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華やかな世界で

 次に目を開けた時、最初にあったのは、柔らかすぎる感触だった。

 背中の下にあるのは、藁でも土でもない。身体が沈み込むほど厚い寝台だった。頬に触れている布も、あの村の薄い毛布とはまるで違う。指先でつまむと、するりと逃げる。滑らかで、頼りないほど軽い。


 瞼を上げる。


 目の前に広がる景色は、あり得ないものだったが、そこまで驚かなかった。

 薄い金で縁取られた白い天井。そこから、枝のように何本も伸びた燭台が垂れ下がっている。火は小さいのに、部屋の隅々まで明るかった。壁には深い赤の布がかかり、窓には重たそうなカーテンが幾重にも寄せられている。

 鼻の奥に、甘い匂いが残る。

 蝋。花。香油。少し遅れて、磨かれた木と古い石の匂いも分かった。

 上体を起こす。

 目が覚める前と、着ているものが違うことに気づく。

 手首までぴたりと沿う白い布。胸元には細かなひだ。昨日までまとっていた、擦り切れた布切れのような服は影も形もない。指先が胸元をなぞる。薄く、上等で、どこにも穴がない。

 そのことに、妙に戸惑った。

 寝台の脇には、黒に近い濃紺の上着が掛けられていた。金糸の刺繍が、火の明かりを受けて細く光っている。椅子の背には、同じ色のケープ。卓上には白い手袋。磨かれた靴。小さな香水瓶のようなものまで置かれていた。

 甘くまとわりつくその匂いは、夢にしては濃すぎた。


 立ち上がる。


 床は石だった。足の裏に、冷たさがまっすぐ上がってくる。その感覚だけが妙に現実的で、かえって気味が悪い。

 部屋の隅に、大きな鏡があった。

 そこに映った姿を見て、しばらく動けなかった。

 昨日までの痩せた村人のような姿ではない。髪はきちんと整えられ、肌には土の汚れも、手の甲のあの乾きもない。首筋にかかる布さえ白い。何より、その顔が、あまりにもこの部屋に馴染みすぎていた。

 知らないはずなのに、知らない気がしなかった。

 その違和感を言葉にする前に、扉の向こうで控えめな音がした。

「失礼いたします」

 低く抑えた声だった。

 返事をしそびれているうちに、扉が開く。

 年を取った男が一人、頭を下げて入ってきた。灰色の髪をきちんと撫でつけ、黒い衣服の襟元だけが白い。立ち姿にも無駄がない。

「もう皆さま、大広間へ向かわれております」

 日本語を話しているわけではないのだろう。たぶん。前の世界と同じように。

 男は続ける。

「お着替えのお手伝いを」

「……いや」

 声が少し掠れた。

 それでも、口から出た言葉は自然だった。

「自分で、できる」

 男は一瞬だけ目を上げたが、すぐにまた頭を下げる。

「承知いたしました。とはいえ、あまり遅れますと、四人の若様方もよい顔をなさいません」

 男が下がると、部屋に静けさが戻る。けれど、完全な無音ではない。遠くで弦を弾く音がする。低く、整った旋律。その下に、人のざわめきが幾重にも重なっていた。


 上着を取る。

 重かった。見た目の華やかさに反して、肩へ乗せると意外なくらい重みがある。

腕を通し、襟元を整える。考える前に、指が留め具の位置を探し当てた。

 鏡の前で一度立ち止まり、袖口を見てから、手袋を置き忘れていることに気づく。

 扉を開けて廊下へ出た瞬間、思わず、足が止まる。


 長い廊下だった。赤い絨毯がまっすぐ伸び、両側の壁には大きな肖像画が等間隔に掛けられている。銀の燭台がいくつも並び、蝋の炎が揺れるたびに金の額縁が光を返した。天井は部屋よりさらに高い。白い漆喰に草花みたいな装飾が這い、その縁を金が細くなぞっている。

 行き交う人影があった。

女性たちは絹を重ねたドレスを引き、男性たちは濃い色の上着に金糸や銀糸を走らせている。耳元では真珠が揺れ、首筋からは香りが漂う。誰もが、この一夜のために磨かれたような輝きを放っている。

 華やかだった。

 ただ豪華というだけではない。目に入るもの全部が、こちらを圧倒するための華やかさだった。

布の艶。宝石の反射。磨かれた石床。笑い声まで高く澄んで聞こえる。

豪華絢爛という言葉が、良く似合う場所だった。


 その時、前方の扉が開き、中から二人の男の人が出てきた。

 背が高い。顔立ちのどこかに共通するものがある。

 片方がこちらを見る。

「何をしている」

 低い声だった。本能的に、待たせていい相手ではないのだと分かる。

「もう始まっているぞ」

 もう一人がこちらの手元を見て、短くため息をつく。

「手袋は」

 そこで初めて、自分がそれを持たずに部屋を出たことに気づく。

 言葉に詰まっていると、後ろからさっきの老従者が静かに現れた。

「こちらに」

 白い手袋を差し出される。

一人が、わずかに眉を寄せる。

「五番目のお前が遅れてどうする」

 その言い方で、ようやく分かった。

 四人の兄が先にいて、その次が自分なのだと。


 兄たちはそれ以上何も言わず、先に歩き出す。

 少し遅れて、その背を追う。

 階段へ出る。


 そこから見えた光景を、忘れることはないだろう。

 階下には、大広間が広がっていた。

天井からは、巨大な枝燭台が幾つも垂れ下がっていた。無数の火は、夜空から摘み取った星々を、そのまま広間の中へ閉じ込めたように瞬いている。

白い石柱は、淡い光を受けておとぎ話の森のように静かに並び、そのあいだに掛けられた金縁の鏡は、揺れる灯りと踊る人影を幾重にも映し返していた。

壁際には、咲きこぼれる花々と背の高い燭台が寄り添うように置かれ、磨き上げられた床は、舞う裾と靴先と光の名残を、薄い水面みたいにぼんやりと抱えていた。


 楽団が、広間の奥で演奏していた。弦の音が重なり、空気を満たしている。その音の上を、会話と笑い声が滑っていく。

貴婦人たちのドレスは、白、金、深紅、薄青、黒――夜そのものが色を持って咲いたようだった。

幾重にも重ねられた布は、歩みや身じろぎに合わせてやわらかく波打ち、灯りを受けるたび、水面にほどける月影のように揺れた。

紳士たちの礼装には、金糸と銀糸が繊細に走り、胸元には家ごとの紋章が誇りと沈黙を宿していた。

指先で宝石がかすかに光り、耳元では真珠が淡く揺れ、すれ違うたび首元からほのかな香りが漂う。

誰もが、この一夜のためだけに磨かれ、飾られ、まるで最初からこの舞踏会の灯りの中で生まれてきたように見えた。


 目が慣れるまで時間がかかった。


 あの村の痩せた畑も、藁の納屋も、鍋の底の薄い汁も、今目の前にあるものとはあまりに遠すぎた。

 美しい。

 笑っている人が多い。踊っている人もいる。けれど、その笑みのまま目だけが動く者がいた。会話をしながら、扇の向こうから別の相手を見ている女がいる。踊りながら、肩越しに誰かを測っている男がいる。

 

背後から兄の声がした。

「ぼんやり立つな」

 我に返る。

 階段を下りる。


 石の段は広く、足音は絨毯に吸われてほとんどしない。

広間の熱が、下へ行くほど濃くなる。蝋の匂い。花の匂い。香水。人の体温。磨かれた床と酒の甘い気配まで混ざっていた。



 これが、次の世界だった。



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