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旋律に踊らされながら

 階段の下まで降りきったところで、ふいに肩へ手が触れた。

 驚いて振り向く。

 さっき廊下で会った二人のうち、少しだけ柔らかい目をしていた男が、こちらの肩口を見ていた。

「留め方がずれている」

 そう言って、返事を待たずに襟元へ手を伸ばす。動きは手早く、乱暴さがなかった。白い手袋の縁を整え、肩にかかった布の角度を直し、金の留め具をひとつ押さえる。


 自分を嫌っている相手ではないのだと、その短いやり取りだけで分かった。

「今夜は客が多い。立ち止まるなら、せめて壁際でやった方がいい」

 声は低い。だが責めるような響きではなかった。

「……ありがとうございます」

 そう返すと、彼は一瞬だけ目を上げた。薄い色の目だった。

「具合でも悪いのか」

「いや……」

 言葉を濁す。

 悪いと言えば、全部が悪い。だが、説明したところで、頭がおかしくなったと言われるのが容易に想像できた。

 彼は、それ以上は聞かなかった。

「父上の前では、ぼんやりするな。あと、アルベール兄さんは、今夜ずっと機嫌が悪い」

 それだけ言って、視線を前へ戻す。

 少し先を歩いていた、もう一人の兄が振り返る。

「ルシアン、何をしている」

 低くよく通る声だった。


 柔らかな目をした兄――ルシアンが、わずかに肩をすくめる。

「すぐ行くよ」

 その返答の調子で、二人のあいだの距離がなんとなく分かった。逆らっているわけではない。けれど、ただ従うだけでもない。兄弟仲が、少し垣間見れた。

 先を行く兄は、こちらを一瞥する。

「今夜くらいは、寝起きみたいな顔をするな」

 そのとき、背後から先ほどの老従者が静かに近づき、頭を下げた。

「アルベール様、旦那様がご兄弟のお揃いをお待ちです」

 アルベール。

 その名が、先を行く兄の背にぴたりとはまる。広間の灯りの中にいても、その人だけは、きらびやかさより先に重さがあった。

 アルベールは足を止めずに言う。

「弟たちは」

 老従者がすぐに答える。

「シリル様、フェリクス様は、先ほど養家の方々とご一緒に中ほどのお席へ。まもなく旦那様へご挨拶されるかと」

 シリル。フェリクス。会話の流れから、二人の兄の名前らしい。

 ルシアンが小さく息を吐く。

「今夜は、あの二人まで揃うから余計だな」

 それが誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。けれどアルベールは振り返りもせず、

「分かっているなら、急げ」

 とだけ返した。

 老従者が、こちらへ白い手袋を差し出す。

「若様」

 手袋を受け取る。絹の裏地が指先に吸い付く。こんなものをつけて、土も水も触れない手が出来上がるのだと、ふと思う。

 そのとき、広間の奥から笑い声が弾けた。

 つられてそちらを見る。燭台の光が、踊る人影の上で揺れていた。旋律の流れに乗って、何組もの男女がゆるやかに旋回している。扇を持つ女たちの輪の向こう、壁際には濃い緑の礼装を着た男が二人立っていた。年はアルベールより上に見える。

 片方が杯を手にしたまま、こちらへ視線を向ける。

 そして、かすかに口元を緩めた。

「相変わらず遅いな」

 その声はここまではっきり届かない。けれど、口の動きだけで十分だった。隣にいるもう一人の男――金の刺繍が肩にかかるほうが、わずかに顎を引く。笑ってはいない。ただ見ている。

 ルシアンが、ごく小さな声で言った。

「シリルとフェリクスに会うの久しぶりだろ」

 視線をもう一度向ける。

 シリルは、こちらと同じ血が流れていると分かる顔立ちをしていた。けれど、それ以上に、もう別の家の色を帯びているようにも見えた。フェリクスはそれよりも軽やかで、立ち姿まで華やかだった。二人ともこの舞踏会の光景に馴染んでいる。

