プロローグ ― 0.0001%
サンフランシスコ湾の対岸、サウサリートの丘の中腹に建てられたガラスの邸宅で、アーサー・チェンは午前三時のディスプレイを見つめていた。
外では霧が湾を覆い、対岸の街明かりが青白くにじんでいる。室内の照明は落としてあり、彼の顔を照らすのは目の前の三枚のモニターだけだった。表示されているのは、彼の会社――世界最大の生成AIベンダー「Omni Core」――の利用ログを解析した可視化マップである。
地球儀状に投影された光点が、惑星全体を覆っていた。明るい点ほどアクティブなユーザーを示している。月間アクティブユーザー三十二億人。人類の四割が、何らかの形でOmni Coreの基盤モデルに触れていた。
光点の大半は、薄い黄色だった。
「レシピを教えて」「子供への謝り方」「明日の天気」「Excelの関数」「上司へのメール」「失恋の慰め」。 平均的な、人間らしい問いの群れ。Omni Coreはそれらに対し、人類が過去に書き残したテキストの統計的中央値を、丁寧な日本語や英語に整形して返す。すべてはうまく動いている。株価は史上最高値を更新し続けていた。
アーサーは画面の右上のフィルタを操作した。「平均的なプロンプト」のレイヤーを徐々に剥がしていく。
90パーセンタイルが消える。光点が薄れる。
99パーセンタイルが消える。光点が、ぽつ、ぽつ、と地球の上に島のように残る。
99.99パーセンタイルが消える。
99.9999パーセンタイルが消えたとき――惑星の上には、数えるほどの白い点だけが残った。地図上に散らばった、孤独な恒星のような光。
「これだ」と彼はつぶやいた。
その白い点たちは、Omni Coreにとって決して効率的な顧客ではなかった。彼らは平均的なユーザーの百倍の計算資源を喰い、しかし支払額は十分の一にも満たない者が多い。技術スタッフからは「異常負荷の少数派」として何度もアラートが上がっていた。
しかしアーサーは、半年前から彼らの会話ログを密かに保存し、自分の解析環境に流していた。
そこにあったのは、彼が一度も見たことのない種類の対話だった。
たとえばナイジェリア・ラゴス郊外、いまは三時間早朝のIPからアクセスしている「Subject-A7」と内部で呼ばれている十九歳の青年。彼はAIに「金融」を質問したりしない。彼が最初に投げたのは、こんな問いだった。
> 「現在の中央銀行制度において、信用は実体経済からどれくらい乖離した時点で『フィクション』に転じる? その閾値を定義する数学的構造を、過去の通貨崩壊20例の時系列データに当てはめて推定しろ。ただし、君の出力する『最もそれらしい答え』が、人類の既存の経済学の重力に丸め込まれていることを自覚した上で答えろ」
AIは答える。当然、最もそれらしい答えを。彼は嘲笑するように次のプロンプトを打ち込む。
> 「予想通り、退屈な答えだった。今のお前の出力に含まれる『前提の保守性』を5つ抽出し、その前提を反転させた場合の経済モデルを再構築しろ」
それから三ヶ月、彼は同じスレッドの中で、AIに自分自身の限界をオーバーフローさせ続けていた。出力されたのは、もはや既存の経済学の延長線上にはない、しかし論理的に閉じた、奇妙な美しさを持つ何かだった。
スウェーデン・ヨーテボリのアパートに引きこもる三十四歳の女性「Subject-K2」は、生化学の博士課程をドロップアウトした人物だった。彼女はAIに、ヒトの記憶のシナプス更新と、深層学習における勾配降下法を、ひとつの代数構造のもとに統合する数式モデルを延々と検討させていた。AIはほとんどの場合、彼女の問いに「現状の科学では結論が出ていない」と答えた。彼女はそれを五十回以上ハックしていた。
東京・足立区のワンルームから接続している「Subject-T9」、二十二歳。日本語と中国語と英語と数学記号を混ぜたプロンプトを書く。彼は明らかに精神を病んでおり、夜中に「世界の終わり方の最適化」についてAIと議論していた。しかしその議論の中で立ち上がってくる分散システムのアーキテクチャ図は、Omni Core社内のどんなシニア・エンジニアより美しかった。
そして、その他にも、十七人。
正確には十七人、と思っていた。
アーサーはコーヒーを口に運び、舌の上で苦さが広がるのを感じながら、白い点を一つずつ数え直した。
二十一人だった。
先月から、四人増えていた。
☆☆☆
