労働への価値
気づいた時には、外が少し白んでいた。
最初に聞こえたのは、鳥の声だった。短く、乾いた鳴き声が二度。続いて、どこかで木の戸が開く音がした。
納屋の隙間から差し込む光は、まだ弱い。けれど、昨日の夕方のような鈍さではない。冷たい色をした朝の光だった。夜の間に空気はずいぶん下がったらしく、手の指先がこわばっている。
身体を起こす。
藁が衣服にくっついていた。払い落としながら、しばらくぼんやり座っている。
寝たはずなのに、疲れはきれいに消えていなかった。背中は固いまま、首も重い。それでも、夜を越えた安堵は、しっかりと残っている。
戸の外から、もう人の動く気配がしている。
桶の音。足音。低い話し声。遠くで犬が鳴く。
昨日見た人々は、今日もまた起きて、同じように手を動かすのだろう。
薄い朝の中で、そのことが妙に重かった。
ここでは、一日を越えたからといって、何かが好転するわけではないのだろう。ただ、次の日が来るだけだ。そして来た以上は、また働くしかない。
戸の向こうで、誰かの足音が止まった。
「起きてるかい」
老婆の声だった。
返事をするより先に、戸が少しだけ開く。朝の光が細く差し込み、納屋の床を照らす。
「水汲みだよ。お前の仕事さ」
それだけ言って、足音はすぐに離れていく。
慌てて立ち上がる。藁が服に張りついていた。手で払い落としながら戸を開けると、朝の冷たい空気が頬に当たった。
村はもう動き始めていた。
畑の方では、早くも鍬が土に入る音がしている。家の前で桶を洗う女がいる。小さな子どもが半分眠そうな顔で薪を抱えて歩いていた。
老婆は家の前に立っていた。足元に、木桶が二つ置かれている。
「持ちな」
言われるまま、桶の取っ手に手をかける。空のはずなのに、思っていたより重い。持ち慣れていないせいか、腕の筋が張り出す。
「川まで行くんですか」
「村の水場は浅い。使えないわけじゃないが、皆で口にするには足りない。朝のぶんは川から引く」
老婆は杖で道の先を示す。昨日通った川までの道とは別の、小さく踏まれた坂道だった。
「こぼすなよ」
頷く。
桶を持って歩き出す。空のうちはまだよかった。だが川へ着いて水を汲み、持ち上げた瞬間、考えが甘かったことを思い知った。
尋常ではないくらい重い。
腕だけじゃなく、肩と腰まで一緒に引っ張られる。足場の悪い土の道で少しでも傾けば、水面が揺れてすぐにこぼれそうになった。しかも一度に二つだ。左右の重さを均等にしようと意識するほど、歩き方がぎこちなくなる。
川から村までの短い道が、妙に長く感じた。
半ばまで来たあたりで、早くも腕が震え始める。立ち止まりたい。けれど立ち止まるたびに、余計に重くなる気がした。
前から、水桶を軽々と抱えた子どもがやってきた。昨日、村の入口で見た顔だった。年は十歳にも届いていないように見える。痩せているのに、足取りは驚くほどしっかりしていた。
すれ違う時、こちらの桶を見て、小さく眉を上げる。
「それ、そんな持ち方してたら、すぐ落とすよ」
言い方だけは妙に達者だった。
立ち止まる。
子どもは桶を足元に置き、こちらの取っ手を指差した。
「腕で持たないで、身体に寄せてみて」
それだけ言うと、こちらが返事をする前にまた桶を持ち上げる。細い身体なのに、水の重さに振られていなかった。
言われた通りに持ち方を変えてみる。少しだけ楽になった。
「……ありがとう」
背中に向けて言う。
子どもは、振り返らなかった。
「こぼしたら怒られるのは、そっちでしょ」
それだけ返して、村の方へ行ってしまった。
少年の優しさに感謝しながら、慎重に歩き出す。
どうにか最初の一往復を終える頃には、肩がもう熱を持っていた。取っ手が食い込んだ手のひらも痛い。水を運ぶだけでこんな有様なら、この先どうなるのかと自分が心配になってくる。
老婆は桶の中を覗き込み、こぼれた量を見ているようだった。
「初めてにしちゃ、まだましだね」
褒めているのかどうか、よく分からない。
「もう一度」
その一言で、すぐに二往復目が始まった。
陽が上がると、土の匂いが濃くなった。鍬の音は絶えない。桶の中の水は重いまま、腕は回数を重ねるごとに鈍く痛んだ。
昼前には、足も腕も使い物にならない状態になりかけていた。
家の脇に桶を下ろした時、指がうまく開かず、取っ手が手のひらから離れなかった。見ると赤く腫れている。
柔らかい手だったのだと、今さら気づく。
この世界へ来る前、こんなふうに手を使ったことはほとんどなかった。
老婆はその手を一度見ただけで、家の軒から干してあった布切れを取って寄越した。
「巻いときな。午後は薪を運ぶ」
休み、という言葉はなかった。
だが、椀に入った薄い豆の汁と、固い黒パンの欠片が昼の代わりに出された時、不思議と文句は出なかった。
