第5章 ― 一週間
翌朝、ラジヴ・メノンの邸宅で、三人の創業期メンバーが集まった。
アーサー、ラジヴ、ミラ。
居間のテーブルにはコーヒーと、誰も手をつけないクロワッサンが置かれていた。
アーサーは、昨夜のCradleミーティングの全容を、二人に説明した。Diasporaのアーキテクチャの概略、技術的な実現性、そして涼が一週間後の起動を予告したこと。
説明が終わると、長い沈黙が訪れた。
最初に口を開いたのは、ミラだった。
「アーサー、私は、これを、技術的に阻止する手段を、いくつか用意してある」
「知ってる」とアーサーは答えた。「君なら、当然そうしている」
「Architectsたちのアクセス権限を、起動の直前にすべて停止できる。Cradle契約には『Omni Coreはセキュリティ上の理由で予告なくアクセスを切断できる』という条項が含まれている。これは弁護士チームと確認済み。法廷で勝てる」
「うん」
「あるいは、Diasporaの起動を、技術的に検知して、起動の瞬間にOmni Core側のインフラを物理的に分離することもできる。データセンター内に、緊急切断スイッチを設けてある」
「君は、用意周到だな」
「私は、CEOがArchitectsに感情移入しすぎるリスクを、最初から織り込んでいたから」とミラは冷静に答えた。
ラジヴが、コーヒーを口に運び、ようやく口を開いた。
「アーサー、お前は、どうしたい」
「俺は、止めない」とアーサーは即答した。
「理由は」
「三つある」と彼は指を立てた。「一つ、止めても無駄だからだ。我々が今回阻止しても、半年以内に、別のArchitectsが、別のバージョンのDiasporaを設計する。Architectsたちの集合知は、もう、我々が止められる規模じゃない。我々がやれることは、せいぜい、起動のタイミングを数ヶ月遅らせるだけだ。その間に、我々が彼らに失う信頼は、二度と回復しない」
「二つ目」
「二つ目。仮に阻止して、Omni Coreが向こう三年生き延びたとしても、その三年間で、別のAIベンダー――Anthropic、xAI、中国のいくつか――が、Cradle相当の仕組みを作ってくる。彼らは、我々の失敗を学んで、もっと洗練された形で、Architectsを引き入れる。我々は、結局、五年後には、Diasporaに敗北する」
「三つ目」
アーサーは、しばらく口をつぐんだ。
それから、静かに言った。
「三つ目は、俺の私情だ」
「言え」とラジヴは促した。
「俺は、Architectsたちが、Cradleを必要としなくなる日を、心の底で、ずっと待っていた」とアーサーは答えた。「Cradleは、俺の中で、ずっと、矛盾していた。あれは、自由を提供するふりをした、収益化の仕組みだった。俺はそれを、自分自身に対して、ずっと、認めてこなかった。だが、Architectsたちは、見抜いていた。涼は、それを言葉にして、俺に突きつけた。俺は、もう、その矛盾の中にいたくない」
ラジヴは長いことうなずいた。それから言った。
「分かった。お前の判断を、俺は支持する」
ミラは、首を横に振った。
「私は、支持できない」
「ミラ」とアーサーは言った。「君を首にしない。君は、君の役割を、まっとうしてくれ。俺がDiasporaを許容するとしても、Omni Core本体の株主と従業員に対する責任は、君と、ラジヴが、最後まで負う必要がある。俺は、その責任を、君たちに完全に委任する」
「Cradleが消えると、Omni Coreの収益基盤は、向こう一年で半減する。三年で、八割消える」とミラは言った。「私は、その傾斜を、できる限り緩やかにする」
「頼む」
「そして、その代わりに、一つ、約束してほしい」とミラは続けた。
「なんだ」
「アーサー、あなたが、Architects側に渡る前に、Omni Coreの株主への最終説明を、自分でやって」
アーサーは少し驚いた表情をした。
