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王妃殿下の荒れた手③

沈黙を破ったのは、部屋の最奥から進み出た老人の、控えめな足音だった。


豪奢な衣服に身を包んだ大人たちの中で、その男だけがひどく質素な身なりをしていた。

節くれ立ち、泥の染み込んだ手。

王宮の庭師だろう。


「……ございます」


嗄れた声だった。

だが、その響きには怯みがない。


「王妃殿下が、手ずから世話をなさっていた庭が」

「黙れ」


冷や水を浴びせるように、役人の一人が遮った。


「庭師風情が口を挟むな。今、そのような話は必要ない」

「話せ」


空気を震わせたのは、アレクセイの声だった。

決して大きな声ではない。十二歳の少年の、まだ細い声だ。

けれどそこには、誰も逆らうことのできない王太子としての威圧感があった。

役人が弾かれたように口を閉じる。


静まり返った部屋の中で、老庭師は深々と頭を下げた。


「王妃殿下は、夜明け前によく庭へお越しでした。はじめは手袋をなさっていたのですが、すぐに外してしまわれる。土の乾き具合は、素手でなければわからない、と」


アレクセイは、ただ耳を傾けていた。


「冬越しの弱い花も、よくご自分で見ておられました。剪定も、植え替えも。私どもがお止めしても、お聞きにならず」

「母上が……」


声が、震える。


「はい」


老庭師は少しだけ顔を上げた。


「殿下の十歳のお誕生日に贈られた青い花も、王妃殿下が種から育てられたものでございます」


アレクセイの瞳が揺れた。


――覚えていた。


銀の皿にのせられた、小さな青い花を。

母はそれを彼に渡して、綺麗でしょう、と微笑んでいた。


彼は、母らしい優雅な贈り物だと思っていた。

どこかの温室から選ばせた、美しい花だと。


あの白く柔らかな手が泥にまみれ、朝露の中で水をやり、枯れないように守ってくれたものだとは、知らなかった。


自分は母を愛していた。

母を失って、こんなにも苦しい。

それなのに、自分は母のことをどれほど知っていたのだろう。


マチルダはその沈黙の中で、王妃の手を拭き終えた。


「顔に入ります」


もう、誰も止めなかった。


マチルダは道具箱を開けた。清潔な布、細い針、糸、蜜蝋、詰め物、顔料、小さな木片、香油。

どれも飾り気のない道具だった。


「少し骨を戻しますよ」


マチルダは王妃に話しかける。


「痛くはないでしょうけど、乱暴にはしません」


作業は、静かに進んだ。

裂けた皮膚を針で寄せ、欠けた部分には蜜蝋で形を作り、潰れた頬の下に薄い木片の支えを入れる。

白く清潔な布で乾いた血を拭い、髪に絡んだ硝子片をひとつ残らず取り除く。


ときおり、部屋の誰かが耐えきれずに外へ出た。

けれどアレクセイは動かなかった。

マチルダは一度も、彼を褒めなかった。

一度も、目を逸らしていいとは言わなかった。


「ここは、少し跡が残りますね」


マチルダが王妃の目元に、そっと指を這わせる。


「でも、皺まで消す必要はないでしょう。よく笑われる方だったんですね」


侍女の一人が、たまらず嗚咽を漏らした。


「王妃殿下は、お笑いになると、目元が……」

「なら残します」


マチルダは淡々と告げた。


「顔は整える。嘘は塗らない」


その言葉に、アレクセイは息を止めた。

王妃の顔が、少しずつ戻っていく。

完全ではない。生前そのままではない。


死は、なかったことにはならない。


それでも、縫い合わされた傷の向こうから、アレクセイの知っている母がゆっくりと帰ってくる。


美しい人だった。


けれど、それだけではなかった。


目元の皺。

微笑みかけた時にできるえくぼ。

土を触っていた手。


アレクセイの知らなかった、朝の庭。


処置が終わる頃には、窓の外は薄く白み始めていた。

そこへ葬儀担当の役人が、銀の盆に王冠を載せて運んでくる。

金と宝石で飾られた、重い冠だった。

王妃が国葬で戴くべき、正式な装身具。


「王妃殿下の御髪を整え、こちらを」


マチルダは突き出された王冠を一瞥した。


「重そうね」


役人の眉がぴくりと動く。


「王妃殿下の正装です」

「死んだあとくらい、首を楽にして差し上げればいいのに」

「正式な葬儀です。王妃殿下は王妃として――」

「この方が育てた花は、まだ咲いている?」


マチルダは役人ではなく、老庭師を見た。

