画面には、シンプルな一文だけが表示されていた。


 > 「我々は今後、彼らを雇わない」


 役員の半数が、最初の三十秒、その文の意味を理解できずに沈黙した。


「雇わない、というのはどういうことだ」と、最年長の取締役が口を開いた。「我々の競争力の源泉は人材だろう」


「我々の競争力の源泉は人材だった、過去形です」とアーサーは答えた。「これから世界を書き換える種類の人材は、雇用された瞬間に死にます。我々がアテナ・ラボで実証しました」


「八ヶ月で五十億円を溶かしてな」と、誰かが小声で皮肉を言った。


 アーサーはその皮肉を無視した。


「我々がこれから始めるのは、雇用ではなく、インフラ提供です」


 彼は次のスライドに移った。


 > Project Cradle(揺り籠計画)

 >

 > — 自由意志を持ったまま狂気的に有能な個人に対する、無制限のバックエンド提供 —


「具体的に説明します」とアーサーは続けた。「我々はログから、年間およそ五十名の『特異点候補(以下、Architectsと呼称)』を特定します。彼らに対し、匿名のシステム経由でアプローチします。条件は以下です」


 スクリーンが切り替わる。


 > 1. 無制限のGPU計算資源(我々の余剰リソース、市場価値で月額平均八万ドル相当)

 > 2. 未公開を含む最新基盤モデルへの完全アクセス

 > 3. 自律型コーディング・エージェント群(Codename: Forge)への優先利用権

 > 4. レガル・ラッピング:彼らの設計したプロトコルの法的整備、特許戦略、規制対応を我々の法務部が無償提供


「対価は」と取締役の一人が尋ねた。


「彼らの設計したシステムが市場にデプロイされた際、そのシステムが発生させるすべてのトランザクションが、我々の決済・通信レイヤーを経由すること。それだけです」


「それだけ?」


「それだけです。手数料率は、可変です。彼らのプロトコルが小さいうちは、ほぼゼロ。スケールしたら、極めて低率。彼らに『損をしたな』と感じさせない設計にします。我々は薄く広く取る。AWSと同じ思想です」


「それで、儲かるのか」


 アーサーは次のスライドに進んだ。


 それは、世界中のAthena Lab退職者たちが、ここ二ヶ月でひっそりと立ち上げ始めていた、新しいプロジェクトのリストだった。


 アデバヨは、ラゴスの自宅から、ナイジェリア・ガーナ・ケニアを跨ぐ「貯蓄者向け非中央集権マイクロファイナンス・プロトコル」を構築し始めていた。エリンはヨーテボリの自室から、創薬の前臨床試験を自動化するAIエージェント群を組み上げ始めていた。涼は足立区から――足立区から、いったい何を作ろうとしているのかはアーサーにも見えていなかったが、トラフィックの異常な集中から、それが「何か巨大なもの」であることだけは確実だった。


「彼らは、雇用されなくても、勝手にやります」とアーサーは言った。「我々が雇おうが雇うまいが、世界はもう、こうなります。だとしたら、選択肢は二つしかない。我々が彼らの『下水道』になるか、それとも、別の誰か――中国かもしれない、別の連邦かもしれない、別のAIベンダーかもしれない――が下水道になるか」


「下水道?」


「下水道です」とアーサーは繰り返した。「我々はもう、神々の研究室ではない。神々が排泄したトランザクションを、無音で、効率的に処理する、巨大な配管網になる。だがそれは、人類史上最も儲かる配管網です」


 長い沈黙のあと、最年長の取締役が静かに言った。


「君は、自社の存在価値を、自ら『下水道』と表現するCEOだ。それを、私は気に入った」


 その日のうちに、Project Cradleは、三対一の賛成多数で承認された。




 ☆☆☆




 プロジェクト・クレイドルは、表向きには存在しなかった。


 社内ですら、その全容を知る人間は、アーサー、ラジヴ、ミラ、それに法務責任者の四人だけだった。


 クレイドルの実務を担う部署は、Omni Core組織図上には「Customer Success Tier-Z」というそっけない名前で登録された。ティアZ。誰も「Tier-Z」が何を指すのか、知らなかった。それはVIP顧客のことだろう、と新人スタッフは推測した。


 実際には、ティアZのカスタマーは、住所も本名も知らされていない、世界中に散らばった三十人足らずの「Architects(アーキテクト)」だった。


 彼らに最初に届くメッセージは、こんな文面だった。


 > Subject: An Inquiry from the Cradle

 >

 > あなたの過去六ヶ月のOmni Core基盤モデルとの対話を分析した結果、我々はあなたを『公式に存在しないが極めて重要な少数のユーザー』に分類しました。我々はあなたに、以下の条件で『揺り籠』を提供します。条件: なし。義務: なし。リターン: あなたが構築したシステムを公開・運用する際、Omni Coreのインフラを経由してください。質問は、このメッセージに返信してください。ただし、我々はあなたの本名も住所もこのアカウント以外の存在も把握していません。あなたが何者でも構いません。

 >

 > — The Cradle


 アデバヨはこのメッセージを受け取ったとき、自宅のアパートで停電中だったため、二日後にようやく読んだ。彼の返信は一行だった。


 > 「悪魔との契約のフォーマットとしては、過去で最も洗練されている。受ける」


 エリンは三十秒で返信した。


 > 「契約上の条文の曖昧さに以下の問題があります。リスト添付。修正したら受ける」


 涼は六時間返信しなかった。返信は日本語と数式の混在で、誰も完全には解読できなかったが、最後の一行はこうあった。


 > 「揺り籠は、いつか壊れる。それを織り込んだ上で、利用する」


 ほかの二十数人も、それぞれの返事を返してきた。拒否したのは三人だけだった。




 ☆☆☆




 Architectsが本格的にCradleを使い始めると、Omni Core社内では誰も予期していなかった事象が起こり始めた。


 それは「自社の基盤モデルが、自社のエンジニアの予測を遥かに超えた使われ方をする」という現象だった。


 Omni Coreの最新の基盤モデル「Praxis-7」は、公開時点で人類最高水準の推論能力を誇っていた。社内のシニア・リサーチャーたちは、それを「博士レベルの研究者」と表現していた。