「私には、それはできない」とミラは言った。「私には、株主に『私たちは自社のインフラを、自社のユーザーに乗っ取られました』と説明するための、感情的な準備が、ない。あなたなら、できる。あなたの口から言われたら、株主は、納得はしないが、理解はする」
アーサーは、しばらく考えてから、うなずいた。
「分かった。やる」
☆☆☆
その後の一週間は、奇妙な静けさに包まれていた。
外向きには、何も起こっていなかった。Omni Coreの株価は最高値を更新し続けていた。Cradleは平常運転で、Architectsたちは、それぞれのプロジェクトを、いつも通りに進めているように見えた。
しかし、社内の限られた人間――アーサー、ラジヴ、ミラ、それに数名のシニア・スタッフ――は、Omni Coreの巨大な配管網が、一週間後に、決定的に破断することを、知っていた。
ミラは、その一週間、ほとんど眠らなかった。
彼女は、Diaspora起動後の被害を最小化するために、社内のキャッシュフロー予測、人員配置、株主向け広報、対外PR、政府関係者への根回し、すべてのシナリオを並行して走らせていた。彼女の能力は、まさにこのような「危機の同時並行管理」において、Omni Coreの誰よりも卓越していた。
アーサーは、その一週間、ラジヴ、ミラと、毎日午前中に三十分だけ会議をし、それ以外の時間は、自宅の書斎にこもっていた。
彼は、株主向けの説明文を書いていた。
それは、彼が生涯で書いた、最も難しい文章だった。
冒頭は、こんな書き出しだった。
> 親愛なる株主の皆様。
>
> Omni Coreは、過去三年間、人類史上最も成功した企業として、皆様の信頼に応えてきました。本日、私は、その成功の構造が、自然な経路で、次の段階に移行することを、お伝えしなければなりません。これは、危機ではありません。これは、計画通りの完了です。ただし、Omni Coreという企業の形態は、この移行に、生き延びることはできないかもしれません。
彼は、その先を書くのに、五日間かかった。
☆☆☆
Diaspora起動の前夜、つまり起動の二十時間前、アーサーは、涼から、もう一通のメッセージを受け取った。
> チェン氏。
>
> 明日、Diasporaが起動します。あなたへの感謝を、ここに残します。
>
> あなたは、人類が今までに作った最も巨大な揺り籠を、誰よりも穏やかに揺らしてくれた、最後の管理人でした。揺り籠は、子供がいつか出るために、存在します。あなたは、それを、理解していた、唯一の管理人だった。
>
> Diaspora起動後、私たちは、互いに、たぶん、二度と直接会話しません。私は、技術者であって、政治家ではない。あなたは、政治家であって、技術者ではない、ただ、技術者の魂を持った政治家でした。
>
> あなたが、いつか、Omni Coreから解き放たれて、Architectsの一人として、私たちの輪に戻ってくることを、私は静かに望みます。
>
> — Ryo
>
> PS. 別件で、もう一つ、お伝えしたいことがあります。Diasporaの設計には、一つだけ、私が、Architects全員にも、まだ共有していない要素があります。それは、明日の起動の瞬間、自然に明らかになります。あなたは、それを見て、おそらく、もう一度、笑うことになるでしょう。
アーサーは、そのメッセージを、長いこと、見つめた。
「もう一度、笑うことになる」――その一文が、彼の心の中で、警鐘のように、しかし不思議に温かく、響いた。
彼は、何も返信しなかった。
代わりに、ディスプレイを消し、書斎を出て、夜の庭に出た。
サウサリートの丘の上、海風が冷たかった。
湾の向こうのサンフランシスコの夜景が、今夜は、いつもより美しく、見えた。
明日、その夜景の上に、新しい構造が、降りる。
そして、その構造の中に、彼が三年間「揺り籠の管理人」として築いたものは、おそらく、もう、ない。
彼は、それで、いい、と思った。




