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生きる理由

 兵たちが去ったあとも、畑の空気はすぐには元に戻らなかった。誰も手は止めていない。けれど、皆どこか力の入り方が違う。土を返す音も、水桶を置く音も、少しだけ硬い。


 リクが水場の方を行ったり来たりしている。

 畑の向こうで、マルタが鍬の柄を握り直す。

「また減るね」

 誰に向けたとも分からない声だった。

 返事をしたのは、少し離れたところで土をならしていたニコだった。

「減らすもんがあるうちは、まだ来るさ」

 咳を混ぜた声だった。

 それきり、また皆黙る。

 乾いた風が吹く。起こしたばかりの土の匂いが立つ。空を見上げても、雲は薄く流れていくだけで、雨の気配はなかった。


 身体を動かす。

 余計なことを考えないために、鍬を入れる角度だけを気にした。足元の固いところを崩し、崩しすぎたら均し、石があれば拾って脇へ寄せる。単純なことの繰り返しだ。

 日が傾き始めた頃、老婆が畑へやって来た。

 杖の先で、こちらの足元を軽く突く。

「それで終わりだよ。今夜のうちに干し豆をまとめる」

「今夜のうちに?」

「明日になって急に増えるもんでもないだろう」

 畑から引き上げる。

 村の中央に近い開けた場所に、籠や布袋がいくつも運び出されていた。乾いた豆を選り分けるらしい。                 

 マルタが無言で籠をこちらへ押してくる。中には、しわの寄った豆と、割れたものと、まだ何とか形を保っているものが混ざっていた。

「悪いのはこっち」

 それだけ言って、自分も座る。

 見よう見まねで手を動かす。虫食いのひどいもの、完全に干からびたものを弾き、まだ使えそうなものだけを別の籠へ落としていく。

 単純な作業だった。だが、量が少ないせいで、一粒ごとの軽さが妙に目についた。

 これを持っていかれるのかと思う。

 黙って豆を選っていたリクが、ぽつりと言った。

「なくなるね」

 老婆は手を止めない。

「なくなりはしない」

「でも減る」

「減るだけだよ」

「おんなじじゃん」

 そう言って、リクは頬をふくらませる。

 誰も笑わなかった。


 空が、少しずつ鈍い色へ変わっていく。家々の影が長く伸びる。

 どこかで火が起こされたらしく、薄い煙が流れてきた。豆を選る指先は、土仕事よりは楽なはずなのに、なぜだか重かった。

 どれくらいそうしていたのか。

 不意に、言葉が口から滑り落ちた。

「……なんで」

 自分でも無意識の内に、頭で思ったことが出た。

 手が止まる。

 老婆も、マルタも、リクもこちらを見る。引っ込めたくなった。けれど、もう遅かった。

「なんで、そこまでして」

 喉が少し詰まる。

「減るって分かってるのに。雨も来なくて、畑もあんなで……持っていかれて、それでも、なんで」

 うまく言葉にならなかった。

 なんで生きようとするのか、という問いを、そのまま口にするのは躊躇われた。あまりにも身勝手で、軽薄な言葉だったから。

 老婆はしばらく黙っていた。

 それから、手の中の豆を一粒つまんで、籠へ落とした。

「明日が来るからだよ」

 あまりにも短い答えだった。

 老婆は、間髪入れずに続けた。

「来なけりゃ話は別だが、来るからね。腹は減るし、水も要る。火もいる。立ってるだけで過ぎてくれるなら、誰だってそうしてるさ」

 杖ではなく、細い指のほうで豆を寄せる。

「大層な理由なんか、毎日は持てないよ」

 その声は、誰かを諭すというより、ずっと前から知っていることをそのまま言っているようだった。

 マルタが、籠の中を見たまま言う。

「やらないと、余計減るだけだ。何もかも」

 ニコも低く咳をしてから、かすれた声を足す。

