はじまりの村
どれくらい歩いたのか、曖昧になってきた頃だった。
突然、目の前が明るくなる。思わず、目を細めた。
どうやら、森を抜けたらしい。
そこには、ゆるやかに開けた土地が広がっていた。
草原というには、人の手が入っている。
畑だった。だが、お世辞にも整っているとは言い難い。
畝は痩せ、土は乾き、植わっている作物も背が低い。所々で色が悪く、葉先も萎えているのが遠目にも分かった。
風が吹く。土の匂いに混じって、乾いた藁のような匂いがした。
畑の奥に、いくつかの家が見えた。
男が言っていた通り、村があった。だが、すぐに安堵できるほど単純ではなかった。
人々が住む場所に辿り着いた。たしかに、その事実は大きかった。だが同時に、そこへ本当に入っていいのかという迷いがあった。
小屋の男と違って、今度はもっと大勢の人間の目に晒されるかもしれない。怪しまれるかもしれない。追い返されるかもしれない。そこまではいいとして、捕えれるかもしれない。
それでも、もう行くしかなかった。
引き返したところで、小屋の男が何かしてくれるとも思えない。森へ戻って一人で夜を越す勇気もなかった。
小刻みに震える足を奮い立たせながら、村へ向かう。
近づくにつれ、この村の貧しさがはっきりと見えてきた。
家はどれも低く、小さい。木と土でどうにか形を作ったようなものばかりで、壁には補修の跡がいくつもあった。屋根も継ぎはぎだらけで、まともな家は一つもない。
道は土のままで、踏み固められているが、雨が降ればすぐぬかるみそうだった。
少し離れた畑で、女が鍬を振るっている。痩せた背中だった。
その近くで、子供が水桶のようなものを、両手で引きずっている。
別の場所では、腰の曲がった老人が、何かを干していた。
皆、こちらに気づいてはいる。だが、手を止めて駆け寄ってくる者はいない。一度だけ視線を向けて、それからまた自分の仕事へ戻っていく。
村の入り口らしきものはなかった。
あるのは、道の脇に倒れかけた杭だけだった。柵も無ければ、門もない。
守るものがないのか、守る力がないのか。その両方なのかもしれないが。
足を踏み入れる。
その刹那、本当に異なる世界へ来てしまったのだと実感した。
電柱も、自動販売機も、コンビニもない。当たり前にあったものが一つもない。
それなのに、漂っているのは幻想ではなく、生活の匂いだった。
煙。
土。
汗。
古い布。
何かを煮ている薄い匂いも、風に混じっていた。
あれほど待ち望んでいた異世界は、残酷なほどに現実的だった。
英雄譚が始まる気配は、どこにもない。
それでも、ここで立ち尽くしているわけにはいかない。この世界で暮らしていくために、生き抜いていくために。
少し離れた場所から、乾いた咳払いの音がした。
視線を向ける。
村の中央とも呼べない、小さく開けた場所の端に、杖をついた老婆が立っていた。
背は低い。腰も曲がっている。服は何度も繕われ、色も抜けていた。だが、その立ち姿には、不思議と弱々しさがなかった。
深い皺の刻まれた顔だった。日に焼け、乾いた土に似た色をしている。しかし、目だけは濁っていなかった。その目で、こちらを真っ直ぐ見ていた。
畑の女も、桶を引きずっていた子供も、腰を曲げた老人も、誰も近づいてこなかった。けれど、視線の先に立っている老婆だけは違った。こちらが口を開くのを待っているようだった。
「あの......」
ようやく絞り出した声は、驚くほど掠れていた。
老婆は、すぐには返事をしなかった。
持っている杖の先で、地面を一度だけ突く。そして、ゆっくりと口を開いた。
「見ない顔だね」
落ち着いていて、年を重ねた声だった。
老婆の言葉も、日本語として耳に入ってきた。もう驚きはしない。理屈は相変わらず分からないままだが、通じることに感謝した。
「.....気づいたら、森の方にいて」
