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異世界の住人

 思考が目の前の状況に追いつくと、安堵と警戒が押し寄せてきた。

 助かるかもしれないという淡い期待と、もし敵意を向けられたらどうするのかという現実的な心配。


 小屋の周囲に、目を凝らす。

 壁際には、割りかけの薪が積まれていた。古びた桶がひとつ伏せられ、そのそばに錆びた色の鍬のような何かが立て掛けられている。

 裏手には、小さな畑らしきものまで見えた。土は干からび、植わっているものにも元気がなさそうだ。


 その時だった。

 小屋の裏手から、乾いた音がした。

 木か何かを叩くような、鈍い音だった。

 反射的に、肩が強張る。

 息を止めたまま、音のした方を見る。もう一度、同じ音がした。今度は少し長く、何かが軋む音が混じる。


 人がいる。


 足がその場に縫い留められたみたいに、動かなくなった。

 見つかりたくない気持ちと、見つけて欲しい気持ちが、胸の中でぶつかっていた。

 第一、こんな場所で人の手が入った小屋を見つけて、誰もいない方がおかしい。


 小屋の角から、そっと裏手を覗く。

 中年の男が居た。

 無言で、鍬の柄らしきものを直していた。地面にしゃがみ込み、膝の上に木片を乗せ、刃の根元に細い楔を打ち込んでいる。

 肩幅はあるのに。肉が削げ落ち、服の上からでも痩せているのが分かった。日に焼けた首筋は固く、袖をまくった腕には、細かな傷がいくつも走っている。

 手はひどく荒れていた。指の節々が太く、爪の間に土が詰まっている。


 こちらに気づいていないように見えた。いや、気づいていて無視を決め込んでいるだけなのかもしれない。

 迷いに迷った結果、ようやく口を開く。

「あの」

 声は思ったより掠れていた。

 男の手が止まる。ゆっくりと、顔が上がる。

 目が合った。

 男の目には、歓迎の色はどこにもなかった。ただただ、見慣れないものを値踏みするかのような目だった。

 逃げるべきか、追い払うべきか、そんな二択を選んでいるのだろう。

 

 男は立ち上がらなかった。しゃがんだまま、じっとこちらを見ている。睨んでいるわけでも、見つめているわけでもなく。

「......何者だ」

 低い声だった。

 その言葉は、意味を持って耳に入ってきた。


 一拍遅れて、その事実に驚く。

 通じた。

 日本語を話しているのか、日本語のように聞こえているだけなのか、それとも頭の中で勝手に変換されているのか、理屈は分からない。分からないが、通じたことが全てだった。

 少なくても、会話はできるらしい。ほんの少しの安心を得た。

 だが、男の問いに対する答えは詰まった。

 何者だ、と聞かれても困る。違う世界から来た、なんて言えるわけがない。言ったところで、まともに取り合ってもらえるとも思えない。

「.....その、気づいたら、森の中にいて」

 なるべく嘘を使わずに、男に伝える。

 男の目は、少しも緩まない。

「村の者ではないな」

「たぶん」

 たぶん、という返しもどうかしている。だが、そう言うしかなかった。

 男は小さく息を吐く。呆れているようにも、面倒くさそうにも見えた。けれど、それ以上問い詰めてくる様子はなかった。

 

 男は鍬を脇に置いて、立ち上がる。

 近くで見ると、思っていたよりも年上に見えた。四十をいくつか超えているのかもしれない。

 背はそこまで高くないが、長く働いてきた体つきに見えた。痩せてはいるが、貧弱そうではない。目の下には、薄く陰が落ち、頬はこけている。

 男の視線が一度、こちらの服を捉えた。

 みすぼらしい布切れのような衣服を見て、何か察したのかもしれない。だが、同情や哀れみは一切なかった。

「ここにいても何もない」

 男は淡々としていた。突き放すでもなく、助けるでもなく、ただ事実だけを言った。

「町、というか......人のいるところか」

 こちらとしても、何の情報もなく、立ち去ることは出来なかった。

 男は黙って、顎だけを少し動かした。

 小屋の向こう、川の下流側を示しているらしかった。

「川沿いに下れ」

 短い。

「半日も歩けば、小さいが村がある」

 男はもうこちらをみるのを、やめかけていた。用は済んだと言いたげに、地面に置いた鍬へ手を伸ばす。

「あの」

 また呼び止める。

 男の眉が、僅かに動いた。

「......ありがとうございます」

 男は、何も返さなかった。少し間をおいてから、鍬を持ち上げる手を止めたまま口を開く。

「兵や流れ者に見つかる前に行け」

 男の忠告を、胸にとどめる。

「あと、森から外れたら道を選べ」

 もうそれ以上の言葉はなかった。


 男は、また作業へ戻ってしまった。楔を押さえ、木槌を握りなおす。

 かこん、と乾いた音が鳴る。さっきと同じ音だった。

 追い払われた、とまでは言えない。しかし、歓迎されていないことだけは、痛いほど分かった。名前すら聞かれない。こちらの事情に、何の興味もないのが伝わってきた。

 それでも、方角は教えてもらえた。それだけで十分だと思うしかなかった。


 小屋を離れる前に、もう一度だけ振り返る。

 男は背を丸め、何事もなかったように働いていた。痩せた背中が、太陽の下で黙って上下している。その姿は、あまりにも小さかった。

 川の下流へ向き直り、足を踏み出す。

 背後でまた、かこん、と音がした。


 男の居た小屋から少しずつ距離が開いていく。時折振り返っていたが、木々の隙間から見えていた屋根も、やがて枝葉の向こうに隠れた。



 川沿いを下る。

 水の音は歩いている間、ずっと耳のどこかにあった。途切れそうで途切れないその音だけが、今いる場所がどこかへ繋がっているのだと、教えてくれる。

 森の中の空気は、相変わらず湿っていて、肌にまとわりつくようだった。陽は高くなりつつあるらしく、木漏れ日が少しずつ白さを増していく。


 半日も歩けば、と男は言っていた。

 半日、という言葉が、どれくらい信用できるか分からない。自分の足で歩ける半日なのか、この世界の人間の足で歩く半日なのか、それすら曖昧だった。

 それでも、男の言葉に縋るしかなかった。


 しばらく歩いていると、森が少しずつ薄くなっていくのが分かった。

 頭上を覆っていた枝葉の密度が減り、川辺に差しこむ光が広くなる。足元の土も、ぬかるみから乾いた土へと変わっていった。


 腹が鳴り始めた。

 そういえば、何も食べていなかった。


 昨夜の夕飯を最後に、もう随分時間が経っている。水を飲んで落ち着いた気になっていたが、胃の中は空っぽのままだった。

 そして今、空腹を意識した途端、足の運びが重くなる。

 そうは言っても、食べられるものが、そこらへんに都合よく生えているわけもない。

 川の近くに低い草や木の実らしきものは見えたが、口にしていいものか分からない。だって、ここは異世界だ。毒があったら笑えない。


 今は歩くという選択肢しかない。ないにもかかわらず、頭の中では嫌な想像ばかりが増えていく。

 本当に村があるのか。男は適当に言っただけじゃないのか。仮に言っていた通り、村があったとして、果たしてよそ者を受け入れてくれるのか。そもそも、こんなみすぼらしい格好の人間が突然現れて、まともに扱ってもらえるのか。

 

 足は進んでいるのに、思考だけが立ち止まりそうになる。

 そのたびに、川を見る。

 水は変わらず流れていた。石に当たり、光を弾き、何事もない顔で下流へ向かっている。その平然とした流れが、妙に腹立たしくもあり、ありがたくもあった。


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