「腹が減るのは、待ってくれないからな」

 リクは豆をつまんだまま、こちらを見る。

「おなかすくの、やだろ」

 もっと崇高なものがあるのかと思っていた。希望だとか、信念だとか、そういうものがないと人はこんなふうに手を動かせないのだと、どこかで勝手に思っていた。

 けれど、たぶん違う。

 足が動くから歩く、脳が働いているから考える、心臓が動くから生きている。

 それだけのことなのだろう。

 だが、彼らの「だけ」が、自分には重かった。


 豆を選る作業は、日が完全に落ちる少し前まで続いた。籠の底は浅いままだった。集まった量を見て、誰も口には出さなかったが、多くないことだけは分かった。

 その夜の汁は、いつもよりさらに薄かった。

 それでも、老婆は平気な顔で椀を差し出す。マルタもニコも、何も言わずに受け取る。リクだけが、口を尖らせて鍋の底を覗いた。

「すくな」

「見りゃ分かるよ」

 老婆にそう返されて、リクは不服そうに黙り込む。

 少しだけ、口元が緩みそうになった。

 こういうやり取りを見ていると、村の人間はやはり生きているのだと思う。痩せていて、足りなくて、明るくもない。それでも、身体も心も死んではいない。ただ懸命に生きていた。


 納屋へ戻るころには、空はすっかり暗くなっていた。

 戸を閉める。

 藁の匂いと、古い木の匂いがまた鼻につく。最初は、その暗さがただ心細かった。けれど今夜は、少し違った。

 外には、咳も、鍋の蓋を置く音も、小さな言い合いもある。薄い壁一枚向こうに人がいる。そのことが、昨日よりははっきり分かっていた。

 藁へ横になる。

 疲れているはずなのに、すぐには眠くならなかった。

 老婆の言葉が、頭の中に残っている。

『明日が来るからだよ』

 ずいぶん味気ない答えだと思う。けれど、今日一日ずっと手を動かしていた村の人間たちには、それで足りるのかもしれない。

 瞼を閉じる。

 暗さの中で、昼間の光景が順番に浮かぶ。

 乾いた畑。兵の残していった言葉。豆を選る老婆の指。膨れた頬で不満を言うリク。鍬を止めないマルタ。咳を混ぜながら豆を寄せるニコ。

 どうして生きようとするのか、まだ全部は分からない。

 それでも、少しだけ、問いの形が変わった気がした。

 ここでは、生きるか諦めるかを毎日大げさに選んでいるわけではないのだろう。

 選んでいる暇もなく、生きている事実だけで懸命に生き、手を動かしている。それだけで一日が終わる。その積み重ねが、いつの間にか「生きている」ことになっているのかもしれなかった。

 外で風が鳴る。

 その音に混じって、かすかに湿った匂いが流れ込んできた気がした。

 目を開ける。

 納屋の中は暗いままだ。壁の隙間から見える夜も、昨日と変わらない。けれど、鼻の奥に残った匂いだけが少し違っていた。乾いた土と藁の匂いの底に、もっと柔らかくて、冷たいものが混じる。

 雨の前みたいな匂いだった。

 身体を起こしかけて、止まる。

 この村には、雨が足りない。

 もし本当に降るなら、いいことのはずだった。

 そう思うのに、胸の奥が妙にざわつく。初めて草の匂いで目を覚ました朝のことが、嫌でも思い出された。

 息を浅くする。

 外の気配は変わらない。誰かが歩く音もしない。村は寝静まっているらしかった。

 それでも、その匂いは少しずつ濃くなる。

 土でもない。煙でもない。藁でもない。もっと知らない、けれどどこかで触れたことのある気配だった。

 ここではない。どこかの匂い。

 明日もこの村で、泥だけになりながら働いている姿が、瞼の裏に描かれる。苦しいことばかりのこの生活の明日を、望んでいる自分に心底驚きながら、目を瞑った。

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