王妃殿下の荒れた手①
森の奥には、死体いじりの魔女が住んでいる。
そう噂されるようになったのがいつからなのか、マチルダは知らない。
知ったところで、特に困らなかった。
魔女と呼ばれれば、余計な客は来ない。
村の子どもはからかい半分で小屋の近くまで来ても、独特の強い香りがする薬草の束と、洗ってもなお薄く赤茶けた布を見た瞬間に踵を返す。
大人たちも、用がなければ近づかない。
そのくせ用ができれば、夜中だろうが嵐だろうが戸を叩く。
熱い鉄を触りすぎて、皮膚が爛れた男に塗る軟膏。
深夜に徘徊を繰り返す老女に渡す眠り薬。
何日も熱が下がらない子供に飲ませる煎じ薬。
そして、死者の顔を整える仕事。
どれもマチルダにとっては、大して変わらなかった。
人間は生きている間も手入れがいる。
死んだあとだってそう。手入れは必要だ。
――ただそれだけの話。
「髭、伸びていますね」
その日も、マチルダは作業台の上に横たわる老人に話しかけていた。
彼は、ここから一番近い村でピアノの調律師をしていた男だった。
ひょろっとした細い体躯に似合わず、指だけは節くれ立ち、爪の端には古い黒ずみが残っている。
しかし、もう彼が話し返すことはない。
唇は乾ききり、肌の色とほとんど同じになっていた。
頬は深く落ち窪んで乾いた粘土のように艶を失っている。
指で触れると、皮膚の下が頼りなく沈んだ。
薄く開いた瞼の下に濁った瞳が覗いている。
昨夜息を引き取ったばかりだと聞いていたが、まだ腐敗は進んでいない。
扱いやすい状態だった。
「ご家族は剃ってほしいと言っていましたけど、あなた、生前からこうだったんじゃありません?」
マチルダは顔を近づけ、少しひしゃげた顎の髭を指先で軽く梳いた。
伸び方に乱れはない。放置した髭ではなく、本人が長くそうしていた髭だ。
家族が望む、きちんとした老人の顔ではないのかもしれない。けれど、長く音を整えてきた男の顔ではあった。
「はい、却下ね」
小さく呟いて、剃刀を脇に置く。
代わりに温めた布で頬を拭い、髭の流れを整えた。
頬のこけた部分には薄く詰め物を入れ、口元を自然に閉じる。
無理に笑わせることはしない。
死んだ人間にまで愛想笑いをさせる趣味はなかった。
「このくらいでいいでしょう。あなたの顔です」
そう言った時、戸が叩かれた。
トン、トン、トン。
妙に落ち着き払った、規則正しい音だった。
そもそも、こんな森の奥まで来る者は限られている。
薬を求める者か、死者を連れてくる者か、あるいは死者の扱いに困った者。
マチルダは手を拭き、扉を開けた。
外には、黒い外套をまとった男が二人立っていた。
外套の留め具には王家の紋章がある。
わざわざ隠したつもりなのだろうが、上等すぎる布地と磨かれた靴で、身分は隠しようがなかった。
「死体いじりの魔女は、お前か」
「まあ、よくそう言われますね」
「王宮より極秘の依頼だ」
マチルダは男たちの後ろに目をやった。
木々の間に、黒塗りの馬車が停まっている。
車輪にも扉にも、王家の紋章が彫られていた。
「極秘なら、そんな目立つ馬車で来ないことね」
男の片方が眉を吊り上げた。
「口を慎め。王宮からの使者だぞ」
「では王宮の使者らしく、用件を簡潔に」
マチルダは扉を大きく開ける気もなく、半身だけで男たちを見た。
男たちは不快そうに小屋の中を覗く。
天井から吊るされた干し薬草と畳まれた清潔な布。
クリーム色の蜜蝋が入った容器に、手入れの行き届いた針と糸。
用途ごとに木箱へ細かく仕分けられた顔料。
部屋に立ち込めているのは、ツンとした酢の匂いと、重たい油の香りだ。
そして薄暗い部屋の奥――広く頑丈な作業台の上には、頭まで布を被せられた老人が、静かに横たわっている。
使者の顔色が、少し悪くなった。
外套の襟元で、無意識に鼻と口を覆おうとする。
香水では誤魔化しきれない酢と油の匂いが、彼らの足元にまとわりついていた。
「……王妃殿下が身罷られた」
男の声が、一段低くなる。
「馬車の事故だ。御遺体の損傷が激しい。特に御顔が……そのままでは、とても葬儀に出せない」
「仮面を被せればいいのでは」
「その案も出ている」
「では、それで」
「王太子殿下が拒まれている」
マチルダは、扉にかけていた指を止めた。
「王太子殿下が?」
「母君を、母君の顔で送らせたいと」
マチルダは一度だけ小屋の中を振り返った。
老人の処置はもう終わっている。
あとは家族が迎えに来るだけだ。
「条件があります」
「報酬なら望むだけ出す」
「報酬は前払いで半分。残りは処置後。作業中に口を出さないこと。遺体を隠さないこと。顔だけでなく、きちんと全身を見せること。生前使っていた櫛、香油、衣服、装身具があれば用意すること」
その条件に、男たちは顔を見合わせた。
「王妃殿下の御遺体を、全身見るだと?」
「人間の顔は、顔だけでできていません。手、首、肩、髪、姿勢。全部見なければ、その人の顔には戻せません」
「王妃殿下だぞ」
「私が整えるのは、王妃という身分ではなく、この方が生きてきた身体です。すべて見せていただかなければ、仕事は引き受けられません」
使者たちは息を呑んだ。
マチルダは扉を閉めかけながら、淡々と付け足した。
「嫌なら仮面を」
「……支度をしろ」
使者の声は、吐き捨てるように苦かった。
「今すぐ王宮へ来い」
馬車に乗る前に、マチルダは作業台の老人へ戻った。
布を少しだけめくり、整えた髭の向きを確認する。
「お迎えまで、少し待っていてください」
もちろん、返事はない。
「すぐ戻るとは言えませんけど。まあ、あなたは急がないでしょう」
そう言って布を戻すと、マチルダは仕事道具を木箱に詰めた。




