初めての夜
老婆は、少し開けた場所の端にある家の前で足を止めた。
他の家よりも、ほんの少しだけ大きい。とはいっても、立派とは言い難かった。
壁の補修跡はむしろ他より多く、屋根の一部には、新しく藁を差し直した形跡がある。入り口の脇には、薪が几帳面に積まれていた。軒先から干した草が、束になって垂れている。薬草なのか、ただの草なのかは分からない。
「入りな」
老婆がそう言って、戸を押し開けた。
中は薄暗かった。外の陽の白さに慣れた目には、何もかもがすぐには見えない。
土の床。壁際の棚。粗末な机。藁を詰めた寝床が、隅に一つ。
鼻をくすぐるのは、古い木の匂いと、煮炊きの残り香と、少しだけ湿った布の匂いだった。
老婆は杖を壁に立てかけると、慣れた手つきで土間の奥へ歩いていく。その動きには、無駄がなかった。
「座りな」
言われるまま、入り口に近い板の腰掛けへ腰を下ろす。板は固く、少し傾いていた。
その間にも、老婆は壺のようなものを持ち上げ、椀を二つ出し、鍋の蓋を開けて中を確かめている。鍋の底には、わずかばかりの汁が残っている。
鍋の中身を、椀に移す音がする。とろみのない、薄い汁の音だった。
老婆は、椀を一つ差し出した。
「飲みな」
温かかった。湯気はほとんど立っていない。中には、柔らかく煮崩れた豆のようなものが沈んでいた。塩気も香りも薄い。だが、空腹の身には、それだけで十分だった。
口をつける。
温かさが、喉にしみた。味は淡い。
老婆は、自分の分を飲まず、こちらを見ていた。
「ゆっくり飲みな。ここで吐かれても困る」
指摘されて、手元の椀を見下ろす。夢中でかき込もうとしていたことに気づき、少しだけ手を緩めた。
老婆が、向かいの腰掛けに座る。木の鳴る音がした。
「もう一度聞くよ」
静かな声だった。
「どこから来た」
返す言葉は、見当たらなかった。
森の向こうから来た、としか言いようがない。もっとまともな説明を探そうとしても、頭の中で言葉がつながらなかった。昨夜の部屋も、月のない夜も、前の世界も、ここから見るとひどく遠い。
「.....分かりません」
ようやく、そう答える。
「気づいたら、草原にいて。川を見つけて、小屋に人がいて、ここへ来いと言われて」
老婆は、黙って聞いていた。遮りもしないし、頷きもしない。話が終わってから、口を開いた。
「小屋の男って誰だい」
その問いには、答えられた。背丈や痩せた首筋、鍬の柄を直していたこと、川沿いを下れと言われたことを、覚えている限りの言葉を羅列する。
「エドのところか」
この世界で、初めての名前を聞いた。
「あいつは、あそこで一人で働いてる。昔は村の外れで畑をみていたが、今は半分見張りみたいなもんだ」
「見張り」
「人も流れてくる。兵も来る」
椀の中身を飲み切る。最後の一滴まで飲んでしまってから、ようやく顔を上げる。
老婆はそれを見て、椀を受け取った。
「働けるかい」
不意の問いに、少しだけ間が空く。
働く。
この世界へ来て最初に突きつけられた言葉だった。
けれど、それ以外の答えはない気がした。
「......たぶん」
また、そんな曖昧な言い方しか出来なかった。
「たぶんじゃ困るが、歩いてここまで来たなら、すぐに倒れるほどでもないんだろう」
そう言って立ち上がる。杖を手に取る所作にも迷いがなかった。
「今日はもう、空いた納屋で休みな。明日、朝から水を運んでもらう。畑でも、薪でも、その先は見て決める」
今夜ひとまず雨風をしのげるらしい。
「ありがとうございます」
「礼は働いてから言いな」
戸の外へ出ると、陽は少し西へ傾き始めていた。
畑では、まだ誰かが鍬を振るっていた。子どもは、桶を抱えたまま歩いている。止まっている者がいない。
老婆は、小さな納屋の前で足を止めた。家というより物置に近い。壁の隙間からは、藁が覗いている。
「今夜はここだ」
戸を開けると、仲には藁の束、空の籠、古い農具が置かれていた。寝床と呼べるほどのものではない。
それでも、森の中や川辺に比べれば十分だった。
老婆は、入り口に立ったまま言った。
「夜は冷える。戸はきちんと閉めときな」
そのまま老婆は背を向け、杖をつきながら歩き出した。
しばらく、彼女の後ろ姿を見送る。
戸を閉める。
薄暗くなった納屋の中で、ようやく小さく息を吐いた。
助かった、とはまだ思えない。
ただ、今夜は死なずに済むかもしれないと、それだけを思った。
外の明るさに目が慣れていたせいで、戸を閉めたあとの納屋の中は、ひどく狭く感じる。
壁の隙間から細い光が差し込み、浮いた埃を白く照らしていた。
寝床になりそうなのは、藁の束くらいだった。