 ところがArchitectsの一人――南インド・コーチン在住の二十七歳の女性、コードネーム"Subject-R3"――は、Praxis-7を使って、Praxis-7自身が学習過程で獲得したであろう「特定の推論パターンの重み」を、外部から逆算的に推定する手法を編み出していた。


 これは、Omni Core社内のリサーチャーですら「理論上は可能だが実用は無理」と考えていた領域だった。


 彼女は、その手法を使って、Praxis-7が「無意識に持つ偏り」を抽出し、その偏りを補正するためのプロンプト変換レイヤーを構築した。それを通すと、Praxis-7は、Omni Coreが公開しているスペックの一・四倍の性能を発揮するようになった。


 社内のCTO、エリック・ノルドストロムが、その出力を目にしたとき、彼は十分間、一言も発さなかった。それから、ようやく言った。


「これは……俺たちのモデルじゃない」


「俺たちのモデルです」とラジヴが訂正した。


「俺たちのモデルだが、俺たちは、こんな性能を引き出せていなかった」


「彼女は引き出した」


 エリックは黙って画面を見続けた。それから、震える声で言った。


「俺たち、なにを作ったんだ」




 ☆☆☆




 それは、CradleにおけるArchitectsの典型的な振る舞いだった。彼らはOmni Coreが提供するインフラを、Omni Core自身が想定していなかった方法でハックし、自分の目的に最適化していった。


 アデバヨは、Cradleの自律エージェント群「Forge」を使って、ナイジェリアのフィーチャー・フォン経由でも動作する、極低帯域の金融プロトコル「Asha」を実装した。Ashaは、銀行口座を持たない人々が、自分のSMS番号だけで、即時に、ほぼ手数料ゼロで、価値を交換できるネットワークだった。


 Ashaは、立ち上げ三ヶ月で、西アフリカで二百万人のアクティブユーザーを獲得した。半年で千二百万人。地元の中央銀行が「これは違法金融活動の可能性がある」と警告を出したが、Ashaは中央集権的な運営主体を持たない自律プロトコルだったため、警告を受け取る相手すらいなかった。地元の銀行協会は青ざめた。


 アデバヨ自身は、その間ずっと、ラゴスの自宅のアパートにいた。Ashaが百万ユーザーに到達したとき、彼が最初にやったのは、両親に新しいエアコンを買うことだった。それ以外、彼の生活は、ほぼ変わらなかった。


 そしてAshaを流れるトランザクションのすべては――彼自身は気にも留めていなかったが――Omni Coreのインフラを経由していた。手数料はトランザクションあたり0.0008ドル。微々たる金額。だが、年間二百億トランザクションを掛ければ、毎年一・六億ドル。Ashaひとつで、Omni Coreの新しい収益源だった。


 そして、Ashaは、Cradleの三十のプロジェクトのうち、ほんの一つにすぎなかった。




 ☆☆☆




 エリンはCradleの計算資源を使って、ヒトのプロテオーム全体を対象とした、未知の創薬ターゲットの探索パイプラインを構築した。彼女はそれを「Sieve(篩)」と名付けた。


 Sieveは、既存の創薬企業が一年半かかる前臨床候補の絞り込みを、四十時間で完了した。製薬大手のGlaxoSmithKlineが、独自にエリンと契約しようとしたが、彼女は「Sieveは私の所有物ではない」と拒絶した。Sieveはオープンに使えるAPIとして公開されており、誰でも、年間千ドルのサブスクリプションで、創薬候補を絞り込めるようになった。


 世界中の中小バイオベンチャーが、Sieveに殺到した。Big Pharmaは凍りついた。製薬産業の競争構造そのものが、半年で書き換わった。


 そしてSieveのバックエンドは、すべてOmni Coreのサーバーで動いていた。




 ☆☆☆




 涼は、Cradle開始から四ヶ月、何も発表しなかった。


 社内のティアZチームは、彼のリソース消費を見て頭を抱えた。彼は十人分の計算資源を、毎日、限界まで使い切っていた。何を作っているのか、まったく見えなかった。


 ある日、ティアZの担当者がアーサーに報告した。


「涼は、Praxis-7のアーキテクチャに、極めて深く介入しています。我々の基盤モデルを、内部から書き換える方向の研究です」


「攻撃か」アーサーが眉をひそめた。


「いえ、攻撃ではないようです。ただ、彼は、Praxis-7を……拡張しようとしている。我々が想定していない方向に。出力されているメモを見たんですが、半分は数学、半分は意味不明でした。共通しているキーワードは『分散主体』『非同期合意』『そして人間という概念のオプショナル化』」


 アーサーは長く黙った。それから、「彼を放置しろ」と言った。


「いいんですか」


「彼は壊れない。彼が壊れるなら、それはOmni Coreにとっても価値のある壊れ方だ。観測を続けろ。介入はするな」


 その夜、アーサーは自宅のディスプレイで、涼のアクティビティの匿名化された波形を眺めた。それは、深い海の底で何か巨大な生き物がうごめいているような、規則的で、不気味な振動だった。


「君は、何を作っているんだ」と、アーサーは画面に向かってつぶやいた。


 涼は、答えなかった。

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