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恋焦がれた異世界の空の下で

 草の匂いで目が覚める。

 瞼を開ける。あるはずの天井はなく、代わりにあったのは、限りない大空だった。

 これは夢なのか。現実なのか。

 頬をつねってみた。痛かった。

 指先に引っ張られる皮膚の感触も、じんと残る鈍い痛みも、妙に現実的だった。


 異世界に来ることは、成功したらしい。

 ここから胸躍る冒険か、国を救う英雄となり、冒険譚や英雄譚の主人公になれるはずだ。

 しかし、心の中は驚くほど静かだった。もっと、現実味のない高揚とか、血が湧きたつような興奮とか、そういったものが一気に押し寄せてくるのだと思っていた。

 実際には、何もなかった。波が立っていない穏やかな海のように。

 

 青き大空に、雲が旅をしていた。

 電線も無ければ、ビルもない。飛行機雲さえない。


 頬の横で、草が揺れている。

 背中の下の地面は少し湿っていて、冷たさが伝わってくる。


 恋焦がれていた異世界にやってきた。

 現実とかけ離れた場所。就活のことも、将来のことも、自分の情けなさも、切り離された場所。

 願いは、たぶん叶った。本当は、手放しで喜んだ方がいいのだろう。

 だが、起き上がる理由が、すぐには見つからなかった。

 雲を目で追って、草の匂いを吸って、ただぼんやりしていた。何かを考えていたわけではない。むしろ、何も考えないようにしていたのかもしれない。

 

 どれくらい経っただろう。

 唐突に、危機感と恐怖が一緒にやってきた。優しく警告しながら近づいてはくれなかった。気づいた時には、喉元に鋭く尖ったものが触れていた。

 急いで上体を起こす。

 風景が、少し揺らいだ。手を額に置き、座り込んだまま、周囲を見回す。

 見渡す限りの草原だった。膝くらいまで伸びた草が、一面に広がっている。その向こうに、少し濃い緑を見た。森かもしれない。遠くには、なだらかな起伏があるだけで、建物らしきものは何も見えなかった。

 何もない。

 その事実を、突きつけられた途端、一気に焦りが入り込んできた。

 人は?水は?食料は?

 そもそも、ここは本当に人間が住んでいる世界なのか。

 異世界に来たいと願っておきながら、肝心なことを何一つ考えていなかった。

 もし、本当に来られたとして、そのあとどうするのか、どう生きるなんか。そんなこと何も考えていなかった。

 現実から逃げたい、そんな理由だけで世界を変えて、何とかなるはずがないことなど少し考えれば分かることだ。


 自責を始めかけていた時だった。不意に、何かの音が聞こえた。

 風が草を擦る音とは違った。もっと細かくて、絶えず続いている音だった。

 心拍数が急激に上がっていくのを感じながら、更にこの世界に来た事を後悔し始めた。

 その音は、遠ざかる気配も近づく気配もなかった。


 意を決して音のする方へ向かう。

 草原から木々が生い茂る森の中へ。

 足元の地面は、思ったより柔らかかった。歩く度に、服がやけに頼りなく擦れた。

 森に近づくにつれ、草の匂いに、土の湿り気と木の青臭さが混じる。

 森の中のは、ひんやりとしていた。枝葉が陽を遮って、地面は少しぬかるんでいた。

 

 音はまだ途切れることなく、耳に届いていた。

 耳を澄まして歩いていくにつれ、それが水の音だと気づく。こんな森の中で、水の音なんて、頭があまり回っていなくても分かった。

 水が流れていると分かった瞬間、急に喉の渇きを覚えた。

 足が段々速くなる。

 木々の間を抜けた先に、光が見えた。

 その先に、川があった。

 浅くて、透明な川だった。

 太陽の光を受けて、水面が細かく揺らいでいる。流れは、そこまで速くない。

 川底の石まで見える透明度に、一種の感動を覚える。


 思わず、息をつく。

 川辺まで近づいて、膝を折る。

 水面に反射している自分の姿が、目に入った。

「......は?」

 間抜けな声が漏れた。


 昨日の夜、寝る前まで着ていた服じゃなかった。

 Tシャツでも、スウェットでもない。

 色の褪せた、みすぼらしい布切れのような服だった。袖も裾も、擦り切れていて、所々穴が空いている。まともに繕った形跡すらなくて、誰かのお下がりを、さらに使い潰したような代物だった。


