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王妃殿下の荒れた手②

王宮に着くまで、使者たちはほとんど口を利かなかった。

馬車の窓から見える町は、妙に静かだった。


王妃の死は、まだ公にはされていないのだろう。

広場にはいつも通り店が並び、人々は手頃なパンを買い求め、野菜の出来を確かめ、袖を引く子どもを叱っている。


人が一人死んでも、世界は止まらない。

王妃であっても、それは同じだった。


王宮の奥、白い石造りの離宮に通された時、そこにはすでに多くの人間が集まっていた。

神官、医師、侍女、葬儀を取り仕切る役人、近衛兵、貴族らしき老人たち。誰もが沈痛な顔をしていたが、その目は死者を見ていなかった。


「国葬の日取りは――」

「民衆に動揺を与えぬよう」

「王太子殿下を人前に出せる状態に」

「事故原因の発表は、まだ控えるべきだ」

「王妃殿下の美しい御姿を損なってはならん」


マチルダは、それらの声を聞き流した。

人が死ぬと、棺の周りにはよく人が集まる。けれど、その全員が死者を見ているとは限らない。


部屋の隅に、少年が立っていた。


誰よりも仕立ての良い、深い黒の喪服。

まだあどけなさの残る輪郭に反して、背筋の伸び方は不自然なほど大人びている。


まっすぐに下ろされた指先だけが、微かに震えていた。


王太子アレクセイ。


母親譲りなのだろう美しい顔立ちには、まだ子どもの柔らかさがある。

だが、マチルダを見据えるその瞳だけが、ひどく強張っていた。


「あなたが、死体いじりの魔女さんですか」


少年が尋ねた。


「ええ」

「母上を、母上の顔で送ってください」


その声は震えていなかった。

周囲の大人たちが、わずかに目を伏せる。

王妃の死を悼んでいるというより、その言葉が指す現実を聞きたくない顔だった。

ひどく壊れた顔を、元の顔で送る。

それは十二歳の少年が簡単に口にできる言葉ではない。


マチルダは少年を見下ろした。


「御母上を、見ますか」


周囲がざわついた。


「何を言う。殿下に御遺体を見せるなど――」

「依頼人は殿下でしょう」


マチルダは遮った。


「見ますか、殿下」


アレクセイの喉が小さく動いた。

それでも、彼は頷いた。


「……見ます」

「では、目を逸らさないでください」


優しい言葉ではなかった。けれど、アレクセイはもう一度頷いた。


白い布がめくられる。


その瞬間、部屋の空気が明らかに変わった。


侍女の一人が嗚咽を漏らした。

医師が唇を噛み、神官は祈りの言葉を早口に唱える。

役人たちは一斉に視線を逸らし、誰かが「やはり仮面で」と囁いた。


王妃の顔は、王妃のものではなくなっていた。


馬車の木片と鋭い硝子の破片が顔面を引き裂き、赤黒い肉を露わにしていた。

左の頬は潰れて骨が剥き出しになり、皮膚がべろりとめくれ上がっている。口元は大きく歪み、唇が横に裂けて折れた歯と血まみれの歯茎が覗いていた。

かつて美貌と讃えられた輪郭は無惨に崩れ、生前の姿を想像させることすら拒んでいる。


アレクセイの指が強く握り込まれた。爪が掌に食い込むほどだった。


マチルダは眉ひとつ動かさず、棺のそばへ進む。


「お初にお目にかかります、王妃殿下」


静かな声だった。


「ひどい道中でしたね」


アレクセイが、はっと顔を上げた。


マチルダは、王妃の崩れた顔から目を背けなかった。


損傷の程度や、皮膚の状態。更には骨の歪みを正確に見極めている。

けれど、そこにいるものを化け物や残骸として扱ってはいない。

昨日まで生きていた人間として、ただ普通に話しかけていた。


「少し触りますよ」


マチルダは顔に触れる前に、まず王妃の手を取った。

周囲がさらにざわめく。


「顔ではないのか」

「御顔を整えるために呼んだのだぞ」


マチルダは返事もせず、その手を真っ直ぐに見つめた。


王妃の手は、細かった。

長い指の先には、短く整えられた爪。

左薬指には指輪の跡だけが白く残っている。

誰の目にも、王妃らしい優美な手に見えたはずだ。


けれど、指先は硬い。


爪の端には、落としきれなかった土の色が深く沈んでいる。

手の甲には細かな傷がいくつもあり、掌には道具を握り続けた人間特有の厚みがあった。

香油の甘い匂いの奥に、乾いた土と草の匂いがわずかに残っている。


マチルダは少しだけ目を細めた。


「あら、王妃殿下」


そして、親しい隣人にでも語りかけるように続けた。


「私と似た手をされていますね」


部屋の空気が凍った。


「無礼な」


役人の一人が低く唸る。


「王妃殿下のお手を、そのように申すな」

「そのように、とは?」


マチルダは顔も上げず、手にした温かい布で王妃の指先を丁寧に拭い始めた。


「荒れているものを、荒れていると言っただけよ。恥ではありません。手を使って生きた人間の手ですもの」

「王妃殿下は、そのような――」

「土を触っておられましたね」


淡々と告げたマチルダの言葉に、誰かが息を呑んだ。


「薬草ではない。針仕事でもない……これは、鋏ですか?剪定鋏を長く握ると、ここが硬くなるから……」


マチルダは呟きながら、王妃の掌に触れた。


「ああ、手袋はお嫌いだったんですね。爪の端に土が残っていますよ。でも、仕方ないです。土汚れって落ちにくいですもんね」


そう言いながら、マチルダは王妃の爪の端を、布越しにそっと拭った。

その傍らで、アレクセイは呆然と母の手を見ていた。


――母の手。


彼はその手を知っているつもりだった。

白い手袋と宝石に飾られた、柔らかく美しい手。

アレクセイは、それが母の手なのだと信じていた。


荒れているなどと、疑ったことすらなかった。


『少し、指先が痛いわ』


いつだったか、手袋を外す時に母が小さくこぼした呟き。

あの時、自分は何と答えただろうか。

香油が合わないのではないかなどと、ひどく的外れなことを言った気がする。


「庭師は?」


マチルダが尋ねた。

誰も答えない。


「この方の庭を知っている者はいませんか」


部屋に、沈黙が落ちた。

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