膝を折って、そっと手を置いてみる。表面は乾いているは、芯の方は少し冷たかった。決して柔らかいわけではないが、土の上へ直接横になるよりはましだった。
そのまま、腰を下ろす。
藁が服越しに、チクチクと刺さる。こんなものでも、座る場所があるだけありがたかった。
外ではまだ、人の動く音がしていた。
鍬が土に入る音。桶のぶつかる音。遠くで子供が泣きかけて、すぐに静かになる。
老婆の言葉が、頭の中でゆっくりと沈んでいく。
この村に漂っていた貧しさは、気のせいではなかった。ただ、どうしようもない現状があるだけだった。
そこまでして、と思う。
そこまでして、どうして生きようとするのか。どうして皆、黙って手を動かしていられるのか。
ここの人たちには申し訳ないが、部外者から見ても今よりも悪くなることはあっても、良くなることは考えにくい。
分からなかった。
今までいた世界では、何もかもが嫌だった。
将来のことを考えるだけで息が詰まり、何もしないまま時間だけが進んでいくことに焦っていた。そんな場所から抜け出したいと、ずっと思っていた。だが、異世界へ来たところで、目の前にあったのは自由じゃなかった。
納屋の壁に背を預けながら、そんなことを考えていた。
疲れているはずなのに、すぐには眠くならなかった。
身体は重い。足もだるい。だが、頭の中だけが、妙に冴えている。
知らない土地で、知らない人間だらけの村で、粗末な納屋にいる。その事実が、当たり前かのように、心細かった。
壁の隙間から見える空は、少しずつ色を失っていった。
白かった光が、鈍い橙に変わり、それからゆっくり濁っていく。
納屋の中も、同じように暗くなった。差し込んでいた光の筋が細くなり、床に置かれた籠の影が、少しづつ形を曖昧にしていく。
誰かが火を起こしたのか、煙の匂いが流れて来た。
煮炊きの匂いも、わずかに混じる。さっきの薄い汁だけでは、身体は許してはくれない。
それでも、食べさせてもらっただけで十分だった。曖昧な返事しか出来なった身で、これ以上何かを求めることは、できなかった。
ここには、余りがない。老婆の家の鍋底に残っていた量を思い出せば、それくらい分かる。
時間が経つにつれ、外の音が少しずつ減っていく。
その代わりに、風の音が耳につくようになった。どうやら、冷えて来たらしい。
戸を閉めたままで正解だったと思う。
藁の束を少し崩して、横になれる形を作る。器用にやれるはずもなく、ただ寄せて重ねただけだったが、それでも寝転がってみると、少しだけ体が沈んだ。
背中に固さが残る。首の収まりも悪い。薄い布切れみたいな服では、心許ない。
身体を丸める。
瞼を閉じると、小屋の中年の顔が浮かんだ。痩せた首筋。節の太い手。鍬の柄を打つ乾いた音。その次に、村の入口で見た女の背中と、桶を引きずる子どもと、杖を握る老婆の手が順番に浮かぶ。
この村では、誰もこちらを歓迎しなかった。
だが、追い返されもしなかった。
そのことがありがたいのか、惨めなのか、自分でもよく分からなかった。
遠くで、何かが鳴いた。
鳥ではない気がした。低く、短い声だった。獣かもしれない。
身体がびくりと反応する。けれど、それ以上は聞こえなかった。村の犬か、森の奥の何かなのか、確かめる気にもなれない。
異世界に来た。
その事実だけを取り出せば、もっと劇的であるべきなのだろう。もっと胸が躍るとか、もっと世界が違って見えるとか、そういうものがあっていいはずだった。
なのに、現実はみすぼらしい納屋の藁と容赦のない冷たい風だった。
英雄譚の始まりを夢見て、最初に与えられたのが水運びかもしれない現実だったことが、ひどく皮肉に思えた。
あれほど嫌だった労働を進んでやろうとしている。その皮肉を笑うほどの元気もなかった。
少しして、戸の外にまた気配がした。
子どもの足音みたいだった。戸の前で止まり、しばらく何も動かない。息を潜めるような気配だけがある。こちらも身じろぎせずにいた。やがて、小さく走り去る音が聞こえた。
覗きに来たのかもしれない。
少しだけ苦笑いしそうになる。余所者が来れば、気にもなるのだろう。こちらだって、逆の立場ならそうする。
夜は深くなる。
村の中から聞こえる音は、もうほとんどなくなっていた。 どこかで誰かが咳き込み、それが途切れると、あとは風と、遠い水音だけが残る。
眠りは、すぐには来なかった。
何度か寝返りを打つ。そのたび藁が擦れて音を立てる。肌の触れるところがむず痒い。首も痛い。足も重い。疲れているのに、本能だけが寝ることを拒んでいた。
やがて、思考も形を保てなくなった。
そのまま、いつ眠ったのか分からなかった。