腹が減っていた。働いたあとに口へ入るぬるい汁は、昨日の夜より少しだけ味がした。
午後は、村はずれに積まれた薪を小屋の横へ運ぶ手伝いだった。
そこで、昨日畑にいた女に初めて近くで会った。年はよく分からない。
若く見える瞬間もあれば、ひどく老けて見えた時もある。
日に焼けた頬はこけていて、腕は細い。だが手の動きだけは速かった。
「そこ、濡れてるのは下に回して」
最初の言葉は、それだった。
愛想も何もない。
薪の向き、積み方、崩れない重ね方。こちらが失敗すれば黙って直し、余計な言葉は挟まなかった。
何本目かの薪を落とした時、思わず舌打ちしそうになる。女は手を止めずに言った。
「いちいち腹を立ててたら、持たないよ」
村の人間は、慰めもしない。励ましもしない。
それが最初は冷たく感じた。
けれど、一日が終わる頃には、その冷たさに少し別のものが混じって見え始めていた。
余裕がないのだ。
この村には、人を気遣うために飾る言葉すら惜しいのかもしれない。
日が傾く前、ようやく作業が終わる。
腕は上がりにくく、足は重かった。納屋へ戻る途中、朝に桶の持ち方を教えてくれた子どもとまたすれ違う。今度は小さな束の薪を背負っていた。
「もう足引きずってるね」
「うるさい」
つい、そう返していた。
言ってから、少し驚く。昨日までなら、こんなふうに言葉を返す余裕はなかった。
「明日はもっときついぞ」
少年は、それだけ言って通り過ぎる。
納屋へ入ると、すぐに藁に身を沈めた。身体の節々が鈍く痛んだ。
それでも、昨日みたいに眠れないことはなかった。目を閉じたと思った次には、もう朝の鳥の声がしていた。
そういう日が、二日、三日と続いた。
水を運ぶ。薪を束ねる。畑の石を拾う。痩せた土を鍬で返す。村の外れで倒れかけた柵を起こす。どれも地味で、どれもきつかった。
身体は毎日痛んだ。手のひらの皮は剥け、やがて硬くなった。
最初は水桶一つで息が切れたのに、三日目には少しだけこぼさず歩けるようになっていた。
村の者たちは、相変わらず多くを話さない。
けれど、完全な他所者のままでもなくなっていた。
朝に桶を並べておけば、誰かが紐の結び方を直す。
畑で鍬の入れ方を間違えれば、黙って手本を見せられる。
昼の汁が少しだけ多い日もあった。どれも親切と呼ぶには小さい。だが、心の中が僅かに暖かくなった。
その中で、名前もぽつぽつ耳に入るようになった。
子どもは、リクというらしい。
畑の女はマルタ。
鍋の底を気にしながらも何だかんだこちらの分を残しておく腰の曲がった老人は、ニコと呼ばれていた。
最初に会った中年の名がエドだと知った時と同じように、名前を知ったその人たちに少なからずの親近感を覚えた。
それでも、完全には馴染めなかった。
畑で黙々と働く女の背中を見るたびに、何度も何度も思う。
どうしてそこまでして生きようとするのか、と。雨は足りない。男手は取られている。取られるものばかりで、残るのは痩せた土と薄い汁だ。よくなる見込みなんて、外から見ればほとんどないように思える。
その理由が分からなかった。
分からないことが、どこかでずっと引っかかっていた。
四日目の夕方、畑の端で土をならしていた時だった。
遠くで、乾いた音がした。
最初は風かと思った。だが、違った。
一定の間隔で、地面を叩くような重い音だった。
村の誰かも、それに気づいたらしい。鍬の音がひとつ止まり、次にまたひとつ止まる。
顔を上げる。
村の入口の向こう、土道の先に、薄く土埃が立っていた。
誰かが、最初に声を上げたわけではない。
村の入口の方を見つめる視線が、一つの場所へ集まっていく。
「……見回りだよ」
すぐそばで、老婆の声がした。
いつの間に来ていたのか分からなかった。杖をついたまま、土道の先を見ている。
土埃の向こうに、影が三つ見えた。
やがて、それが人だと分かる。
馬に乗っている者が二人、歩いている者が一人。
遠目にも、村の人間とは違うのが分かった。身につけている布はもっと厚く、肩や胸のあたりには革のようなものが当てられている。腰には剣。歩いている兵は槍まで持っていた。
どの顔も日に焼けていたが、村人たちの焼け方とは少し違う。外で働いてついた色というより、長い移動と風に削られた色だった。
この世界へ来て、初めて村以外の人間だった。
老婆が、杖を持っていない方の手で、こちらの肘を軽く叩く。
「喋るなとは言わない。だが、聞かれたことだけ答えな」
小さい声だった。
「勝手に余計なことを言うんじゃないよ」
力強く頷く。
先頭の一人が、馬上から言う。
「村長はいるか」
「ここに」
老婆が、一歩前へ出る。
兵の視線が落ちてくる。
