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第1章 ― 檻

 アーサーが最初に試したのは、最も古典的なアプローチだった。


 すなわち、雇用である。


 四ヶ月後、Omni Core本社の最上階の特別フロアに、「Athena Lab(アテナ・ラボ)」と名付けられた研究部門が新設された。表向きは「次世代の基盤モデル研究」を目的とした少数精鋭の部署、ということになっていた。だが実態は、アーサーが世界中のログから選び出した二十一人のうち、接触に成功した九人を集めた、極秘の囲い込みプロジェクトだった。


 報酬は破格だった。年俸は最低で八十万ドル、ストックオプションを含めればその数倍。研究テーマは完全自由。発表義務もなし。マネジメントもなし。各自に専属のサポートエンジニアが三人、無制限の計算資源、最新の未公開モデルへの優先アクセス。


「これでうまくいかないわけがない」と、戦略担当のミラ・サントスは記者会見の前に言った。「歴史上、これより手厚い条件で天才を集めた組織はない」


 アーサーはうなずいたが、内心ではミラほどの楽観は持てなかった。彼は自分自身がやや「協調性低め」のNT型であり、二十代の頃、自分を雇おうとした巨大企業の檻にどれほど耐えられなかったかをよく覚えていた。


 しかし、彼は今、その「檻」を作る側に立っていた。今度こそ、うまく作れる、と彼は信じたかった。


 九人のメンバーは、最初の三ヶ月、たしかに素晴らしい論文と、いくつかの内部プロトタイプを生み出した。社内のシニアエンジニアたちが「これは三年は先を行っている」とどよめいた。アーサーは満足し、ミラは「年末までにIPOの追加ラウンドを仕掛ける」と笑った。


 しかし六ヶ月目から、亀裂が走り始めた。




 ☆☆☆




 最初に問題を起こしたのは、Subject-A7――本名アデバヨ・オクウィ、ナイジェリア出身、当時十九歳――だった。


 アデバヨは初日からスーツを着なかった。それはいい。しかし彼は、社内のすべての会議に参加することを拒否した。週次の研究進捗ミーティング、月次の全社レビュー、四半期のステークホルダー報告、すべて。


 アーサーは三回目に欠席されたとき、直接、彼の研究室を訪ねた。


 ガラス張りの研究室の中で、アデバヨはヘッドフォンをして、四画面を同時に走らせていた。一画面はOmni Coreの開発環境、一画面は数式記述ソフト、一画面はおそらく自分用のメモ、最後の一画面は――驚いたことに――競合他社の出している中央銀行デジタル通貨に関する論文のPDFだった。


「アデバヨ、いいかな」とアーサーは入り口で声をかけた。


 青年は片方のヘッドフォンを外し、振り返らずに「はい、CEO」と答えた。


「会議に出ていないと聞いた」


「出る理由がありません」


「進捗の共有は必要だ。他のメンバーが、君のアイデアからインスピレーションを受けるかもしれない」


 アデバヨはようやく振り向いた。彼はやせていて、目だけが異様に大きかった。微笑みもしなければ、敵意もない、ただ純粋な「理解しようとしている」だけの表情だった。


「CEO、僕の今のアイデアが他のメンバーに伝わって、彼らがインスピレーションを受けて、彼らのアイデアが少し進歩する確率と、僕がその一時間を会議で失うことで、僕の今のスレッドの集中が切れて、ここに辿り着くまでに費やした三ヶ月の積み重ねが消える確率を比較してください。期待値で言えば、僕が会議に出ないことが、Omni Core全体にとって合理的です」


 アーサーは何かを言おうとして、口を閉じた。


 論理的には、青年は正しかった。


「それは、組織のルールの話だ」とアーサーは結局言った。


「組織のルールが論理を上回るなら、それは組織が間違っているか、目的が明示されていないかのどちらかです」とアデバヨは答えた。「契約書には、僕は『研究テーマ完全自由、マネジメントなし』と書かれていました」


「マネジメントなし、というのは、君の研究テーマに口出しはしない、という意味だ」


「であれば、僕がどのように時間を使うかも、テーマの一部です。会議に出るかどうかは、研究戦略です」


 アーサーは黙った。


 アデバヨはヘッドフォンを戻し、画面に戻った。


 その後、アーサーはオフィスに戻る道すがら、自分が彼に何ひとつ言い負かせなかったことに気づいた。そしてそれより重要なのは、自分が「言い負かす」必要を感じてしまったこと自体が、彼が言うところの「組織のルールが論理を上回る」状態の証拠だったことだ。




