第2話「身代わりの花嫁、天の高みへ」
後宮の一角、翡翠の間と呼ばれる豪華な部屋で、玲玉は呆然と立ち尽くしていた。
白家の地下室とは比べものにならないほど広く、贅沢な空間。
絹のカーテンが風に揺れ、精巧な銀細工の香炉からは、心を落ち着かせる花の香りが漂っている。
だが、その贅沢さが、玲玉の不安をいっそうかき立てた。
先ほど、謁見の間で起こった出来事を思い出す。
皇帝は、玲玉が男であることも、身代わりであることも知った上で、彼をここに連れてくるよう命じたのだ。
『なぜ、私のような者を……』
玲玉は自分の細い指先を見つめた。
家族からさえ疎まれ、価値がないと断じられてきた存在。
そんな自分が、なぜ一国の主から「待ち続けた」などと言う言葉をかけられたのか。
「失礼いたします、白様」
扉が静かに開き、数人の侍女たちが中に入ってきた。
彼女たちは一様に恭しく姿勢を正し、玲玉に対して深々と頭を下げた。
「これより、お着替えと食事の準備を整えさせていただきます。陛下より、最高のおもてなしをするよう厳命されております」
「あ、あの……私は、白家の娘ではなく、ただの身代わりなのです。そんな、このような扱いをいただくわけには……」
玲玉が慌てて否定しようとすると、侍女の長らしき女性が穏やかに微笑んだ。
「陛下は、白様こそがこの国にとって最も尊きお方であると仰せです。私共はただ、その御心に従うのみでございます」
されるがままに、玲玉は重厚な衣装を脱がされ、湯殿へと案内された。
◆ ◆ ◆
湯から上がると、用意されていたのは真珠のような光沢を持つ最高級の絹の衣だった。
◆ ◆ ◆
温かい湯に浸かると、強張っていた筋肉が少しずつ解け、冷え切っていた芯にじんわりと熱が巡っていく。
けれど、心の中の霧は晴れなかった。
自分がこんな贅沢を許される存在だとは、どうしても思えなかったのだ。
袖を通せば、驚くほど軽く、そして温かい。
「よく似合っている」
突然響いた声に、玲玉はびくりと肩を揺らした。
振り返ると、そこには龍帝が立っていた。
重厚な正装を解き、薄い羽織をまとった姿は、謁見の時よりもいくぶん柔らかい印象を与える。
だが、その存在感は変わらず圧倒的だった。
「へ、陛下……」
玲玉は慌てて床にひざまずこうとしたが、その前に龍帝の腕が彼の体を支えた。
「畏まるなと言ったはずだ。ここでは、お前を縛るものなど何もない」
龍帝の手が、玲玉の頬に触れた。
その指先は驚くほど優しく、まるで壊れやすい宝石を扱うかのようだった。
「お前の名は、玲玉だったな。良い名だ。その名の通り、お前は美しく輝く玉だ」
「滅相もございません。私は……白家の地下で虫けらのように暮らしてきた者です。陛下が求められるような、高貴な人間ではございません」
玲玉は悲しげに目を伏せた。
自分に向けられる温かい視線に、どう応えていいのか分からない。
裏切られるのが怖くて、つい自分を卑下する言葉が出てしまう。
龍帝は低くつぶやき、玲玉の顔を真っ直ぐに見つめた。
「誰がお前を虫けらだと言った。白家の連中か。……案ずるな、もうあのような者たちにお前を触れさせはしない」
その瞳には、隠しきれない独占欲が滲んでいた。
αとしての本能か、あるいは龍としての性質か。
彼は玲玉を自分の腕の中に閉じ込め、誰にも渡さないと誓っているようだった。
「食事を用意させた。共に食べよう」
龍帝は玲玉の手を引き、円卓へと促した。
◆ ◆ ◆
並べられた料理は、どれも見たこともないほど豪華なものばかりだった。
玲玉が戸惑っていると、龍帝は自ら箸を取り、玲玉の口元へ料理を運んだ。
「ほら、食べてみよ。お前は少し痩せすぎだ」
「へ、陛下自らそのような……。自分で食べられます」
「朕がしたいのだ。拒むな」
強引だが、そこには確かな愛が含まれていた。
玲玉は恥ずかしさに顔を赤くしながらも、差し出された料理を口にした。
それは驚くほど甘く、体に染み渡るような味がした。
食事の間、龍帝は帝国の現状を語った。
大地が枯れ、人々の間に謎の病が流行っていること。
それを救うには、龍脈と共振し、気を浄化できる特別な存在が必要であることを。
「朕一人では、この国を支えきれぬ。お前の持つ清らかな力が、どうしても必要なのだ」
龍帝の言葉は重く、切実だった。
玲玉は初めて、自分が誰かに必要とされていることを知った。
単なる「道具」としてではなく、一人の「共鳴者」として。
「私に……できるでしょうか」
「お前ならできる。朕がお前を護る。お前の力が目覚めるまで、何度でも、いつまででも待とう」
龍帝は玲玉の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
玲玉の心に、小さな灯がともった。
それはまだ頼りなく、いつ消えてもおかしくない光だったが、冷え切っていた彼の人生に初めて訪れたぬくもりだった。
◆ ◆ ◆
夜が更け、玲玉は用意された巨大な寝台に横たわった。
龍帝は「今日はゆっくり休め」と言い残して去っていったが、彼の残した余熱がまだ部屋の中に漂っている。
『私は、愛されていい存在なのだろうか……』
玲玉は胸元を握りしめ、自分に問いかけた。
答えは出なかった。
けれど、暗闇の中、独りきりで眠っていた地下室の頃とは、何かが決定的に変わっていた。