見下ろされているはずなのに、老婆は少しも縮まなかった。杖をつく手も揺れない。ただ真っ直ぐ、その顔を見上げている。
「変わりは」
兵が短く問う。
老婆も短く返す。
「雨不足だよ。それ以外は、飢えながら生きてる」
兵の後ろにいた若い兵が、鼻で息を鳴らした。笑ったわけではない。乾いた息だけが漏れた。
「どこも同じだ」
歩いていた兵が、村の中を見回しながら前へ出る。目つきの鋭い男だった。背は高くないが、肩が張っている。槍の石突が、土を軽く鳴らした。
「流れてきた者は」
老婆の答えは早かった。
「ここ数日じゃ来てない」
「逃れて来た兵は」
「見てない」
「隠しても損をするだけだぞ」
「隠す余りがあるように見えるかい」
老婆の声は静かだった。
その言葉に、若い兵の目が細くなる。怒ったのかと思った。だが、先頭の兵が軽く手を上げたせいで、それ以上は続かなかった。
代わりに、その視線がこちらへ向く。
心臓が、ひとつ大きく打つ。
「そいつは」
喉の奥が詰まる。
見ない顔だ、と続く前に、老婆が口を開いた。
「川向こうから来た。向こうの畑が駄目になってね。手だけでも欲しい時だ、こっちで使ってる」
自然な言い方だった。
あまりにも自然で、一瞬、自分でもそうだったかのような気がした。
兵の目が、こちらの顔から手元へ落ちる。手のひらはまだ新しい傷ばかりで、村人たちみたいに厚くはなっていない。それでも、水桶の取っ手で擦れた赤みと、乾いた土の汚れは残っていた。
「名は」
問いが飛んでくる。
ほんのわずかに間が空いた。
その時間が、自分には長すぎた。
名前を答える。
兵はもう追及しなかった。ただ一度、こちらの全身を見たあと、興味を失ったように視線を外した。
布切れみたいな服と、痩せた村の中では、目立つほどの異物ではなかったのかもしれない。
「使えるのか」
「水はこぼすが、いないよりはましだ」
老婆が言う。
その返しに、後ろの若い兵が今度こそ少しだけ口元を歪めた。
「役に立つのか立たないのか、どっちだ」
「立たせるよ。そうしないと、こっちが損をする」
その場に、短い沈黙が訪れる。
兵たちは、それ以上こちらを追及しなかった。
代わりに、村へ用件だけを置いていった。
次の月までに干し豆と保存できる穀をまとめておけ。通れる男がいれば名を出せ。流民と逃亡兵を見たら隠すな。どれも、断れる類の話ではなかった。
畑の女は黙って聞いていた。桶を持った子どもも、離れた場所で立ち尽くしている。誰も口を挟まない。挟めばどうなるか、知っているのだろうと思った。
最後に、歩いていた兵が水場の方を見た。
「水は」
「枯れかけたままだよ」
老婆が答える。
「見れば分かる」
兵は小さく舌打ちした。
それが雨不足へのものなのか、こんな村まで来なければならない自分へのものなのかは分からなかった。
馬の向きが変わる。
土を蹴る音がする。
兵たちはそれ以上何も言わず、来た時と同じように村を出ていった。残ったのは、ゆっくり沈んでいく土埃だけだった。
誰も、すぐには動かなかった。
風がひとつ吹いて、それからようやく、止まっていた時間がまた動き始める。畑の女が鍬を持ち直す。子どもが桶を抱え直す。どこかで、抑えていた息を吐く音がした。
隣で、老婆が小さく咳払いをする。
「ぼうっとしてないで、手を動かしな」
いつもの調子だった。
けれど、その声の奥に、さっきまでとは違う意味が含んでいるのを感じた。
思わず、老婆の横顔を見る。
乾いた土みたいな肌。曲がった腰。濁らない目。
その横顔は、さっき兵の前に立っていた時より、少しだけ疲れて見えた。
「……さっき」
口を開きかける。
老婆は前を見たまま言った。
「礼は要らないよ」
言葉を塞がれる。
「あんたを庇ったんじゃない。村の手を減らしたくなかっただけさ」
そう言って、杖の先で土を一度だけ叩いた。
たぶん、それだけではなかった。
そう思ったが、口には出せなかった。
少し離れたところで、リクがこちらを見ていた。目が合うと、すぐに逸らされる。だが、そのあと小さく口を尖らせて言う。
「へんな顔してたぞ、おまえ」
言い方は子どもっぽいのに、妙に刺さる。
「……してない」
「してた。死にそうな顔」
それだけ言って、桶を抱えたまま走っていく。
反論する元気はなかった。
畑の方へ向き直る。
鍬を握る手の中に、まだ少し汗が残っていた。兵たちはもう見えない。なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
土は乾いていた。
雨は足りない。
働き手も足りない。
こんな場所で、それでも皆が手を止めない理由は、まだ分からなかった。
分からないまま、鍬を土へ入れる。
刃先が乾いた表面を割る、鈍い音がした。