また同じようなことしか言えなかった。だが、他に説明のしようがない。
老婆は、表情一つ変えなかった。信じたのか、疑っているのか、それすら読み取れない。
しばらくこちらの顔と格好をまじまじと見て、それから視線を村の外れへ流した。たぶん、川の方だ。
「森の中を一人で歩いてきたのかい」
頷く。
その時、腹の虫が間の悪い音を立てた。
情けなさで、顔が熱くなる。
老婆の目が、ほんの僅かに細くなった。
「.....腹が減っているね」
否定する元気もなかった。
老婆は杖をついたまま、こちらへ二、三歩だけ近づいてくる。間近で見ると、手首も首筋も細い。けれど、杖を握る手には力があった。
「ここは豊かな村じゃないよ。見れば分かるだろう」
視線が、自然と畑の方へ向く。
乾いた土。勢いのない葉。黙々と鍬を振るう女の痩せた背中。
「ここらは、近頃雨が足りないんだ」
老婆は続けた。
「しばらく、まともに降っていない。降ったと思っても、土の表面を濡らすだけですぐに終わる。川が枯れないだけ、まだましな方さ」
風が吹く。
「それに加えて、この前の戦争で働き手の男たちが連れて行かれた。たまったもんじゃないよ」
やせ細ったこの土地で、誰もが骨ばった体で手を動かしている。
「食うものが減れば、人は細る。雨が来なければ、畑は痩せる。戦のせいで流れてくるものもいるし、取られていくものもある。ここは焼かれていないが、無事でもない」
言葉は、静かだった。大袈裟に嘆くでもなく、怒鳴るでもない。
老婆はもう一度、こちらの格好を見た。
「名は」
一瞬、喉の奥が詰まる。
名前を言うくらい、何でもないはずだった。けれど、口を開くのに、僅かなためらいがあった。
それでも、老婆に告げる。薄っぺらいその名前は、己の耳には残らず、抜け落ちた。
「そうかい」
それから少し間を置いて、
「ここでは、立っているだけでは腹は膨れないよ」
老婆は、そう言った。
厳しい言葉のはずだった。だが、不思議と責められた気はしない。
「......すみません」
何に対して謝ったのか、自分でも分からなかった。
老婆は首に横に振るでもなく、杖の先で土を軽く叩いた。
「謝る前に、歩けるならまだ使いようはある」
その言葉に、顔を上げる。
「ここを治めているのは、今は私だ。大したことじゃない。年寄りが居残っているだけさ」
老婆は村の奥へ、視線を向ける。
「話は中で聞く。だが、期待はするなよ。あんた一人を手厚くもてなせるほど、ここに余裕はない」
追い返されはしなかった。それだけで、胸の奥で張り詰めていたものが、ほんの少し緩んだ。
老婆は、もう背を向けていた。杖をつきながら、ゆっくりと歩き出す。その小さな背中に、遅れないように足を踏み出した。
足元の道は踏み固められているだけで、石は敷かれていない。乾いているところは白っぽくひび割れ、少し窪んだところには、古いぬかるみの跡がまだ残っている。荷車の車輪が通ったらしき筋が、浅く刻まれていた。
老婆は振り返らない。
杖の音だけが、一定の間隔で土を叩いていた。乾いた、軽い音だった。
その後ろ姿は小さい。だが、不思議と見失う気がしなかった。
視線を感じた。
低い家の影から、桶を抱えた女がこちらを見ている。戸口の暗がりには、小さな子供の顔が、半分だけのぞいていた。
誰も露骨に、騒ぎ立てたりはしない。ただ、黙って見ている。その目に、歓迎の色は薄い。かといって、むき出しの敵意でもない。
よそ者が来た。だから見ていない。
それだけのことなのだろうと思った。
村の中央に近い場所へやってきた。
何かを売り買いする店のようなものは見当たらない。立派な井戸もない。あったのは、石を積んで囲っただけの浅い水場と、そのそばに並ぶ空の桶くらいだった。
近くにいた子どもが桶を覗き込み、すぐに諦めたように顔を上げるのが見えた。