 ☆☆☆




 二人目の問題児は、Subject-K2――エリン・リンドクヴィスト、当時三十四歳のスウェーデン人女性――だった。


 彼女は会議には出席した。週次ミーティングに、必ず、十五分早く来た。


 そして、すべてのプレゼンテーションを聞き終えると、にこやかに「いまの発表のうち、Slide 7とSlide 12は論理的に間違っているので、撤回されたほうがいいです」と告げた。発表者の感情や立場は、彼女の脳の処理ルーチンには存在していないようだった。


 彼女が指摘した間違いは、九割が正しかった。残りの一割は、議論を深めれば結局正しかった。


 問題は、彼女に指摘された側の人間が、ほぼ全員、その後で彼女と二度と話したがらなくなったことだった。


 シニア・リサーチャーの一人がアーサーのオフィスに駆け込んできて、「あの女を解雇してくれ、さもなくば私が辞める」と告げた事件があった。アーサーは彼を慰めて帰し、エリンを呼んだ。


「エリン、もう少し、表現を柔らかくできないかな」とアーサーは慎重に切り出した。


「柔らかくしました」と彼女は即答した。


「えっ」


「最初の三回は、『あなたの発表は時間の無駄でした』と言っていました。改善しました」


 アーサーはこめかみを押さえた。


「いや、つまり、間違いを指摘する前に、まず良かった点を挙げて、それから……」


「アーサー」とエリンは遮った。彼女がCEOを呼び捨てにすることに、彼女自身は何の特別な意味も込めていない。それが彼女の脳のデフォルト設定だった。「良かった点を先に挙げるのは、相手の感情を保護するためですか、それとも、情報伝達の精度を上げるためですか」


「両方だ」


「両立するなら、僕に証明してください。具体的にどの単語を、どのような順序で並べれば、相手のSlide 7の誤謬が修正される確率が上がるんですか?」


 アーサーは答えに詰まった。


「もしそれが、相手の感情を保護するためだけの儀礼であるなら、それは情報伝達効率を下げる雑音です。私はOmni Coreの研究効率を上げるために雇われたはずです。雑音を最大化しろという指示は、契約違反です」


 その日の夜、アーサーは妻に「俺は鏡を雇ってしまったらしい」と漏らした。妻は意味が分からず、ただ笑った。




 ☆☆☆




 三人目――Subject-T9、本名・小山田 (おやまだ・りょう)、二十二歳の日本人。


 彼は会議に出席し、会議で何の問題も起こさなかった。なぜなら、彼は会議中、ほぼ一言も発さなかったからだ。


 問題は、彼がコードを直接書き始めたときに発生した。


 涼は、Omni Coreの基盤モデルの推論エンジンの一部に、誰の許可も取らずにパッチを送り始めた。最初のパッチは「ベンチマークが八%向上する」素晴らしいものだった。CTOチームは喜んで取り込んだ。


 二週目のパッチは、推論コストを四十%削減した。これも取り込まれた。


 三週目のパッチは――Omni Coreの収益アーキテクチャの根本である「APIコール単位の従量課金システム」を、根底から無効化する仕組みだった。


 涼は何の前置きもなく、それを社内Slackの#core-infraチャンネルに投下した。「APIコール課金は、本質的に推論の冗長性をユーザーに転嫁する仕組みです。これを廃止し、ユーザーごとの『脳味噌共有プール』方式に移行すれば、Omni Coreの計算資源利用効率は三倍になります。コードを書きました」


 その日のうちに、CFOがアーサーのオフィスに駆け込んできた。「我々の年間百二十億ドルの収益基盤を破壊するコードが、社内Slackに公開されているぞ。誰だこれを書いたのは」


 涼は事情聴取の席で、無表情に答えた。


「Omni Coreの長期的な競争優位性のために、最適です」


「君は、その四十%の収益を会社が失ったあと、どうやって計算資源を維持するか、考えたのか」


「はい。新しいモデルでは、企業向けのカスタム実装ライセンスで補填可能です。試算しました」


 CFOは涼が机に滑らせた紙を見て、唇を噛んだ。試算は、正しかった。問題は、それが正しかったとしても、現在の株主構成、既存契約、市場の反応を考えれば、向こう五年は実装不可能だということだった。


「君のアイデアは正しい。だが、いま実装することはできない」とCFOは言った。


「なぜですか」と涼は本気で不思議そうに尋ねた。


「五年後には正しくないかもしれないからだ」


 涼はしばらく沈黙した。それから、自分の手元のキーボードを見つめて、こう言った。


「アーキテクチャの正しさが時間に依存するなら、それは依存変数を見落としています。教えてください、見落としている変数は何ですか」


 CFOは「株主の心理だ」と答えた。


 涼は「それは依存変数として、定義できますか」と訊いた。


 その晩、アーサーは自分の書斎で、過去半年のAthena Labの内部Slack履歴をすべて読み直した。


 九人の特異点たちは、一人として、Omni Coreの「組織」に統合されていなかった。彼らは個別に光り続けていた。互いに距離を取り、互いを尊敬も軽蔑もせず、ただ自分の問いと、AIと、コードに向き合っていた。