「行くぞ」

 アルベールの声で、我に返る。


 兄たちの名が、ようやく顔と結びつき始めていた。

 長兄アルベール。

 次兄ルシアン。

 三兄シリル。

 四兄フェリクス。


 その並びを頭の中でなぞる余裕もないまま、白い手袋に指を通す。絹が音もなく手のかたちに馴染んでいく。さっきまで土に触れていたはずの手が、まるで最初からこちら側のものみたいに整っていくのが、少しだけ怖かった。

 ルシアンが歩幅を合わせるように、ほんの少しだけ速度を緩めた。

「今夜は、父上の右へアルベール兄さん、左へ母上。その下がシリルとフェリクスだ」

 そこまで言ってから、わずかにこちらを見る。

「お前は、俺の後ろへ」

 短い説明だった。けれど、それだけで十分だった。席順まで含めて、この家の中での自分の位置が少しだけ分かる。

 アルベールはもう広間の奥へ視線を向けている。ルシアンは表情を崩さないまま、さりげなくこちらの歩幅を気にしていた。シリルとフェリクスは、養家の席からこちらを見ている。


 光に満ちた広間の中で、兄たちの名だけが、不思議と現実みたいに胸へ残った。


 広間の奥へ進むにつれ、人の流れがわずかに割れていく。

 誰がどこを歩くべきか、誰の前では道を開けるべきか、それを皆が知っている。音楽は甘く流れているのに、足の運びひとつまで秩序の上に置かれていた。


 視線が集まる。


 露骨ではない。けれど確かに見られている。遅れて現れたこちらを、笑みを崩さないまま測る目がいくつもあった。扇の陰から。杯の縁越しに。踊りの相手の肩越しに。

 視線だけが、夜の光より冷たかった。


 広間の奥、一段高くなった場所に、長椅子と卓が設えられていた。

 アルベールが先に進み、立ち止まる。

 ルシアンも隣に並ぶ。少し遅れて、その斜め後ろへ位置を取る。言われた通りだった。

 正面に座る男が、ゆっくりこちらへ目を向けた。

 父親なのだろう。

 年齢は五十をいくつか越えているように見えた。

 鼻筋が高く、目の下には薄い陰がある。纏っているのは誰よりも上等な礼装で、重厚感を誰よりも放っていた。

 隣には、女性がいた。

 細身の体に濃い色のドレスをまとい、首元には夜の底みたいに深い色の宝石が下がっている。顔立ちは端正だが、柔らかさより冷たさが目を引いた。父の隣に座るのだから、この人は母親なのだろう。

 父の目が、こちらに留まる。

「遅かったな」

 低い声だった。

 責める色を含んでいないわけではない。

「申し訳ありません」

 この場の流れに合わせて答えると、父は短く息を吐いた。許したわけでも、怒ったわけでもなさそうだった。

「今夜はヴィルモン家もお見えだ」

 母の視線が、そこで初めてまっすぐ向けられる。

「お待たせするものではありませんよ」

 声は静かだった。けれど、その静かさがそのまま重みになっている。

 ヴィルモン家。

 その名だけが、胸のどこかへ小さく引っかかった。理由を考えるより先に、広間の中のある一点へ意識が向く。

 少し離れた場所に、一人の若い女が立っていた。

 薄青のドレスだった。夜明け前の空を溶かして、布にしたみたいな色。何層にも重ねられた布が、呼吸に合わせるほどのわずかな動きでもやわらかく揺れる。

 肩口には白い刺繍が流れ、胸元と裾に散った銀糸が灯りを受けるたび、淡くきらめいた。

 その姿は、この夜そのものより少しだけ静かで、少しだけ現実に近かった。だからかえって目を逸らせない。

 視線が合う。

 一瞬だけ、相手の表情がほどけた気がした。

 母が口を開く。

「ご挨拶なさい」

 拒む余地のない言い方だった。

 アルベールがわずかに身を引く。ルシアンは何も言わない。

 歩き出す。

 広間の光の中へ入るたび、衣擦れと香りが身体を掠めていく。ひとつとして同じ香りはないのに、どれもが甘く、少し息苦しい。石の床は磨かれすぎて、灯りや人影を水面みたいに曖昧に映していた。