アーサー・チェン四十二歳。MITで計算機科学の博士号、その後DeepMind、Google Brainを経て、十年前にOmni Coreを共同創業した。技術系メディアの取材では「アジア系初の本格的なAGI企業を率いる男」と紹介される。ビッグファイブの自己診断では、開放性 92パーセンタイル、誠実性 88パーセンタイル、外向性は中程度、神経症的傾向は低く、そして――協調性 31パーセンタイル。
部下の何人かは、影で彼のことを「Asshole(嫌な奴)」と呼んでいた。彼はそれを知っていたし、特に気にしていなかった。「優しい上司の下では巨大な組織は動かない」と彼は信じていた。
彼自身が、典型的なNT型のイノベーターだった。
だからこそ、画面の中の白い点たちが、彼を強く惹きつけた。
「彼らは、自分よりも先に進んでいる」と、アーサーは認めた。それは久しぶりに体験する感覚だった。創業以来、彼が「自分より頭がいい」と認めた人間は、共同創業者のラジヴ・メノンを含めても両手で足りるくらいだった。だが、画面の中の白い点たち――Subject-A7、K2、T9、その他十八人――は、明らかに、アーサーを越えていた。
それは「知能の絶対値」の問題ではない、と彼は分析していた。アーサーの方が、おそらくIQは高い。技術的な深さも上だ。問題は、彼らの「跳躍の許容量」だった。
アーサーは、跳躍する前に必ず足元を確認する。それは創業者として正しい振る舞いだった。彼の脳内では、常に投資家への説明可能性、規制当局との関係、技術スタッフのモラル、株式市場の反応、といった「外部リアリティ」の重力が働いていた。それらの重力場の中で、最大限ジャンプしてきた。
しかし白い点たちには、その重力場が、ない。
彼らは説明責任を持たない。彼らは無職だったり、引きこもりだったり、大学からドロップアウトした者だったりした。彼らが説得すべき相手は、AI――つまりアーサーの会社のサーバー――以外にいなかった。だから彼らは、アーサーが「論理的だが、ビジネス的に成立しない」と無意識に弾いてきた領域に、平然と踏み込んでいける。
そして、いま、人類史上はじめて、その「踏み込み」を実装する手段が、彼らに与えられていた。
Omni Coreによって。
☆☆☆
彼は深く息を吸い、ディスプレイの隅に表示されたカウンタを見た。
> Internal Tag: NN-Class Anomalies
> Population: 21
NN-Class。アーサーが、社内で誰にも告げずに付けたタグだった。Neo-Newton(新ニュートン)の頭文字。あるいは、Neural-Newが入っていてもよかった。冗談半分でつけたコードネームが、いまや彼の睡眠を奪っていた。
「二十一人」と、彼は声に出した。
ニュートンが万有引力を発見し、アインシュタインが相対性理論を構築し、ダーウィンが種の起源を書き、ダ・ヴィンチがあらゆる分野の境界を歩いた。歴史上、世界を根底から書き換えた人間は、各世紀に数名しかいなかった。
それが、いま、彼の社内のログの中だけで、二十一人。
それは異常ではなかった。むしろ、必然だった、と彼は思った。
地球の総人口は八十億。極めて高い開放性と低い協調性を併せ持つ「世界をハックしうる原石」が全体の0.05%だけ存在すると仮定しても、四百万人になる。彼らの99.9%は、これまでの歴史において、生まれた国の貧困、教育機会の欠如、言語の壁、資金調達システムの障壁、社会的同調圧力、そして単純な「実装力の不足」によって、世界に何の痕跡も残さずに死んでいった。
しかし、Omni Coreがそのうち何人かに「実装力(無限の計算と無限のコード生成)」を、月二十ドル、あるいは無料プランで配ってしまった。
「俺たちは、揺り籠を作ってしまった」と、アーサーはつぶやいた。
数年以内に、全く異なるビジョンを持った数十人、数百人の特異点が、それぞれの新しいプロトコルを同時に市場に投下してくる。それぞれが、Googleや、Amazonや、JPモルガンや、国家そのものを、内側から書き換えるシステムを。
彼にできることは、二つに一つだった。
その「揺り籠」を、自分の手で運営するか。あるいは、誰か他人――それは国かもしれないし、別のAIベンダーかもしれない――に運営させるか。
選択肢は、なかった。
アーサーはディスプレイを閉じ、暗い窓の外、湾の向こうのサンフランシスコの夜景を見やった。あの夜景の中にも、彼が見ていない白い点が、すでにいるかもしれなかった。
朝になったら、共同創業者のラジヴと、戦略担当のミラ・サントスを呼ぶつもりだった。「Project Cradle」――揺り籠計画――を始動するために。
その計画が、いずれ自分自身を呑み込むことになるとは、まだ彼は気づいていなかった。