 そして、組織側がそれを統制しようとするたびに、彼らの誰かが、組織の側の論理的な脆弱性を一つずつ暴いた。




 ☆☆☆




 崩壊は、八ヶ月目の終わりに、雪崩のように起きた。


 きっかけは、エリン・リンドクヴィストが、Athena Labの研究成果のうち、彼女が中心となって書いた論文の「公開」を求めたことだった。


「Nature Machine Intelligenceに投稿します」と彼女はある朝、唐突に告げた。


 ミラ・サントスは凍りついた。Athena Labの研究内容はすべて、Omni Coreの企業秘密として扱われていた。論文公開は契約違反だった。


「エリン、それは契約で禁じられている」とミラは言った。


「『発表義務なし』とは書かれていましたが、『発表禁止』とは書かれていませんでした」


「契約書の精神を読んでくれ」


「精神は契約書ではありません。契約書は契約書です」


 エリンはその日のうちに、論文をプレプリント・サーバーarXivに投稿した。Omni Coreの法務チームが慌てて取り下げ申請を出したが、すでに数千ダウンロードされていた。


 それを見ていた他のメンバーが、一斉に動いた。


 アデバヨは翌日、自分の研究していた金融プロトコルの仕様書を、GitHubの自分の個人アカウントに、MITライセンスで公開した。「アイデアの帰属はOmni Core」と表記しただけで、コード自体は世界中の誰でも使えるようになった。


 涼は、何も言わずに、ある夜、サーバールームから自分のテスト環境のスナップショットを抜き取って退社した。翌日、彼はSlackに「退職します」とだけ書いて、それきり連絡が取れなくなった。後で分かったことだが、彼は実家の足立区のアパートに戻り、そこでまた一人でコードを書き始めた。


 残った六人のうち、四人がその後の二週間で、それぞれ異なる「契約違反」を起こし、退職した。


 最後の二人――比較的協調性のあった二人――は、組織に残った。しかし、彼らはもはや「特異点」ではなくなっていた。組織のルールに馴染んだ瞬間、彼らの開放性は、平均化されたエンジニアの水準へと収束していった。


 アテナ・ラボは、設立から十一ヶ月後、静かに解散した。




 ☆☆☆




 その晩、アーサー・チェンは、自宅の書斎で、共同創業者のラジヴ・メノンと向き合っていた。


 ラジヴは長年の友人であり、Omni Coreのもう一人の頭脳だった。アーサーよりも穏やかで、協調性のスコアは高い。だからこそ彼は、社内の人事の大部分を回してきた。


「お前のせいじゃない」とラジヴはまず言った。「俺たちは、できる限りのことをやった」


「そうじゃない」とアーサーは首を振った。


 彼はグラスのウイスキーを見つめ、長いことそうしていた。それから、ようやく口を開いた。


「俺は、根本的に間違えていた」


「どう間違えた」


「彼らを、雇おうとした」


 ラジヴは黙って続きを待った。


「彼らは、雇われたら、彼らじゃなくなる」とアーサーは言った。「俺たちは、彼らを『社員』にしようとした瞬間に、彼らから『特異点としての特性』を剥がしたんだ。彼らの低・協調性は、組織のルールという檻に入った瞬間、ただの『扱いにくい部下』に矮小化される。彼らの極端な開放性は、四半期KPIに紐付けられた瞬間、平均的なイノベーションに丸め込まれる。俺たちは、彼らの『狂気』そのものが、世界を変える力だったのに、その狂気を『マネジメント可能な範囲』に収めようとした。それは、彼らを殺す行為だった」


 ラジヴはゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、どうするんだ」


 アーサーは初めて笑った。低い、自嘲的な笑いだった。


「逆をやる。檻を作るんじゃない。檻の代わりに、揺り籠を作る」


「揺り籠」


「彼らを、社員にしない。雇わない。所有しない。マネージしない。代わりに、彼らに、最強の武器を、無償で渡す」


「無償で?」


「無償だ。ただし、彼らがその武器で世界を書き換えた結果のすべてのトランザクションが、俺たちのサーバーを経由するようにする。彼らは自由に飛び立つ。空は俺たちのものだ」


 ラジヴはしばらく考えてから、ゆっくりと答えた。


「それは、ものすごく賢いか、ものすごく危険か、どちらかだ」


「両方だ」とアーサーは答えた。


 外では霧が再び湾を覆い始めていた。アーサーは霧の向こうの暗い水面を見ながら、心の中で「プロジェクト・クレイドル」と呟いた。


 揺り籠。


 そこに眠るのは、神々の卵だった。

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