 神よ、流石に初期装備にしても酷すぎないか。

 異世界で最初に見た自分の姿が、この有様だ。

 英雄譚どころか、物語冒頭で死にかけて名も記されない村人みたいだった。

 

 ここで、乾いていた喉のことを思い出した。

 手を川の中へ入れる。水の冷たさが、腕から上へとのぼってきた。その感触で、この世界が夢ではないことを、また思い知らされる。

 両手で、清流の水をすくう。指の隙間からこぼれるそれを、そのまま口に運んだ。

 乾ききった喉を通っていくたびに、体の奥でこもっていた熱が、少しずつ外に出ていくのを感じる。

 二度、三度、手で掬って喉を潤す。

 夢中になっていたせいで、口元からこぼれた水が顎をつたい、首筋へ流れた。だが、そんなことを気にする余裕はなかった。


 ようやく一息つく。


 膝をついたまま、しばらく川面を見つめた。

 水は絶えず、流れ続けている。石に当たり、光を弾き、冷たい音を立てている。

 異世界だろうが、水は水だった。


 もう一度、顔を上げる。

 森の向こう側までは、見えそうになかった。木々が重なって、その先を隠している。

 川沿いに進めば、どこかへ出られるだろうか。それとも、もっと深い森へ迷い込むだけなのか。

 分からない。

 分からないが、ここで立ち止まっていたら何も起きない。

 どうしようもない弱虫は、小さな勇気を振り絞った。


 川の水で口元を軽く拭い、立ち上がる。

 濡れた手の冷たさが、指先に残る。服の裾で適当に拭いてみるが、元々ぼろい布切れは水は吸って、さらに頼りなくなるだけだった。


 川沿いを、歩いてみることにした。水がある場所なら、誰かしらいるかもしれない。

 そんな根拠のない完全なる勘で、歩く方向を決めた。


 足元には、石と湿った土が混ざっていた。所々で草が生え、低い枝が行く手に垂れている。

 森の中は、じっとりと湿っていて、肌にまとわりつかれる感覚だった。

 

 しばらく歩く。

 相変わらず、人の気配が微塵もない。

 鳥の鳴き声らしきものは、時折聞こえてくる。遠くで何か小さな生き物が、草木を揺らす音もした。だが、耳に届くのは、それだけだった。


 不安がまた焦りと手を組みながら、戻ってきた。

 本当に、誰もいなかったらどうしよう。

 このまま歩き続けるとして、夜になったら?空腹が襲ってきたら?雨でも降ったら?

 頭の中に次々と、浮かび上がってくる最悪の妄想を、振り払うように足を進める。

 今は、進むしかなかった。


 余計なことを考えないことに集中していたら、少し先の川幅が、僅かに広がっていることに気づいた。

 流れが緩くなり、水面が鏡のように、空を映している。その端に、踏み荒らされたらしき土の部分が見えた。

 しゃがみ込んで、そこを注意深く観察する。

 足跡だった。

 獣のものなのか、人間のものなのか。山が近くになかった人間には、一目では分からない。ただ分かったのは、何かがここを何度か通ったということ。

 土がそこだけ固くなっていて、草も薄くなっていた。


 頭の中では、期待と不安が混在している。

 息を潜めるように、周囲を見回す。けれど、獣の姿も、人間の姿もなかった。

 足跡を辿る。先程よりも、より一層警戒心を高めながら。


 川から少し離れ、細い獣道に入る。

 草は膝より少し低く、所々踏まれていて寝ていた。

 意図して作られた道ならば、少し心許ない。しかし、どこかへ繋がっている期待感があった。


 木々の密度が、徐々に薄くなっていき、前方の光が僅かに開けた。

 足を止める。

 それを、最初は倒れた木かと思った。色が周囲の土や木とあまり変わっていなかった。だが、一歩進んだところで、それが自然物ではないと分かった。

 小屋のようなものだった。小屋というには、あまりに粗末な建物で、どうにか形を保っているだけに見えた。

 木を組んで作られているらしい。壁は板を継ぎ合わせただけで、明らかに隙間も多い。屋根は、藁なのか古い布なのか分からないものが被せられ、その上から板や枝で押さえつけられていた。

 風雨に晒されてきたのだろう、全体がすでに傾いて見える。

 決して、まともな家には見えなかった。それでも、紛れもなく人間の手によって作られたものだった。

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