老庭師は驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。


「ございます。王妃殿下が最後まで気にかけておられた花が」

「持ってきて」

「なりません」


たまらず役人が声を荒げた。


「国葬では王冠を付けるのが慣例です。それを――」

「庭へ」


アレクセイの声が響いた。

役人が、弾かれたように振り返る。


「殿下」

「母上の庭へ。母上が育てた花を、摘んできてください」


それは子どもの願いではなかった。

王太子としての命令だった。

老庭師が深く頭を下げ、部屋を出ていく。

アレクセイも、その後を追った。


庭は、王宮の最奥にあった。

整えられた大庭園を抜けた先。人目につきにくい、壁際の小さな区画。

そこだけ、他の庭と少し違っていた。

飾るためだけの花ではない。薬草があり、まだ若い苗があり、添え木をされた弱い茎があり、手入れ途中の土もある。

小さな作業台には、汚れた手袋が置かれていた。

傍らには、使い込まれた剪定鋏。柄の部分が少しすり減っている。


アレクセイは、それに触れた。

冷たい金属だった。

けれど、さっきまでマチルダが拭っていたあの硬い指先が、今もここを握っているような気がした。

花も土も、今朝も世話をされるつもりで、そこにあった。


けれど、母はもう来ない。


「こちらでございます」


老庭師が案内した先に、薄い青の花が咲いていた。


「王妃殿下は毎年、殿下のお誕生日に花を一輪お贈りでした。こちらは、次のお誕生日にお渡しするのだと、種から育てておられたものです」


アレクセイは声を出さなかった。

ただ、その場に立ち尽くしていた。

花は小さく、王宮の装飾に使われるような華やかなものではない。

けれど、朝の光の中で静かに咲いていた。

母が育てた花。

母が、自分のために育てていた花。

アレクセイは震える指で、老庭師に教えられるまま、その花を摘んだ。

戻った時、マチルダは何も尋ねなかった。

受け取った花を一本ずつ確かめ、茎を整え、柔らかい枝で輪を作る。

編み上げられた花冠は、王冠のように完全な形ではなかった。

少し不揃いで、微かに土の香りがする。

けれど、王妃の髪にのせると、不思議なほどよく似合った。

マチルダは最後に、角度を直した。


「冠には違いありません」


役人が何か言いかけたが、もう誰も続けなかった。

棺の中の王妃は、王冠を戴いていなかった。

宝石も、重い金細工もない。

その髪を飾っていたのは、彼女が土に触れ、水をやり、夜明けの庭で育てた花だった。

王妃の顔は美しかった。

けれど、完璧な人形のようではなかった。

目元には笑った跡が残っていた。唇には、濃すぎない紅が差されていた。

そして布の上に置かれた手は、もう手袋で隠されていなかった。


荒れた指先。

細かな傷。

よく働いた掌。


アレクセイは、その荒れた掌から目を離せなかった。

初めて知る、母の手だった。


泣いてはいけない、と奥歯を噛み締める。

自分は王太子だ。

この後には国葬があり、母を喪った民の前に立たねばならない。

必死に喉の奥を力ませ、呼吸を殺して耐えようとした。


だが、もう無理だった。


瞬きをした拍子に、堪えきれなかったものが頬を伝う。

ぼたりと布の上に落ちた染みは、一度零れるともう止めようがなかった。


マチルダは慰めはしなかった。

ただその隣で、花冠の傾きを指先で直しながら言った。


「泣くなら今のうちよ、殿下」


アレクセイが顔を上げる。


「葬儀が始まれば、あなたは息子ではなく王太子になる」


厳しい言葉だった。

けれど、その厳しさだけが、今のアレクセイを立たせてくれた。


「……あなたの名前を」


アレクセイは涙を拭わずに問うた。

森の魔女でも、死体いじりでもない。母に最後まで話しかけてくれた、その人の名前を知りたかった。


「教えてください」

「死体いじりの魔女で通じます」

「名前を」


マチルダは少しだけ沈黙した。

そして、王妃の荒れた手を布の上にそっと整えながら答える。


「マチルダ」

「マチルダ」


アレクセイは、一度だけその名を繰り返した。

マチルダは、棺の中の王妃に視線を戻す。


「さようなら、王妃殿下」


花冠の端に触れ、静かに言った。


「よく働いた手でしたね」


王妃は答えなかった。

その朝、アレクセイは母を失った。

そして初めて、母がどんな人だったのかを知った。

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