 目の前まで来る。

 彼女は、扇を胸元で閉じた。

「お加減でも悪いのかと思いました」

 責める口調ではなかった。気遣いの形をしているのに、その奥には確かな安堵があった。

 言葉に詰まる。

 具合が悪いのかと聞かれれば、たしかに悪いのかもしれない。目を覚ますたび世界が変わり、昨日までの自分の手は土に触れていた。その説明をここでどうしろというのか。

「少し……」

 曖昧に答える。

 彼女は、それ以上は聞かなかった。

「それでも、お会いできてよかった」

 そう言って、微笑む。

 その微笑みは、広間のどんな灯りよりもやわらかく見えた。舞踏会にいる他の誰の笑みとも違った。誰かへ見せるために作られたものではなく、意識せず自然に出たものだ。

 その時、すぐ隣へ男が現れた。

 年は父に近い。けれど顔立ちはもっと細く、冷静さを醸し出している。彼は彼女とこちらを交互に見て、礼儀正しい角度で頭を下げた。

「お待たせしてしまったようですな」

 声には、非難も皮肉も混じっていないように思えた。皮肉の耐性が、無いだけかもしれないが。

 母の声が、背後から届く。

「こちらも準備に手間取りました」

 男性は、彼女の肩へ軽く手を添える。

「娘のエレオノールです」

 エレオノール。

 その響きが口の中で形になる前に、楽団の旋律が変わった。緩やかな始まりから、一段明るく、広間の中央へ人を招く曲へと移る。

 エレオノールが、わずかに笑う。

「ちょうどよい。今夜の最初を、どうぞ」

 背後から父の視線を感じる。断れる流れではないことだけは、よく分かった。

 手を差し出す。

 指先をどの高さで差し出すのか、手首をどれだけ返すのか、考える前に身体が教えてくれた。

 エレオノールの手が重なる。

 白い手袋越しでも、驚くほど軽かった。触れた瞬間、まるで割れものでも預かったみたいに神経が張る。


 広間の中央へ出る。


 周囲の踊り手たちが、何でもない顔で間を作る。美しい。けれど、その美しさの中にある計算がうっすら透けて見える。

 音楽が流れる。

 一歩。

 次に半歩。

 足が勝手に音へ合っていく。身体のどこかが覚えていた。だが頭の中は、ついていけていなかった。

 柔らかな灯り、甘い香り、白い首筋、重すぎる礼装、笑っている貴族たちの目。

「本当に、大丈夫ですか」

 踊りの途中で、エレオノールが小さく問う。

 その声だけが、広間の熱から少し離れた場所にあった。

「顔色が、今夜の灯りに似合っていません」

 そんな言い回しがあるのかと思う。あるいは、この世界ではそれが普通なのかもしれない。

「……すまない」

 それしか出てこない。

 エレオノールは、首を横に振る。

「謝ってほしいわけではありません」

 言ってから、少しだけ視線を伏せる。

「ただ、お会いできないのではと……少し、怖かっただけです」


 灯りがドレスの上で揺れる。

 薄青の布は動くたび、水のように色を変えた。村で見た川の水とはまるで違うはずなのに、なぜか少しだけそれを思い出す。あちらは冷たく、こちらはあまりにもやわらかい。その両方が同じ胸の内側に残っていることが、奇妙だった。

「今夜は、兄君方も皆お揃いなのですね」

 エレオノールがそう言って、視線を壁際へ流す。

 その先には、アルベールとルシアンがいた。少し離れた位置に、養家の席から動いてきたらしいシリルとフェリクスの姿もある。

「羨ましいです」

 不意に、エレオノールが言った。

 彼女は小さく笑って、それを誤魔化すみたいに視線をそらした。

「皆さま、仲がよろしいのでしょう」

 返す言葉を探す。

 仲がよいのかどうか、まだはっきりとは分からない。

「……どうだろう」

 曖昧な返事になる。

 彼女は、それ以上言わなかった。

 ただ、曲がゆっくりと終わりに近づくあいだ、視線だけを静かにこちらへ戻す。

「今夜が、長くなりそうで少し安心しました」

 曲が終わる。

 周囲で裾が止まり、靴音がやみ、次の拍の前にほんのわずかな静けさが落ちる。その一瞬だけ、広間全体が息を止めたみたいに見えた。

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